酔いたい夜【ショートストーリー】

 僕は酒を飲まない。理由はいくつかある。まず、頭が痛くなること。それから、父をはじめとして、学生時代の先輩、友人、どこを見ても酔っ払いにはろくな人間が居なかったこと。経験則ではあるが、根付いてしまったイメージというものはなかなか払拭されないものだ。そして何より最もたる理由は、酒が苦くて不味いからだ。

 とは言え、酒を飲まないと言うだけで、酒に恨みがある訳ではない。我が物顔で延々と語られる酒のうんちくは聞くに堪えないが、話を振られてさりげなくおすすめの酒を紹介している上司を見ていると、格好良いなあと少し憧れたりもする。

「あ、それ有名なんですか。」
「ん?有名といえば有名だけど・・・興味ある?」

 会社の歓送迎会の二次会で行ったバーで、先述の上司が聞き覚えのある品名の酒を頼んでいた。

「妻が飲むんですよ。多分同じやつじゃなかったかな。」
「へぇ。いい趣味してるね。」

 僕の妻は酒を飲む。特にウィスキーのような、強い酒を好んでいる。ただし、特別酒に強いという訳ではなく、グラス一杯飲みきらないうちに、彼女はいつもすやすやと眠ってしまう。

「じゃあ、本当は一緒に呑みたいんじゃない?」
「そうかもしれませんね。」

 上司の前に置かれた氷入りのグラスに、トクトクと音をたてて琥珀色の液体が注がれる。とろりとした液体。それを見る彼女のとろりとした目を思い出す。美味そうだな、とは思うけれど。顔を近づけた途端に鼻をつく強いアルコール臭に、いつだってほんの少し抱いた期待は跡形もなく霧散してしまうのだ。

「美味しいですか。」
「リラックスできるかな。」

 私も溶ける気がする、と彼女は言った。正直、彼女の言ったことなんてほとんど聞き流してしまって覚えていないのだが(そしてそれが原因で度々小言を言われるのだが)、その時のことだけはよく覚えている。それは多分、何というか、いつも緊張しているように見える彼女がとても無防備に見えたからだった。

 そうか、彼女はあの時リラックスしていたのか。

 酔っ払った彼女は、いつもより体温が高い。くっついた肌からじわりと温度が伝わってくる。やわらかい体がしなだれかかってくると、二人の境界線が溶け出してしまうような気さえする。

「酔うのは気持ちいいよ。」

 酒を飲まない僕は、しかし上司のその言葉に共感を覚える。僕はきっと、彼女を通して酔っているのだ。

「自分が信じたいものだけ見えるようになるからね。」

 その瞬間、すっと店内の喧騒が遠ざかった。隣に置かれたグラスの中で、氷がカラン、とやけに明瞭な音を立てた。

 隣に視線を向けると、胸ポケットに伸びかけた手が、我に返ったように止まったところだった。やはり僕はこの上司を好ましいと思う。小さなバーだ。ちらほら喫煙している人だっているのに。

「すみません、灰皿お願いします。あと、同じものもらえますか。」

 隣のグラスを指してそう言うと、少し驚いたような顔で彼はこちらを見た。店員は、すぐに僕の目の前に小さなガラス製の灰皿を置いた。それを隣に寄せてやると、彼はしばしその灰皿に目を落とした後、ふと息を吐いた。

 彼が静かに笑みを浮かべるのがわかった。空気が弛緩して、喧騒が戻ってくる。今度こそ胸ポケットから出された箱。煙草を吸わない僕には、馴染みのない銘柄だ。しかしそれは、きっと甘い香りがする。

 酒を飲まなくても、酔いたい夜がある。彼女がここに居てくれたら、そう思って、僕はひっそり苦笑いした。


                                おしまい。

                                                     


 

 

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