【今更】白塗り好きコスプレイヤーによる映画『ジョーカー』の感想
※このnoteは『ジョーカー』および『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』を観たあとに読んだほうがいいです。
クラウス・ノミからジョー・力一まで、白塗りが気になるはやしです。
コスプレイヤーとして、白塗りをしたこともあります。『ジョーカー』の冒頭のアーサーが白塗りしてるシーンとか「更衣室での俺じゃん」と思いながら観ていました。
「道化を演じるピエロ」を想像していただければわかりやすいかと思いますが、白塗りってメイクで本性を隠しているような、それゆえの孤独感があるように思えて好きです。
なにかの本でデーモン閣下が「人間の姿の自分を見られて『あぁ、デーモンってこんなやつだったんだ』とガッカリされるのが怖い」というようなことをおっしゃっていて(まぁ閣下の白い顔は塗ってるのではなく素顔ですが)、その姿ゆえの苦悩があるのだなと思わされたことが心に残っています。
それはジョーカーとして生きるアーサーにも、感じられるものだと思います。
同時に白塗りって、「インパクトのある姿をした自分だけが一人歩きしてしまう」という面があると私は考えています。
『フォリ・ア・ドゥ』でも、アーサーのジョーカーとしての面だけが一人歩きして、世の中で勝手に期待されてしまう様子が描かれていました。最初のカートゥーンも、ラストで一人歩きしてしまったジョーカーによって、アーサーが殺されてしまうことを暗喩していたのだと解釈できます。
それは私自身も、白塗りをしてみて共感できました。はじめて人前で白塗りをしたとき、友人は「はやしのそういうことしちゃうとこ、好きだよ」と、私の中身を褒めてくれました。それ以降「道化ができる自分を演じていたほうが楽だな」と感じる場面も多くあったりして…。
そこもまた白塗りゆえの孤独ということで、さらに魅かれてしまうのですけどね。
ちょっと話がズレますが、月明かりの下、リーがアーサーにペイントを施しているシーンが、私はとても好きでした。
でも『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』もそうでしたが、最近のハーレイはジョーカーなしでも生きていけるくらい強いのですね。
クレイジーなリーにはとても惹かれたのですが、やっぱりジョーカーの部分だけに恋をしていたのだなと気づかされたとき、ちょっと、悲しくなってしまいました。