シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのはち
やや離れた所から曖昧になってゆく記憶を辿っている。
あ、あくまで記憶ですからね。記録じゃあなくて。
そして「ドラマンスは 」は場所を変えて発信される。10月からはじまるTBSラジオ「景山民夫のスーパーギャング ピテカントロプスの逆襲」がそれ。月曜日25時から27時までの生放送。アシスタントは村上里佳子さん。
その中の26時からの30分が「ドラマンスラジオショー」だった。
景山さんは原宿ピテカントロプス・エレクトスの常連でもあった。最後はあんなことになったが、メディアでいち時代を作った人だった。若い人はアニメ「遠い海から来たCoo」の原作者と言った方がわかりやすいかな。
「タモリ倶楽部」収録の合間に、構成作家の佐々木勝俊さんとたくさん話させていただいたことがある。佐々木さんは「ヤング720」に出ていた景山さんに憧れて師事した人。「ENKA TV」とか「恋はパッキン」でご存知の方もいるでしょうね。
この時聞いた景山さんのエピソードが面白かったなあ。一時期払い下げの消防車に乗っていたが佐々木さんがそれを譲られて困ったことがある、とかね。消防車に乗る、ってなんなのよ?
景山さんのエピソードは枚挙にいとまがない。
「ドラマンスラジオショー」は当日の19時に集合して録音したものを番組内の26時から流していた。
シティボーイズ、いとうせいこう、中村ゆうじ、時には竹中直人の出演。作家は宮沢章夫。
自分は人力舎に入った2月から毎週この収録に行かされた。
茂一さんがやりたいことのニュアンスを宮沢さんに伝え、それを台本におとしこんだやつをスタジオでああだこおだやりながらブラッシュアップして録っていく。
驚いたのは茂一さんの音へのこだわり。時にはSE(効果音)がイメージと違うと言って30分以上かける。
たとえば「ドアがちょっと薄いかんじだねえ。もう少し厚いかんじで。」とか。
その度にミキサーさんは倉庫まで走って違うSEの音源を取りにいく。あまりに凝るものだから途中で時間になり、生本番のためにディレクターがいなくなってしまう。そこでただいるだけの自分が音出しとかを手伝うことになる。
リピート系のネタが多いのでその都度曲を入れたりSEを入れるパターンが多くなるのだが、当時はまだ6ミリのオープンリールテープをいちいち手動で巻き戻さなくてはいけない。
きっかけセリフでスタート、ストップ、巻き戻し、手動でテープに書かれている印まで頭出し、スタート、ストップ、巻き戻し、頭出し、その繰り返し。役者時代でもそんな操作した事あまりなかったので緊張した。
「操作間違ってテープ切らないでね。」なんてプレッシャーかけられる。こちとらシロートなんですけど。
「集まれ◯◯! ラジオ伝言ばーん!」なんてのがあって、たとえば雑誌「BURRN!」とかのバンドメンバー募集の欄を読むだけなのだが。
「俺たちは背徳と退廃のオルタネイティブバンド。ボーカルとギターとベースとドラムを募集。一緒に堕ちようぜ!」
みたいな自意識過剰な文言を読む(当時はまだそんなのが多かった)。その度ビートルズの「COME TOGETHER」のおちサビがかかるだけなのだが、声で聞くと客観性が生まれてそのギャップが妙に面白く、なんだか何度も聴きたくなる。
時にはシロウト臭い声が欲しいということで自分が読むはめになった。シロウト臭い…。少し傷ついた。
ある時は茂一さんが全然スタジオに現れない。1時間半くらいたってから、
「MELONのミックスが終わったぞー!」
と言いながら茂一さんが入ってきた。
「MELON」は元「プラスチックス」の中西俊夫と佐藤チカのグループ。茂一さんがプロデュースしていた。
そしてスタジオサブでミックスしたはかりの曲をかけ始める。
爆音! 茂一さん、ノリノリ。
スタジオ内と違ってサブの外へのドアは開けっ放し。苦情が来そうで気が気じゃないですよお。スタッフさんたちは諦めたような表情。ノリノリは30分くらい続いた。当然その日も本番が始まってからも収録は続いた。26時ギリギリ。
この番組の収録はいつも面白かったなあ。
音そのものや声のトーンへのこだわりの強さにも驚くと同時に感銘もうけた。
たまに、「休憩しない?」なんて言って、あの林美雄さんが入ってきて寿司桶とビールのあるところまで誘ってくれたりしたことがあった。林さん、憧れのラジオパーソナリティーだった。後年、日本よく飲みに連れて行ってもらった。林さんのことは別に書く。
ただこの番組、遅くまで付き合うと大変なことになるのよ。
収録終わりに必ずと言っていいほど大竹さんに世田谷あたりのお店に付き合わされる。酒を飲まない方だから珈琲をね。しばらくすると大竹さんの友達がサンサンゴゴ現れる。その方たちは酒を飲む。大体27時くらいになると、「もう帰っていいぞ。」とリリースされるが、うちに帰りつくのは4時近くになる。
で、次の日火曜日は大竹さんのレギュラー番組、テレビ東京午前中の生ワイド「おもしろプレヌーン」。10時30分OA開始で、決められた局への入り時間は午前8時半。
寝る時間ねえじゃねえか!
で、東京タワー脇の局に入ると既に大竹さんは台本を読んでいる。
「遅いぞ!」
次の週もっと早く入る。
「遅いぞ!」
次の週、もっと早く入ってみる。
「遅いぞ!」
寝てくれもっと。早く入りすぎでしょ。どれだけ早く行っても先にいるよ。遅くまで珈琲のんでたでしょ!
この「プレヌーン」の話も別に書こうっと。
茂一さんはただコントをやっていい曲をかけたいというわけじゃなかった。何かしらの主張も持っていた。「楽しいテレビ」では「無関心」であることの危機感みたいなものを笑いにしていた。ノーテンキに生きていることを笑っていた。
「それでいいのかキミい?」って。
チェルノブイリ原発事故の前なのに示唆的な内容もあった。
ラジオのスタジオでもたびたび内容について、ベースに思っていること、思想的なことをを演者に伝えていた。
数年後TBSテレビで「大帝国劇場」という番組が始まる。当時TBSにいた熊谷さんという鋭すぎるディレクターが企画演出していたぶっ飛んだ番組。
選曲とコーナー演出が桑原茂一さん。オシャレな選曲でした。Sandiiの「SAYONARA」とか、良かったなあ。
大塚製薬一社提供で、中でミニドラマ「連続テレビ広告/白い家」なんてのがあって、ドロドロしたお家騒動的なドラマの中で唐突に役者がCMを始めたりする。
それをちゃんとした俳優さんがやっていた。長塚京三さんや佐野史郎さんも出ていたらしいが記憶にない。
他にコントがあったり、当時時の人だった稲川素子さんが裁判長になりガラパゴス化した日本人に判決を下すコーナーがあったりする。
この番組も全体を観ればテーマがはっきり見えてくる。客観的に日本人を見て「どう思うよ?」って聞かれたような気分になってくる。
茂一さんの思想的なものは次第に強固になっていったように思えるのだ。
この「大帝国劇場」には、人力舎から3人組の「バラライカ」とか大河内浩を出演させていた。
ある日現場にいたら茂一さんから、
「太った人が欲しい。」と言われ、自分がスタジオに呼ばれた。
醜く太った裸の腹の上に米袋が置かれる。それをナイフがグサリ。米がパラパラーっとこぼれ落ちる。といったシーン。
危ないよー。腹刺さないでよー。
ここなんか象徴的よねー。茂一さんが絵面から何を表現したかったか、ね。
でもさ、映像を見てさ、自分の白いブヨブヨの腹に落ち込んだよねー。バブル時代の名残腹。
この後、桑原茂一さんはしばらくマスメディアから遠ざかったように思えたんだよ。
時間はさかのぼる。
「ドラマンス」ツアーを経て、次の「シティボーイズショー」の次の公演は、84年12月@渋谷ジァンジァン。タイトルが「コズミックダンスへの招待」。
どうですかあ?
宮沢臭しますよね。「コズミック」ですよ。「ダンス」ですよ。「ハワイ」とか「おおいばり」とかじゃないですよ。確実にシティボーイズから出てこないフレーズですよ。
「ドラマンス」を経た宮沢さんが出てます。
前作までは、「作・演出/宮沢章夫と脳ミソたち」表記だったものが「作・演出/宮沢章夫」という表記になっています。宮沢さんの存在がグッと大きいものになったという証左ですな。
ゲストは、中村ゆうじ。ついにここから参加し始めました。
そして笹野高史。なんで?
自由劇場から、寅さんシリーズの常連になり、歌舞伎の舞台なんかにも出演するようになる名優です。
他に、秋野まりこ・布施えりの常連に加え、田丸小玉が参加する。田丸さんは宮沢さんの実の妹さん。
そして年が明け、自分は人力舎に入社する。
つづくのよ。