おがわしょうじ

株式会社オガラボ代表の小川祥二です。

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最近の記事

楳図かずおさんが亡くなった。

自分の生家は新潟市のいわゆる下町といわれるところ。 歩いて1分くらいのところに金比羅通りという商店街があった。戦前からある劇場と戦後に東映映画の上映館の2軒の映画館があり子供の頃はたくさんの店がある、だいぶ賑やかな繁華街だった。新潟地震で寂れてしまったが。 生家はその一本裏手にあるしずかなところだった。町内には「デュークエイセス」のマキノさんの実家もあってね。 生家はいわゆる町屋造りというやつで、前庭中庭後庭もあり、かなり大きな家。玄関から裏庭まで土間で繋がっていた。 京都旅

    • シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのきゅう

      自分が初めて宮沢さんにあった時の話は「宮沢章夫さんのこと」として以前書いた。 人力舎に入らないか?とシティボーイズに誘われ、社長の初顔合わせも兼ねていた。 雪のちらつく1月の寒い日。千駄ヶ谷駅前のルノアール。 ユイハウス・エージェンシーの東海枝さんから、それまでの「シティボーイズショー」を発展させて、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこうを加えたユニットとして活動させていきたい。その制作をユイハウス・エージェンシーに任せてほしい、という話し合いの席だった。 ユイハウス・エージ

      • 澤田隆治さんの個人的な記憶 そのご

        曖昧になっていく記憶をたよりに極私的な歴史を まだまだ続く「にぎわい座」の話。 チラシは四日間の企画を1枚にして各月ごとに作ることにした。それをそれぞれのライブで配る。 まずはライブについている客を横浜まで引っ張っていくつもり。 が、来てくれるのか? チラシ代も澤田さんに請求。 澤田さんにはメディアへのアプローチをお願いしていたが、神奈川新聞だけが情報を載せてくれるということだった。 一社だけかあ。 自分が初めてライブ制作に関わったのは85年の 渋谷ジァンジャンの「シティボ

        • 澤田隆治さんの個人的な記憶 そのし

          曖昧になっていく記憶をたよりに極私的な歴史を そう。「横浜にぎわい座」での出張ライブ企画の制作費だ。 というか芸人への出演料をどうするか?という問題でもある。 なにしろ交通費もかかるしね。 それに持っていくライブも何年も赤字を抱えながら制作し、ようやくそのライブがブランドとして認められ始めてきたところだ。タダってわけにもいかんでしょ。 リッキーにも関口さんにもそれとなく聞いてみたが、 「お任せします。」と。 いい人たち。 澤田さんにもぶっちゃけ聞いてみた。 入場料は「にぎわ

          澤田隆治さんの個人的な記憶 そのさん

          曖昧になっていく記憶をたよりに極私的な歴史を書いている。 2001年秋、澤田さんから聞いた「横浜にぎわい座」の話。 さてさて、どうしたものか? まずは「バカ爆走!」のスピンオフを持っていこうと考えた。 同じものをやってもしょうがないので、企画物的なものをやろう。社長の稟議。 これはクリア。 「バカ爆走!」はスクールJCA卒業芸人は、暫くはどこからもオファーはないだろうと考えて、その子たちが出演できるライブを自社で作ろうと社長が考えたもの。 なんてったって芸人の成長には場数の

          澤田隆治さんの個人的な記憶 そのさん

          セルジオメンデス

          セルジオメンデスが亡くなった。 小6か中1の時初めて聴いた時、なんだかリズムが新鮮でワクワクして、女性ボーカルやサウンドがオシャレで、「これ、知ってる?」なんて友達に聞きまくった。 同級生の富取くんちへ何人か集まった時に、そのレコードがあったので驚いた。 富取くんはなんでも知っていたのだった。 その後も「フールオンザヒル」やら「ルックオブラヴ」やらバカラックやビートルズの曲の斬新なアレンジで心掴まれた。 そのころはどんどん新しい音楽が生まれていった時代。ストーンズやらツェッペ

          セルジオメンデス

          澤田隆治さんの個人的な記憶 そのに

          2002年、澤田さんからお呼びがかかった。 社長に連絡があったのだが、 「お前行ってこい。頼み事あるみたいでよお、俺が行ったら逃げられなくなるからさあ。」 要するに付き合うのが面倒だからでしょ? 「あの人に会うの、緊張するんですよ。」 「俺もだ。」 次の日神楽坂にある東阪企画へ向かった。 神楽坂は高校時代同級生の牛腸くんが住んでいた街。ここでよく遊んだなあ。 早めに行って「三好弥」で日替わり定食ご飯大盛り。エネルギー充填しとかないとパワフルなレジェンドの迫力に飲み込まれるから

          澤田隆治さんの個人的な記憶 そのに

          澤田隆治さんの個人的な記憶 そのいち

          曖昧になっていく記憶をたよりに極私的な経験談を書いてます。でも、気分はヘロドトス。 少し前に、若い人のブログを読んでいたら(アイドル関係ね)驚いた。 「あたり前田のクラッカー」なんてフレーズが書いたあるのだ。 あんたの親も生まれてない時代のギャグだろ! 自分が観ていたのも子供の頃だったし。誰かがテレビで言っていたのかしら? で、このギャグが生まれたのが「てなもんや三度笠」というコメディドラマ。 藤田まこと、白木みのる、財津一郎をスターにした。 そのディレクターが澤田隆治さん

          澤田隆治さんの個人的な記憶 そのいち

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのはち

          やや離れた所から曖昧になってゆく記憶を辿っている。 あ、あくまで記憶ですからね。記録じゃあなくて。 そして「ドラマンスは 」は場所を変えて発信される。10月からはじまるTBSラジオ「景山民夫のスーパーギャング ピテカントロプスの逆襲」がそれ。月曜日25時から27時までの生放送。アシスタントは村上里佳子さん。 その中の26時からの30分が「ドラマンスラジオショー」だった。 景山さんは原宿ピテカントロプス・エレクトスの常連でもあった。最後はあんなことになったが、メディアでいち時

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのはち

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのしち

          やや離れた所から曖昧になってゆく記憶を辿っている。 あ、あくまで記憶ですからね。記録じゃありませんよ。 「スネークマンショー/楽しいテレビ」。出演は伊武雅刀、阿藤海、竹中直人、シティボーイズ、中村ゆうじ、伊藤正幸(いとうせいこう)。脚本が宮沢章夫。 桑原茂一さんや、「スネークマンショー」に関してはもうすっかりコメントの余地もないほど有名ですよね。 自分はラジオ関東(現ラジオ日本)の時には聞いてなかった。評判を耳にして聴き始めたのはTBS時代の「生島ヒロシ 夜はともだち」の中

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのしち

          友よ

          友よ 友よ。なんて臭いタイトルだよ。あえて臭くしているんだよねえ。 大学時代の友達なんかほぼいないのね。 バイトにお芝居に忙しくて出席日数足りないどころか、試験の日も知らなくて休んでばかりで卒業まで7年もかかってしまったもんだから。友だちなんか親しくなっても先に卒業していなくなっちゃうんだもの。 でも、ま、今でも付き合いのある友人もいる。てか、40代になってから付き合いが復活した奴がいる。アイツだ。 出会い的なものは覚えてないのだが、アイツとは妙にウマがあってよく大学時代

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのろく

          曖昧で極私的な思い込みと記憶なのかしらん? 前回のをも少し詳しく。 竹中さんに声をかけた後、社長は「シティボーイズショー」を観るように勧める。 観終わってから、竹中さんは「自分はあなた方のコントが好きです。でも、自分よりもっと好きになった友人がいます。」みたいなことを言ってその友人が作家だと伝えたのだ。役者臭というか、演技を積み重ねていって笑いを作っていくというやり方に同志として魅力をかんじたんでしょうかね。 宮沢章夫さんは竹中直人さんと多摩美術大学の同級生。一緒に8mm

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのろく

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのご

          だんだんと曖昧になっていく記憶をたどったり思い込みだけで書いてみる。 竹中直人さんが人力舎に入る経緯は諸説あるのね。 「お笑いをやりたがってる奴がいるので会ってくれ」とディレクターに紹介されたと社長から聞いた気がする。 が、その話をしたら、「あいつ、人力舎に紹介したのはオレだぜ。」とミスター梅介さんに怒られたことがある。 錦糸町だか新小岩のスナックの営業で一緒になった時に「面白ぇ奴だなと思って玉川さんに紹介したんだよお、べらぼうめ!」と。 TBS「ギンザNOW!」の「素人コ

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのご

          Uという女

          その女とはシティボーイズがやった池袋PARCOのイベントで知り合った。仮にUとしておく。西武グループ系のイベント会社に勤めていた。 PARCO…、田舎者である自分にとっては完全にオシャレに響く魔法の言葉。 そのUは尋常ではない熱量でイベントを成功させようとしていた。台本があがってくるといちいち足を運んできて確認してくれといってくる。やたらリスペクト感強い。 実はわたし大ファンなんですよお。 と言ってくる。何故シティボーイズなのか?という企画書めいたものを見せられた。やたら長文

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのし

          記憶。曖昧。適当。自分で聞いたやつだけ。 備忘録でしかないやつ。 「シティボーイズ」は人力舎所属する以前、何回か「シアターグリーン」でやっている。 ある回、市村さんに声をかけられて出かけていくと「予告編大会」みたいなものをやっていた。シティボーイズは冒頭に少し喋っただけだったと思う。呆れて記憶が曖昧になっている。これは色々な劇団が10分ずつ芝居のダイジェストみたいな予告編をやるだけというもの。知らない劇団ばかりだった。シティボーイズの三人の小劇場時代の煮こごりみたいなカンジ

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのし

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのさん

          だんだんと曖昧になっていく記憶をたどって書いてみる。 前回でシティボーイズの名は、つかこうへい野球チームの名前だと書いたが(だってそう聞いたんだもん)、長谷川康夫さんの本「つかこうへい正伝」で興味深い記述を見た。 「劇団暫」の公演がない時頻繁に野球をやっていた。その野球チームの名を劇団主宰者の向島三四郎さんが「田園シティボーイズ」と名付けていたのだ。こちらの方がつかさんの野球チームより先だった。 「田園」と「シティ」のアイロニー。 三四郎さんに聞いたことがある。 「自分らの

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのさん