三島が言った「文弱の徒」から考える
三島由紀夫は「若きサムライのための精神講話」において、このようなことを書いた。
『文学と言うものはちょうど蟹が穴の中に身をひそめるように、安全地帯に籠ろうとするには最適の仕事である。なぜなら、文学は何とでも言い訳がつくからであり、文学の世界はこの現実の世界とは何のかかわりもないという前提にたって、どんな批評もできるからである。』(『若きサムライのために』 文春文庫 (1996) p88)
彼は、上のような逃避としての文学にのめりこむ者を「文弱の徒」として糾弾している。「文弱の徒」は現実世界になんらかの不満を持っており、現実世界においてその不満を解決せずに、文学にその解決策を見出す。そして、そのような者に夢や希望を与える文学は二流だというのである。
三島はこのような「文弱の徒」に夢や希望を与える二流文学を糾弾したうえで、本当の文学というものを次のように綴る。
『ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。しかし、それを遊園地のお化け屋敷のみせもののように人をおどろかすおそろしいトリックで教えるのではなしに、世にも美しい文章や、心をおどろかすような魅惑に満ちた描写を通して、この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。』(同上 p90)
つまり、三島が語るほんとうの文学とは「文弱の徒」に夢や希望を与える文学ではなく、逆に彼らに人間は報われないとさらなる絶望を与えるものなのである。そして、それは美しい文章や描写によってなされなければならないと言うのだ。
さらに、ほんとうの文学に触れた「文弱の徒」はニヒリズムの沼に陥ると彼は言う。現実世界から逃避し、その中にいる人に対して「笑う権利」を持つ錯覚にとらわれるのである。
三島は自身が「文弱の徒」であったという経験を踏まえて、「文弱の徒」の無力さを綴り、それを、それに夢や希望を与える文学を批判する。そして、彼は「絶望」や「リアリズム」を美しい文章や、描写によって表現することこそ本当の文学としたのであった。
このような三島の考えに、私は文学にある種の無力感を覚えた。それは、私が彼の言うような「文弱の徒」であり、私が文学に現実世界の鬱屈さを解決してくれるような何かを求めていたのからかもしれない。私は文学を崇高で特別な、蟹籠として感じているところがあったのである。
三島が投げた、「文弱の徒」に対するアンチテーゼ。三島由紀夫の考えでしかないと言ってしまえばそれまでなのだが、私個人としてなにか急所を触られたような感覚を読んだときに覚えたのである。文学観や文学に求めるものは人それぞれなのだが、私自身は近ごろ、文学を逃避の道具や崇高なものとして扱うことに多少の疑念をもち始めた。かといって、自分自身無力ではあるがいくつかの文章や作品を書きながらそれが下劣なことだとも、自分にとって害悪であるとも感じない。私は文学が持つ作用やその位置づけに疑問を持ちながら、文学そのものは肯定している。矛盾のようなものを抱えているのである。
そう言った中で自分としては様々なことをポートフォリオ的に行いながら、その一つとして文学というものを行っていくほうが良いと考えた。その方がさまざまな物事の相互作用によってより良い作品が書けるのではないかとも思う。つまり、文学が文学と言う崇高な蟹籠を作ってしまってはその価値はなくなるのではないか。文学とはあらゆる相互作用によってのみ成り立つのではないかと考えるのである。
「文弱の徒」である私にとって、この状態を鬱屈な現実や非文学において脱することは必要であろう。そして、その過程において何か生み出せる文学はあるのではないか。逃避によらない、「文弱の徒」によらない文学である。
「文学に絶望しながら、文学を為す。」
これが、小粒ながらも執筆している私のあるべき姿なのだろうと思う。
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