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頭は2回しか触らない

この世で最もふわふわした時間。お風呂。
今日一日の出来事を思い返したり、明日の予定を考えたり、半年後の旅行の細かなスケジュールを組んでみたり、入っている間は頭がフル回転しているのに、上がった後には対して記憶がない。体から上がる湯気とともに思考は空気の中で薄まっていく。入浴中のクロック数の増加は、まさに精神と時の部屋並のものであろう。普段は体を支えたり動かなければならない体のエネルギーも全て脳みそで使っているような感覚を覚える。
 その結果、風呂に入った時にやることはルーティンと化し、いちいち意識しないほどに美しい所作として記憶されている。触った時の浴槽との距離感、ボトルまでの腕の角度と高さ、ありとあらゆる座標が毎日再現される。人間が日々働く少し自由なルンバだとすれば、浴室の椅子の上が充電ドックである。就寝が充電になり得ないのは、ベッドではなくソファで充電切れを起こすことがあり、毎日固定された位置に戻ってくるわけでないので、寝室はドックにはなり得ない点を補足しておく。

充電ドックでの作業は毎日同じ。頭からお湯をかぶり、シャンプーをする、コンディショナーをつけて体も洗った後に、一斉に洗い流してしまう。その後顔を洗って湯船に浸かる。これ以上もこれ以下もない、特に難しいわけでもない作業だ。この繰り返しの間に脳のマッサージの末に、宇宙の果てまで思考が飛び、いつのまにか現実へと帰るのである。
 こんな間違えようのない作業にも、ミスは起こる、我々はルンバではなくヒューマンなので。ヒューマンエラーも仕様の一つである。今回発生したインシデントはシャンプーをしたにも関わらずシャンプーボトルをもうワンプッシュしてしまう、である。一見なんでもないようなことだし、実際その時にはまあ贅沢にもう一回シャンプーしちゃおーで済まされるのである。その後に起こる悲しみも知らずに。
 シャンプーを2回してしまうのはなんの問題もない。2回目はいつもより泡立つような気がするし、確実に綺麗になる達成感もあって良い。問題なのは、もう頭を2回触ってしまったことなのである。これまでの経験上1回のお風呂で3回以上頭に触れることはないのである。そうプログラムされていないから、このルンバの充電ドックには。いつもであれば、シャンプー→コンディショナーで、2回かけて頭を綺麗にするところがシャンプー→シャンプーに変わって、3回目に触ってコンディショナーはできないのである。あわあわの頭のまま体を洗い、全てを一気に洗い流す。
 この惨事に気づくのは、お風呂に上がった後、思考が現実に帰ってふと頭を拭いているときだ。いつもと変わり心地が違う髪、少し摩擦係数が高い。そのとき、今日シャンプー2回したのだと気づき少し悲しくなる。
 慣れれば慣れてしまった作業ほど感度が下がり、少しの違和感に気づかなくなってしまう。人間関係でもよく起きることだ。仲良くなった人への当たりが強くなったり、愛すると決めた人を悲しませてしまったり、できるだけ慣れずに常に新鮮に物事に向き合える人間でありたいし、関わる人にも慣れてほしくないのでできるだけ新鮮さをお届け出来る人間でありたいと、浴室の中で誓います。