21年間10ヶ月を振り返って
突然振り返ります。
誕生
1999年3月1日 京都市山科区の音羽病院で生まれる。
雄大な〜から名前をつけられたと聞いた気がする。
幼稚園
1歳でメグミ幼児園に入園。若い女の先生が無理で、おばさん先生か男の先生しかあかんかったらしい。朝、園に預けられる時いつも去る母親を見て泣いていた。
この時はとにかく遊んでばっかの生活やった。親に鴨川へ連れて行ってもらってはへばるまで河川敷を走って、体力が限界まで走った地点から折り返して帰る(今考えるとヤバイ)遊びを一人でしてた。
ひかり組(年長)の頃は、ムシキングとポケモンが大好きで将来の夢は『昆虫博士』と『ピカチュウ』だったのがアルバムに書いてあった。ピュア過ぎるけど心から思ってた。今思うとその思いは本心やと思うしええなと思った。
小学校
京都市立養正小学校に入学。クラスは6年間1クラスだけしかなかったので、6年間ずっと同じ友達と遊んだ。
入学して半年間は近くにあった学童に行ってたが、とてつもなく退屈で帰りたかった。館長さんとミッケという本(間違え探し的な)を一緒にやったがクソおもん無かったのを覚えている。とにかく当時は極度の人見知りやった。それを気にかけてくれたと今思うと、本当におもんなさそうにして悪かったなと思う。
小2ぐらいでDS買ってもらってから、ずっとゲームしていた。
学校→友達とDS→学校→友達とDS,,,の生活を送る。運動は好きやったけど、だんだんこの頃から疎遠になってきてたと思う。
小3になり、初めに自己紹介カードを書いた。趣味の欄にゲームって書いていた。ゲームって書いていたのは自分だけで、みんなと趣味が違うだけで少し恥ずかしかった、というかなんか自分だけ正直に書いて恥かいているような気分やった。そこからか、周りの目線を結構気にしてたような気がする、
学校の部活動に入れるということでそこでサッカーに出会う。みんなサッカーするから入る程度の軽いノリやったと思う。ほんまは親がバスケしてたしバスケがしたかった。
サッカーすることは多分楽しかったけど、サッカーは週一回で生活の中心はみんなでゲームしたり遊んだりすることやった。自分がサッカーをやり出したからか、弟が隣の養徳サッカークラブに入る。この流れで自分も行けば良かったが、何より人見知りやったのと外に出て知らない人とサッカーする勇気はその時なかった。
小学校で覚えてる嫌な出来事がある。インタビューの練習の授業?で当時ナヨナヨしていた金原雄大に目をつけた担任が、金原雄大に対して先生がインタビューする動画を撮ってみんなの前で流した。もちろん俺はモジモジするしそれが教室にあったごっつい画面に流れて大恥をかいた。他にも朝の発声練習で声がちっこいから中間休みに補修で発声練習したり、とにかく内気で気弱なやつでしかなかった。
他にもそろばん(2年)水泳(1年でやめた)などやったが、楽しくなかった。みんなんでポケモンとボンバーマンとモンハンしてるんが楽しかった。
ゲーム中心の生活とはいえ、親は両方スポーツやっててスポーツ主義の家庭やったのでよく親にDS叩きつけられて「外で遊べ」と言われてた。なのでサッカーと同時にやってた陸上とか、スポーツしてたら褒められた記憶はある。
結果的に小学校卒業するぐらいにはサッカーとゲーム一緒ぐらい好きになってたと思う。最初サッカーを続ける気はなく、中学はバスケしよって思ってたけど結局サッカーを選んだ。まだまだ内気でシャイやったけど、サッカーしていくうちに自分に少し自信がついてた。この時に初めて自分で決断したと思う。
中学校
高野中学校に入学。3クラスだけで、隣の養徳小学校との2つの学校から生徒が来る。小学校では1学年25人ぐらいだったので、中学になってからいろんな人と出会えることが楽しみだった。同時に居心地の良かった小学校の環境から新しい環境でやっていくことに緊張してた。毎日が不安やった。
中学になると週6で部活があり、チームは全然強くなかったのにとにかく付いていくのがやっとやった。周りは小学校の頃自分がビビってたクラブチームでやってのもあって、ほんまに自分はなんもできひんかった。余裕で弟の方が上手かったと思う、いや上手かったし余裕で負けてた。一個上の先輩から弟の方がうまいって言うてキレられた時は腹が立ったけど、結構的を得た発言だったから苛立ったし悔しかったと思う。特に弟は器用なプレーができたが、自分は不器用すぎてリフティングもドリブルもめちゃくちゃやった。できることはがむしゃらに動き回るぐらいやった。
中学の頃1年から2年生になるにあたって、身長が12センチのびて170センチぐらいまで成長していた。チームにもでかい奴がいなく、人数もギリギリでほぼ確定で試合に出れるぐらいの弱小チームやったのでデカいから、それまではDFをやってなかったが、DFをやることになった。人がいないとはいえ、MFやFWとかの攻めるポジションやってた自分を思い出すとソワソワする。結果論やけど、この時DFになってなかったらサッカー続けてない、続いてない。
もちろん中学生なのでまだまだ自分のことがわからないし希望に満ち溢れてたと思う。なので不器用ながら飛鳥井公園でリフティングしたりコーンドリブル練習してた。けど一向に上手くならんかった。その時にもっと練習しとけば今頃ドリブラーなってたかも知れんけど(ない)薄々そこやないなーって言う気がしてた。
ある日弟の試合を観に行った。小4で小6の試合にでてたから観に行った。サンガカップ準決勝ぐらいまで行ってたから強かった。そこに一際ギャーギャ声を出してチームを引っ張る選手がいた。ほぼ完璧なぐらい上手かったしそこは真似できんくても声出したりガッチャンと守備するんはやったらすぐにできるなーと思った。
その次の日の練習で、とにかく黙らんと声だして1日やり切った。練習後褒められた。今でも覚えてるけど初めてみんなの前で褒められたと思う。次の日は腹筋が筋肉痛になった。気弱な人間が腹から声を出したらこうなる。この時に自分にできないことに意識を向けて悩むのでなく、できることからやっていけばいいんだと思った。多分話す内容はうっすいものやったけどやってみてできる事が一つ増えたのは大きかった。野球部みたいやけど、声が出せるという事実から1つ武器を持ったことで、自信がついた。自信がついたことと、DFはむしゃらにやってたらなんとかなったので好循環を生んでめちゃくちゃ成長したと思う。
サッカーで自信がついたおかげで、普段の学校生活でも堂々と立ち振る舞えるようになった。入学当初髪の毛も長めやったけどサッパリ刈り上げて見た目にも変化が出てた(身長も入学から20センチぐらい伸びてた)。周りからはどう思われてたかわからないけど、確実にこの中学の期間で自分に自信がついたし人柄が変わったと感じる。卒業式の時に保護者や友達になんか変わったなと言われたから外から見ても変わってたと思う。外からの考えはわからんけど確実に自分の内側は激変した。自分に自信がつく→周りからの評価が変わる→認められて自信がつく...の好循環サイクルに入ってた。
高校
京都府立北稜高校入学。 中3の夏にサッカー引退してから、京進に入って受験勉強した。朝9時〜夜17時まで夏季講習で、その後夜18時ー21時ぐらいで勉強した。サッカーに全集中してたおかげで自信はついたが、学力はオール3あるかないかやった。やから本気でやらな行きたいところ行けへんと思い、レベルの高い環境に身をおいた。あまりにもサッカーで学校に入れるような人間ではなかったので、勉強して強いところに行こうと思ってた。当時クラブチームでバリバリやってる同い年をTwitterで見かけ、同年代の選手に憧れてたから。
塾はスパルタで、記憶が曖昧やけど2コマあるうちの1コマは説教でモチベーション上げて、あとの1コマで必死に食らいつくみたいな授業があった。ヤバイ先生ばっかやし、めちゃ怖かったけど点数伸びた時とかに褒めてくるのが嬉しすぎた。でも結果的に、高校は公立高校に行ってと言われており中学の成績の評価も兼ねての受験だったので選択肢がなかった。私立の高校も受けて合格し、行きたくて泣きながらお願いしてO Kもらったが、行かなかった。自分のレベルにあったところがいいと親にも言われ、最終自分の中で折り合いをつけた。正直勇気ある決断はできなかった、でも自分で決めたし環境に左右されずにやろうとき決める。
北稜高校に入学する
チームは強くなく、めっちゃ弱い1歩2歩手前の弱いチームやった。それである程度自信もあったし余裕でやっていけるやろと思ったけど、全然ダメやった
学年上の人がクッソ怖かったし、6時間目のチャイムがいやな日が続いた。A・Bとチームが分けられ、デカくて真面目にやってたからAにいたけど明らかについていけてなかったと思う。1年生は20人ぐらいいたけど、多分全員なんでこいつがAにいるんやろって思ってたと思う。自分も思ってた。とはいえ夏乗り越えたら慣れてきて、選手権予選も3分ぐらい出た。折れずにやれたのはがむしゃらに食らいついたからやと思う。
新チームではBにいた。シンプルに実力がなかったし、弱いチームでBチームにいる事が情けなかった。その時弟は京都サンガU15にセレクション受かって所属していた。弟に負けてる自分はダサいしこのままやとヤバイとは思いながらも、平凡に毎日うまくいかん日々を過ごした。頭では思いつつも頑張れない自分がいたし、真面目にやってたけど自分に変化を加えずに、一定の速度で頑張ってたと思う。今思うとそれは頑張れてない。
新人戦が1年の春休み前にあって、同い年が結構出てる中試合もそこそこ勝てたが、ほぼ試合に出れなかった。試合に出したくなるようなものがないと言われ自分の無力さを痛感した。へぼいチームの使えない選手というのがほんまに情けなかった。
ここでほんまに変わらんとヤバイと思い、変わらなあかんと強烈に思う。一生このままいるのが気持ち悪くて抜け出したかった。考えた末に結論はがむしゃらにやる。これしかおもいつかんかった。
具体的には遠征前・遠征中の試合に全部出る、お願いして全部出た。 遠征前(30分×4本)遠征中(30×10本 30×12本 30×10本)でた。最後の方は立ってるだけでしんどかったけど、やり切ったあとは清々しかった。遠征後には試合に出れたけど、春休みに怪我してインハイ予選は無理やった。
安パイに過ごすよりも、何かに挑戦したりしんどくても夢中になって過ごしてる時の方が幸せやったと思う。上手くなりたい・高いレベルでやりたいという願望が、弟や身の回りにあってそれを目的にサッカーしていた。チームの目標にはベスト8という弱小校が目指しそうな目標があった。もちろん試合には真剣に勝ちたいと心から思ってたし、この目標を口にはしていたけど正直心の中では憧れていたクラブチームや下部組織の選手に追いつきたい、あのようになりたいという目的でサッカーをしていたと思う。あのレベルにいれば周りからチヤホヤされると思ってたのかも知れない。変わってるかも知れへんし、目標を追うのが普通のが一般的やと思うけど、目標というより憧れてた存在になりたいというのが本心やった。心からそう思ってたし、やから結果が欲しかったんやと思った。(高いレベルにいる事が幸せかは置いといて)
もっとヤバイ環境で死ぬ気でサッカーしてる奴がいると思ってたし、(大学なって色々聞いたらあってた)それに比べれば甘々な環境だと思ってた。それと元々後ろめいたことは嫌いだったので、真面目に生活してたから自分の代ではキャプテンになりそうな風潮があった。今まで実績というものもなかったし、何かなし遂げたこともなかったので勝手に決まった感もあったけどやり切る決断をした。今思うと大した決断でもない気がするけど、平凡な人間からするとめちゃくちゃ腹を括ってやり切ろうとしてたと思う。キャプテンになったけど何か自分が変わるわけでもないから、毎日大変やった事が頭に残ってる。周りにモノ言うのも苦手やったし、一個下とは仲が悪かったし、新人戦もインハイ予選も勝てへんかった。新人戦でコーナーキック時マークしてた中学の同期にヘディング叩かれたて負けた時に、心に穴が空いたから坊主にして気をまぎらわしてたかもしれん。晩飯は食べれたけど、朝と昼は食欲なかった。
インハイ予選も3回戦ぐらいで負けて、その後受験で半分ぐらい同いが辞めた。1番頼りにしてた奴がやめた時にはガチでご飯の味がせんかった。その影響で大学にサッカーで行けるわけもなかったので受験勉強もしなあかんと思った。同時に一個位したと仲も悪かったけど、受験で抜けたり辞めたりで同い年が11人いなかったから一緒にやらんとあかんようになった。ほんまに嫌いやった。受験勉強・後輩とサッカーする・キャプテンとしての振る舞いなど先の見えへん日々が引退まで半年ぐらいあった。現状維持ではどうにもならんと思った。なので先の結果は分からんけど、毎日これでもかとやり切れば結果を受け入れられると考え、後悔しいひん毎日燃え尽きるぐらい生きようと思った。2部練→塾のサイクルを夏休みは繰り返した。とにかく後ろめいたことが思い浮かんでも、表には見せんように自分が染まらんようにしようと思った。
結果的に、いやでも一緒にいると後輩は好きじゃなかったけどゴリラいじりしてくれたおかげで仲良くなれた。受験勉強も指定高推薦やけど決めれた。選手権予選も当時京都府1部リーグにいた相手に勝てて4回戦で負けたけどベスト16までいけた。半年前に自分が潰れそうになってた不安に思ってたことを全部追って取り切れたのは人生で一番嬉しかった。後輩と仲良くなったのも本当は思ってるほど仲が悪くなかっただけかもしれへんし、進路決めたのも夏の塾の勉強が関係ない指定校推薦やし、試合勝てたのもたまたまかもしれへんし、全て結果論で正当化してるけどあの時現状に止まってたらなんか全部取れへん気がして寒気がする。
完璧に過ごせたかと言われば塾休んだり練習やばい時に弱くなったりしたから答えはNOやけど、半年現状維持で耐えながらやり切るより何かを取りに行くような攻めのスタンスを取ったのは正解やと今思う。あんまり有りがちな言葉は好きじゃないけど、行動が全てみたいな考えはその通りなんやと思う。
大学
龍谷大学入学。 ずっと一緒にやりたいと思ってたレベルの選手とできる環境がサッカー部にあったので、なんとか運よくセレクションに受かってサッカー部に入部。入ってから初めの方はほんまについて行ける気がせんかったと思う。場違い感すごかったと思う。ポゼッションできなさすぎて「伸びしろ」って言われてたし呆れられてたと思う。1年間余裕で公式戦に出れなかったし、練習試合もそんなに出れへんかったと思う。
2年になってIリーグ(公式戦)にでれた(自分の頑張りというかポジションに空きが出た)。その試合に勝てたことやポジションが空いてたこととかで2年は何試合か試合に出れた。90分の真剣勝負で勝つことの爽快感はやっぱり何事にも変えられんものやと思う。
当時Bチームに所属していてBの公式戦が終わってもトップチームの公式戦が残ってて自分たちには公式戦がない期間があった。別にカテゴリーに決まりはないし頑張って上目指せよと今思うが、めちゃくちゃモチベーション低かったと思う。多分Bで試合に出るだけで満足してたし、この年は結局チームは降格してしまって勝ててない状況やったけど自分のBは勝ててたから良しすごいみたいな、今思うとクソしょうもない、というよりめちゃくちゃダサい考えでやらない理由を探してたと思う。自分が大学サッカー生活で2年のこの時期が一番試合に勝てたし、試合にも出れたけど、しょうもない過ごし方を大学2年の最後にしたと思う。弱小チームでサッカーやってて試合に勝てへん時でも諦めん自分の方が断然かっこいいと自分で思う。
3年になってある記事で、『スポーツの価値は過程にある』『結果だけならジャンケンをやるのと変わりない』という感じ(解釈が合ってるかわからん)記事を見た。自分の高校と大学の経験と照らし合わせて、前者の方が後者よりレベルは低いが、自分が熱量を注いだ量が違うからか幸福度が違うことに気が付いた。試合に勝つのは嬉しいけど、幸福度を最大化するためにも普段の練習を大事にしないといけないと思い反省した。真面目に取り組む方が自分らしくてしっくりするし、もうあんなにダサい振舞いはしないようにしようと思った。
リーグ戦の前期は試合に出れたけど1勝もできなかった。後期には1試合しか出れなかった。それも自分の実力ではなくイレギュラーがあって自分を出すしかない状態での出場やった。大学2年の時よりも後悔しないように心燃やして取り組んだが結果は対照的やった。
自分だけやればチームは勝てるわけでもないし、でも本当に自分がすごい選手なら勝ててたかもしれない、本当に頑張れていたのか分からんかった。自分は頑張っている感を出してただけやったのかもしれない。ただ認めて欲しかっただけやったかもしれん。薄々そんな感じがした。ずっと承認欲求で動いてたと思う。
ごちゃごちゃしててなに言うてるか分からん。とにかく今思うんは周りに認めてもらうために頑張るっていうのは、なんか違うなと今書いてて思う。頑張ったり前向きに生きることは大切だと思うけど、何か違和感がある。前向きにポジティブで在るからこそ幸せがついてくるという順番が正しいのか。
とにかく3年目シーズンは終わった。最後昇格を決めて引退した一つ上の代はカッコ良かったし、本気で嬉しかったけど自分の無力さも感じた。
4年になって副キャプテンになった。入部当初から考えると考えられなかったことで当時は嬉しかったけど、今振り返るとそんな喜ぶことでもないと思う。投票やって選ばれたのは本当にありがたいことやと思うけど、大事なのは副将としてどう振る舞うかやし、たかが副将ぐらいで誇れることでもないと思う(悪くは思ってないけど、なった後の方が2000倍大切)なんとなくしか考えてなかったけど、この1年でサッカー人生が終わる(別に将来のことが決まってたわけでもない)と思いラストシーズンは取り組んだ。
ラストシーズンは後悔しないようにサッカーをやりきろう意気込んだ。でも蓋を開けてみると春休みのトレーニングでまったくいいプレーが出来なかった。月2回ぐらい体調崩したり、試合中に思考停止して頭が真っ白になってなんも出来ひん時もあった。まじで練習中もなんもできひんなった。
なんとなくヤバイときは新しいことをして現状突破していかなあかん感じはしていたし、いつもそうやってきたのでその一環で読書は大学なって読んでて習慣化してたと思う。読みたいというより読んだ方が事象の捉え方も変わるし、何もしないより本に意識がいくので、いいか悪いかは置いておき健全なマインドで入れたと思う。考えすぎてしまう癖がある。何冊かは本を読んでいてなんとなく言うてること同じやなーていう内容があり、それはマインドフルネスやったり禅で「言うてること一緒やん」って頭の中で思ってた。
坐禅において大切なのは、自身の身体が「今」まさに「ここ」に存在していると認識することだ。身体と心があるべきところにあると、他のすべてのものもあるべきところにあるようになる。 (禅マインド ビギナーズ・マインド)
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。(嫌われる勇気)
マクドで竹本翔太氏のnoteを読んだときには、レベルは違えど同じサッカーの環境にいる身としては言葉がなめらかに、するすると自分に入ってきた。 どの本も難しすぎて何回か読まな分からんかったけど、要約すると今を全力で生きようという内容やと受け取った。端的に訳すと薄いイメージやったりありがちな言葉やけど、弱小校出身の自分(過去)を言い訳に甘えてしまう・副将として一年やって行けるか不安(未来)で悩んでいる自分に置き換えると理解しやすかった。 ありがちなポジティブな言葉やったり名言を否定する・しないは個人の自由やけど、ずっと昔から今まで無くならんと残っていることは価値があることだと思う。また竹本氏のnoteを読んで、サッカー人生後悔しないで終えるという目標を立ててラスト一年取り組もうと決めた。結果というより、自分でコントロールできることで設定した。今思いつくことでできること100%やろう思い、DNSのサイトで栄養調べて食るの変えて見て、周りはそんなに筋トレしてなかったので筋トレ始めて練習終わり納得いかんかったら筋トレで消化した。自分の変化のためにinputするのは時間を忘れるほど取り組めたし、自分の思いこみとか周りの考えと違う新しい視点に触れることで心が豊かになっていく感覚が好きやった。ほんまの努力は苦痛でないってこのことなんかなと思う。
結果春休みはそれがコンディションの転換期やったと思うし、思いついたことほぼやって正解やったと思う。コロナで中断した時に描いてた日記を見返しても、完璧に過ごせずに怠けてしまう時もあったけど、ほとんど前向きな言葉を書いて折れずにやろうとしていたのでまだまだ弱い人間やけど自分はこう言うことを大切にする人間なのかなと振り返って思う。
最後のシーズンは1年間Bチームでのキャプテン的な立ち位置で1年取り組んだ。Iリーグ(サテライトリーグ)では6試合で1勝1分4負で終わった。Aチームの試合が残ってたので、その期間の練習試合でIリーグでこうすれば良かったと思う時もあったが、小辻さんの「毎日が勉強です」みたいな言葉が自分にめっちゃ響いた。ひとまわり以上年上でも謙虚に学生に指導したり学ぶ事、自分たちのような選手にも向き合う姿勢はクールすぎた。こんな大人になりたいと思う。 結果が出なかったことなど成果は出なかったが、後悔せずに1年間やれた。大学サッカーをして同じチームはもちろん、いろんな同じ学生や社会人に会えて学べたことを実感する。やけど成果が出なかったことを中心に満足に満たされて引退はできなかったような気がするから、多分そうなんやと思う。Bやったからとかじゃなくて、情けない自分がでた2年の時とか4年間でブレた時があったからやと思う。 自分よりもブレずに4年間やった人はチームにも外にも山ほどいるし、それを思うと情けない。でも過去は変わらんから、過ちを今頑張る薪に変換して燃やしていきたい。
自分のサッカー人生を中心に振り返ってみて、夢中になって取り組んでたと思うし、振り返ると苦しんでる時もあったんやなと思い出した。正直今まで頑張ってきたと思ってたし、何か成し遂げた感じを持ってたけど振り返ってみると自分の凡人さが痛く染みてくる。
対した人間じゃないけど、自分の行動を振り返ってナヨナヨしていた自分が高校大学と主将のポジションで活動できたことは10年前には分からんかった。サッカーを通じて自己肯定感0の自分が変わった実感は自分が一番感じる。何か優勝したりエリートな功績が1mmも無く12年間サッカーを終えたけど、本気でやって良かったと思う。この12年間はなりたい姿(憧れてたレベル・環境でサッカーをする)になるため、自分なりに考えて行動して自信を積んでいく・現状から抜け出すため自らアクション(行動)し変化を起こす・後悔しない、今を全力で生きるために夢中になって行動するという風にもがき過ごした。
まったく結果がでないサッカー生活やったけど、それでも自分が得た上記ことに価値があると本気で感じる。ここまでやってこれて良かったし、偉そうにゆうてますが嫌々でも小中高大一緒にサッカーしてくれた方々、関わってくれた人には感謝します。ここまで読んでくれている人にはもっと感謝したいと思います。春休み時間があるので久々話しましょう。 長々と語りましたが最後まで読んでくれてありがとうございました。