短編小説「酒に運ばれ」
最低気温が零度以下の日々が続くという。
駅前の雑居ビルの三階、交差点を眺めることが出来るそのカフェの中は、温度管理が適切ではない古い空調機のため、無駄な暖かさに満ちていた。
陽が高いうちに、ビルの前に横付けしたタクシーから抜け出し、まっすぐにそのカフェに向かった。古くからあった喫茶店を改装して名前を変えた店である。その為か客の年齢層は高い。
しばらくして、待ち合わせの相手から来ることが出来ないという連絡を受けた。タクシー代は無駄になったが、とくに落胆もしない。そういうことにはなれているのだ。
すぐに冷たい外気の中に出て行く気持ちにはなれなかった。
自分の机を持たない仕事、都会を浮遊しながら、様々な場所で人に会い、目に見えないものを言葉巧みに売る。今のその仕事についてから時間だけは自由になった。
上司にも同僚にも会うことはない。報告も相談も連絡も、手にした携帯端末で済ませる。
出勤時間も退社時間も遅刻も早退も有給休暇も何もない、月々の決まった報酬はなく、すべて、自分で産み出す「結果」だった。
人々が仕事先を離れ、それぞれの家路につく時間になっていた。
待ち合わせの人々が空いていた店内のテーブルを埋めてゆく。やがて、空席待ちの人影を入口辺りに見つけると、追い立てられるように店を出ることにした。待つ人々への親切心からではない。とがめるような視線を受け続けるのが耐えられなかったのだ。
外は寒い。体が暖かくなるという理由だけで歩き始めた。
駅に向かう気持ちもおきない。何よりも通勤時間の電車の車内が苦手だった。急いで帰らなければならない家も無い。雇い主の会社が借り上げた賃貸マンションに、身の回りの荷物を少し置いてあるのみだった。同じ建物にいる人間も流れるまま常に変わってゆく。そこが自分の住み家とは思えなかった。
気がつけば住宅街の中だった。古い建物はあまり残っていない。戸建住宅もマンションも新しい建物ばかりになっていた。
私鉄の駅二つほどの距離を歩いた頃、バス通りから少し入った所に古い店が五軒ほど並んでいる場所があった。
その一番端に古い「居酒屋」があった。赤提灯も出ていない。紺色の暖簾に店名もない。何か奇をてらった趣向もない。古典酒場とでも呼ぶのだろうか。それでも、生き残ってきたのには、それなりの理由があるに違いない。
暖簾は外に出してあるのに準備中と書かれた札が掛けてある。
一度は通り過ぎた。次の十字路まで行ってふりかえる。中からもれる灯りが気になり、店の前まで戻って、格子がはめられたガラス戸を少し開ける。すると、カウンターの奥の方に人影があった。
「やってますか?」
「どうぞ」
店内は暖かい。
目の前には、横一列にカウンター席が七席。カウンターの中は調理場である。
大将らしき年配の男が白衣を着てそこに立っていた。他に店の人も先客もいない。
「いらっしゃい」
満面の笑顔である。天井の灯りに照らされ、禿頭が眩しかった。
「寒いですねえ、お客さん、仕事帰りですか。」
「はい、もう終わりにするつもりです。」
「どうします。」
何を聞かれているのか解らなかった。
「いきなり、どうするって、言われても困るよね。今日は暇でね。なんでもすぐ出来ますよ。」
「では、ビールをお願いします。」
大将は呆けたような顔をしてから再び満面の笑みに戻った。
「そうだよね、最初は飲み物だね。銘柄はどうします。」
大将の背後の冷蔵ケースの中に、そのビールのラベルがよく見えた。
「赤星でお願いします。」
「ほう、お客さん、赤星って呼ぶんだあ、わかってるねえ、赤星ね。ラベルのマークがいいよね」
「外は寒いんで熱燗にしようと思ったんですけど、ここは暖かいのでビールにします。」
大将はラベルに赤い星がついた銘柄のビールの栓を抜いた。心地よい小さな破裂音がする。客席と調理場を隔てたカウンターテーブルの上段に、ビアタンブラーを置き、ビール瓶を両手で構える。大きな手が大瓶をたのもしく支えている。
「はい、どうぞ、お疲れさまでした」
ビアタンブラーをやや斜めにして、大将が注いでくれるビールを受けた。
黄金色の液体が美しく流れ落ちる。
「一杯目は、こうするんですよ。」
グラスが満たされる。少し間があって、
「女房はね、必ずこうするんですよ。」と大将。
ビールで喉を潤しながら、大将の背後、壁の高い位置に貼ってある料理の名前と金額が書かれた短冊を眺める。
「あの、煮込み、ください。」
「煮込み?、はい、煮込みね。」
大将は自分の背後を振り返ると大きな声で言った。
「煮込み一丁!」
狭い店である。
「と言っても誰もいないんだけどね、どう、うけない? 狭い店だからね、他に誰もいないのすぐわかるよねえ。」
ガス台の上、大きな鍋の中から煮込みが煮える音が聞こえる。黒い突起を大将の太い指が軽くつまんで、蓋が開けられると一期に湯気がたちのぼった。
ビールを自分で注ぎ、たてつづけに飲む。
「休みはいつなんですか。」と聞く。
「休み? 定休日は日曜日かな、でも、定休じゃないなあ。全然決まってないから・・・休んでも、つまんないし、店開けてた方が気が紛れるからね。」
「営業時間は何時から何時ですか。」
「何時からか・・・」
大将は考えている。
「始まるのは、なんとなく夕方四時くらいかなあ、終わりの時間は、なんか決められなくてねえ、お客さん、何かの取材の人? ちがう?」
「いいえ、違います、ただのセールスマンですよ」
外の札が「準備中」のままであることを思い出し、それを伝える。
大将は笑いながら外に出て札を裏返した。
もう一本ビールを頼む。
「仕込みをしてる時に、入ってきちゃうお客さんがいてね、待ってもらううちに、何も喰わずに酒だけ呑んで帰っちゃうお客さんもいるなあ。笑っちゃうよね。あっ、笑ってられないか。酒だけで何にも食べない客じゃあ、儲からないね。」
大将の手元でトントンと音がする。葱の香りが鼻孔まで届く。細かく刻んだ長葱がのせられ、モツの煮込みの器が小さな音をたてて目の前に置かれた。割り箸を割って一口食べる。根菜類と牛モツの煮込みだった。美味い。
「閉める時間もねえ、お客さんがいるうちは開けてるなあ。二階が住まいだから。中には帰らない人もいるよ。去年の夏なんか、酔いつぶれた客がそこの小上がりで寝込んじゃってね、仕方ないから、店をかたづけ、あたしも二階で寝たが、朝起きてきたらまだ寝ているんだ。いつまでたっても起きやしない。仕込みとか色々やって、買い物もしなけりゃいけないから、昼近くなって起こしたよ。すると、そのお客何て言ったと思います? わからない? 目を覚まして、いきなり、こう言ったんですよ、酒くれって、笑えるでしょ、えっ、笑えない?」
「何か、ちょっと悲しいなあ。」
「悲しい感じですか。」
「なんだかお酒が呑みたくなってきました。一本つけてください。」
「うちは二合徳利しかないんだけど、いいですか。」
「いいですよ、一合じゃたりませんから。」
「お客さんも悲惨になりそうだね。」と言って大将が笑った。
「うちわね、一升瓶逆さにしたような、ああいう高い酒燗器とかないんですよ、一本ずつ丁寧に燗を付けるんで、ちょっと時間がかかりますよ」
「どうぞ、誰も待っていませんから急ぐ必要なし。」
「そう、俺と同じだ」。大将の顔が少し曇った。
一息入れ、その曇りを晴らすように笑顔を作って見せる。
「そうだ、お客さん、試作品を食べてみない、チーズは大丈夫?」
「チーズは大好きです。」
「そりゃよかった。だし汁と煮込みのモツ肉と野菜とチーズを入れて、バンノウネギをたっぷりかけて、鍋を火にかける。何か他に入れるかどうか、ずっと迷ったままで。」
「美味しそうですね。」
「いいと思う? そう、そりゃいい。作るよ作る。簡単だからすぐ出来る。それに、メニューに載せてない品物だからさ、サービス、サービス。」
大将は小鍋にだし汁をはり、火に掛けた。
頼んだ燗酒のことは、すっかり忘れてしまっているようだ。
煮込み鍋の中から肉を取り出し小鍋に移す。バンノウネギを刻む音が香りをたて響いてきた。
「このメニューを店に出すか、ずっと迷ってて、ちょうど三ヶ月前にもお客さんみたいに一人で来た人に食べてもらった。それがさ、参ったよ、聞きたい?」
グラスに残ったビールを飲み干してから強くうなずいた。
「それじゃ、話すけどね」
セールスマンという職業柄、人の話を聞くのは苦痛ではなかった。
小鍋の中に、バンノウネギが投入された。
「ほんの数日前、うちの常連さんが来てね、その常連さんにも食べさせたことがあるんだけど、その人が駅前の大手の居酒屋でも同じものを食べたそうなんだ、名前までパクッてさ、メニューに載ってたんだって、それも値段までパクリ。びっくりしたなあ。」
熱くなった小鍋を大将がカウンターテーブルの上に置いて蓋をとった。湯気が上がる。チーズが小鍋の中で溶けている。
「はい、どうぞ、熱いから気をつけてね」
一緒に出された小皿にモツ肉とチーズと小口切りのバンノウネギの一塊を少しとる。熱そうなので待つことにした。大将の話は続く。
「その若いお客さん、お店に出すとしたらどのくらいの価格設定になさいますか? なんて聞くんだ、価格設定だなんて、今思うと変な言い方だったよね。」
唇を尖らせて息を吹き、箸で挟んだ肉片とチーズとネギを少し冷ましてから口に放り込んだ。
「美味しいですねえ、それで、相手には文句は言わなかったんですか?」
「文句? 無理でしょ、泣き寝入りだよ、相手は大手だからねえ、ああ、お酒、お酒と。」
やっと、燗酒のことを思い出してくれたのだ。
一升瓶から徳利に酒を移し、雪平鍋のお湯にとっくりを入れた。
大将は徳利を手で触って、何度も温度を確かめ、やがてうなずき、燗酒のお猪口を出して目の前に置いた。そして、徳利をふきんで丁寧に拭いてからお猪口の上にかざした。
「どうぞ」
「どうも」
ゆっくりと温められた酒を口に含む。ちょうど良い燗上がりであった。
大将の酒をつぐ手に寂しさがはりついている。
「名前は?」と料理の名前を聞いてみた。
「名前?、名前は・・・」
大将の顔が曇った。それから元の笑顔にまた戻る。
「ああ、料理の名前ね、名前はね、チーズ小鍋っていうんです。食べるチーズにちっちゃい鍋でチーズ小鍋、いいでしょ?、チーズ小鍋、チーズ小鍋、チーズ小鍋って、何度も言ってると喰いたくなるでしょ?、チーズ小鍋。」
なぜか笑いがこみあげてくる。大将も笑った。
ふと、久しぶりに大声で笑っている自分に気づいた。
「最近の大手は小回りきくよね、それだけ必死なんだなあ。不景気だしね。」
「どうして、チーズ小鍋をすぐに出さなかったんですか?」
「そうか、考えたら変だよね、さっと作って、値段決めて、さっと出せばいいのにねえ、なんか、増やすのも減らすのも嫌でね、増やすのも減らすのも・・・。」
再び壁に貼ってある短冊を見る。いろいろと目を引くメニューの名前が並んでいた。
「以前はね、色々と変えたんですよ、女房がね、色々言ってくれて、俺が新しい物をつくるとそれを美味そうに喰ってね、これは絶対にお客さんが喜ぶって言う。女房がダメだってやつは試しにお客さんに出してもやっぱりダメ。解らなくなっちまってね。どうすればいいか。」
再び、大将が徳利を手にとり、さきほどと同じように、差しだした猪口に注いだ。
「もうすぐ一年になりますよ。乳ガンでした。」
辺りの空気が止まった。
猪口をカウンターテーブルの上に置く。
動揺を隠すかのように、箸を手にとり、モツを口に放り込む。
「女房がね、カウンターの中からこうやってね、いつも、お客さんに酒をついでたんですよ、一年前まではね・・・」
大将は黙ってしまった。
「お客さん、うまい?」
何を聞かれているのか解らなくなった。
急いで大きくうなずく。
料理の味のことを聞かれているのか、酒の味のことなのか。
涙がこみあげてきた。
「そう、それはよかった、もう、店を閉めて、田舎に引っ込もうかと思いましてね」
「どちらなんですか?」
「東北の方なんだけど、実家の方で仕事を手伝わないかって呼んでくれる人がいてね」
「行く場所があるのは良いことですよ」と言おうとして、その言葉を呑み込んだ。
注いでくれた酒は、すでにぬるくなっていた。
※ ※ ※
季節は変わり夏になっていた。東北で起きた出来事が何もかも変えてしまっていた。
仕事と住む場所を一度に失い、東京を離れることだけは決めていた。行くあてもなかった。
東京での最後の日の夕暮れ時、久しぶりにその店に行ってみることにした。
行き着けば、建物は跡形もなく、すでにコイン式の駐車場になっていた。近くの酒屋に行きカップ酒をいくつか買い込む。
酒屋の主人に聞いてみると、桜の咲く頃に店を閉めてしまったそうだ。跡地は土地の所有者がマンションを建てるという。
父と幼い私を捨て家を出ていった母親がめぐりめぐってたどり着いた居酒屋の主人と一緒になったと知ったのは数年前のことだ。
あの冬の日、その居酒屋を初めて訪ねてみたのだった。
居酒屋には主人が一人いるだけだった。母は買い物にでも行っているのだろうと思った。店に帰ってきたら恨み言の一つでも言ってやろうか。それとも、もう自分のことを解らないのではないだろうか。そんなことを思った。
しかし、母は一年前に乳ガンで亡くなっていた。
父も十年前に他界している。これで、東京にいる理由もなくなった。
店の前のガードレールに座り、駐車場のアスファルトの上の白線を眺めながらカップ酒の一つを空けて飲んだ。
バス・ターミナルに向かった。
初めて乗る北国への長距離バスの中、ぐっすりと眠る自信がない。
今日も酒に助けてもらうしかなかった。酒に運ばれどこかに流れてゆく。
夕焼けを顔に受け、止めどない時を引きつれて闇にむかう。
(了)