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幸せになりたい、わけじゃないのかも

なんとなく、いつも、私は不運で、不幸で堪らない人のように思うことがあって

上手くいかないことがあると、悲劇のヒロインみたいな気持ちになる。
この世界で苦しんでいるのは、私だけ、みたいな。

私はすごく恵まれた環境に生きている、それはわかっているのに、

どうしてこんなに満ち足りないのか。
そもそも私は、自分が幸せな生活を目指しているのか?
あれ、

目指していない、むしろ避けているのでは??


私に何が足りないのか、と考える。
真っ先に浮かぶのは、自己実現に対しての不満だ。

私の幸せは、自分の「好き」を突き詰めて生み出した物が、評価されること。
今のところ、それは自己のレベルアップと、満足のいく文章を作ることでしか得られないことがわかっている。

私が文章を書くときは、自分の中のもやもやした、見えない感情を可視化して、苦しみや恐れを和らげるためであって、主にその感情を掘り下げて、言語化する。

自分に一番しっくりくる言葉を選んで、組み、整えて、作品にする。
嘘や誇張を入れると、私の感じたままではなくなるので、嘘はつかないし、美しく見せるために選んだ言葉は、その時点で駄文になるので変に飾らない。

そうして自分の満足いく作品ができること、それを人に評価されると、自分の存在意義を感じる。認められた、その感情のためだけに生きていたい。自分の経験は、体は、結局、作品作りの為でしかないから。

悲しみに暮れるとき、私の文章は気持ちに正確で、素直な美しい文が書けるのに、幸せなときの文章は上っ面で、薄い文字の羅列でしかなくなってしまう。

幸せなとき、私はその状態を保とうとして、何も考えられなくなってしまって、何も書けなくなる。
それが嫌で、結果的に幸せになる道を、自分から避けているような気がする。

それこそ不幸だと思う。ひとつのことに囚われて、ひたすら悲しみを掘り下げる作業なんて、虚しいだけだとわかっている。けれど、書くことをやめたら、私には何も残らないし、その先にしか幸せはないと思っている。

だから、幸せで、ずっとこのままでいいのに、って気持ちには共感できないし、したくない。

考えられなくなって、何も書けない状態が、私は何より怖いから。

でも、その不幸を悲しんでいるか、心から辛いと思っているか、というと、そうではない。
確かにそれを楽しんでいる私がいて、それを作品に昇華できる自分が好きだ。

夢が叶う、自分の作品が評価される喜びは、何にも代えられない。そのためなら、中途半端な喜びは要らない。誰に何言われたって、そのためなら生きていける。

だから、私は幸せにはなれないかもしれない。
皆の言う、一般的な幸せには。
けれど、不幸を楽しんで、自分の力に変えられるなら、それは、もっとずっと尊いことなのではないだろうか。

だから私は幸せじゃなくてもいいな。

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