あな煩はし、脱毛の広告。生活感は平安貴族マインドのままで
カミソリで足を切った。
何度目だろう。何のためにカミソリを肌に当てるのか、わからないままに習慣化してしまった。もういつ始めたのかも忘れたし、もうそこに理由は無くて、単に処理をサボると気持ち悪い、という感覚だけで続けている。
ポストを開けると、
『お誕生日おめでとうございます!』
脱毛の広告だった。ありえないくらいに値引きされたプランがおすすめされている。
二十歳になってからすごい頻度で見かけるようになった。
正直、全く興味がない、わけじゃないけど。
それって、必須なの?普通なの?
確かに、腕にふさふさ毛が生えてる女の子って、違和感あるかもしれないけどさ。
普通に生きてるだけで生えてくるのに、そこまでして、隠すべきものなのか、見せてはいけないのか。
それが『普通』として求められるのは、ちょっと違くないか?と思うのだ。
生活感って、そんなに悪いものかな
平安貴族のマインドを引き継ぐ日本人
昔読んだ古典に、浮気相手の女がご飯をよそって食べる様子を見て、男が興醒めする、というシーンがあった。(伊勢物語、筒井筒より)
私にとってはかなり衝撃的だったので、よく覚えているのだが、
当時の貴族社会では、
『生活感のない女が喜ばれた』
らしい。
要は、家事もしなくて良いくらいの実家の財力がある、というのが重要だったとのこと。
現代とは全く逆の価値観、と思いきや、
蛙化現象の例として、レストランでメニューを全文読み上げるのを見て冷めた、という話。
料理できる人とか、掃除するっていう生活感はokで、着替える様子とか、用を足すみたいな生活感はダメ、なんて現代の方が複雑な感じがするけど、結局、
自分が理想とする相手像から外れたことするとアウト
ということではないだろうか。相手に変なリアルさを感じると嫌になる、つまり日本人は、リアルの人間の生活感が嫌い、ということではないだろうか。
メイクしない女の子とか、すね毛ボサボサの男の人が疎まれるのは、生活感が見えやすいから嫌悪感があるのかも。
だから脱毛は広がっていく。人間らしさ、生々しさを消して、見苦しくないように。生きていられるように。
リアルに生きている人間は疎まれ、隠される文化の中で、私たちは今日もカミソリを当てる。
自然体で許されたい、と願いながらも、そうやって生きていく。
私たちは、自分の体ひとつでさえ、上手く扱えないのだ。