2007年のスクランブルアタックと、命ある限りの愛と。
2006年1月、東戸塚トレーニングセンター。
日刊スポーツの記者だった僕は、横浜F・マリノスのクラブハウスで、GMの小山哲司さんに呼び出されていた。
取材エリアから別室に移る。
差し向かいに座ると同時に「今朝の記事はないよ」と詰め寄られた。
その日の朝刊。サッカー面には、吉田孝行選手の横浜加入を伝える記事が掲載された。
文中、経緯を伝える部分で、僕は「松田直樹の要望もあって獲得した」と触れていた。
「確かにマツは大事な選手で、意見を交換することもある。とはいえ、だよ。ひとりの選手の意向で補強をするなんてことなんかありえないって」
実はこの部分は、自分で取材した内容ではなかった。
かつてクラブ担当をしていた先輩記者から「この内容は入れたほうがいい」と勧められたものだった。
◇
どんな記事にも、必ず独自色を。
記者になって2年目。常にそう言われ続け、叱られ続けて育った。
確かにこれを入れれば、デスクに叱られるようなこともない。素直に従い、記事に書き入れた。
そんな程度だから、何か反論できるようなこともなかった。
書き込んだ内容が事実かどうかすら、確証がなかった。
「はあ…申し訳ありません」
そう言ったきり、僕は何も答えられなくなった。こちらを見ながら、小山さんが呆れ果てている。無理もない。
「もういいですよ。吉田本人もコネ入団みたいな書かれ方で嫌な思いをしたと思うので、できれば謝ってやってください」
◇
選手の取材は、クラブハウスの駐車場で行う決まりだった。
練習後、帰宅するため乗用車に乗り込む選手に声をかけ、話を聞く。
僕は吉田孝行さんに近寄り、まずは社名を告げた。
「ああ、記事のことですね」
立ち止まって、まっすぐとこっちを見据えて話す。
威圧的なところはまったくなかったはずだが、気圧されてしまった。
「いや、あの、本当にお騒がせして申し訳ありません」
謝るにしても、記事の内容が間違っていたと言ってはいけない。
「記事の反響で迷惑をかけた」と言いなさい。謝り方さえ、会社からしつけられたものだった。
そうしたあたりが強くにじみ出たからだろう。
呆れたような苦笑いを浮かべて、吉田さんはしばらく僕をみていた。
やがて、真顔に戻って、こう問うてきた。
「どうしたかったんですか、あの記事を書くことで」
◇
しどろもどろになりながら、僕は言葉を絞り出した。
それも、先輩記者から何度も聞かされてきた言葉そのままだった。
「事実を伝えたかったです。それが記者の使命なので」
言いながら、自分でも「違うな」と思った。
だから、聞き取れないくらい声がか細くなってしまった。
書くことでどうしたかったのか。
吉田さんのシンプルな問いは重かった。「使命」などという借りてきた言葉よりも、はるかに重い。
先輩に、デスクに、叱られたくなかった。
ただただ、それだけ。恥ずかしかった。自分が情けなくなった。
しばらく考えていた吉田さんが、口を開く。
「いい記事を書いてください。それでいいです」
◇
僕は機会さえあれば、練習後の吉田さんに話を聞いた。
当時の横浜F・マリノスには、日本代表クラスがずらりとそろっていた。
松田選手、中澤選手、久保選手、山瀬功治選手…そうした選手の近況を伝える記事を、会社からはひたすら求められた。
でも、それは「記者としてどうしたい」とは少し違うような気がしていた。
吉田さんはとにかく丁寧に話をしてくれた。
ベテラン選手としての務め。クラブの現状。
なかなか記事にできず、時間ばかりとらせて申し訳なかったが、それでも対応を続けてくれた。
はじめてビッグクラブの担当となった僕は、周囲のベテラン記者との"実力差"に苦しんでいた。
7月。ドイツW杯に出場した中澤選手が、大会後に代表引退の意思を示した。
8月。岡田武史監督が解任された。12月には奥選手、久保選手が戦力外通告を受けた。
年末には2007年シーズンの監督として、早野宏史さんが決まった。
スクープ合戦に追われ続け、そのほとんどで他紙の記者の後塵を拝した。
僕は苦し紛れに、吉田さんに「なにか聞いてませんか」と相談したりもした。
「知らんよ。なんも」。苦笑いしながらも、毎回ポツリとつけくわえた。
「でも、どうなっていきたいんやろうね、このクラブは」
みんな、それこそを知りたいんとちゃうの?
いま思えば、そう投げかけてくれていたような気もする。
◇
翌年。
新任の早野監督は「スクランブル・アタック」をスローガンとして掲げた。
ちょうど、スポンサー企業の経営状況が悪くなりつつある時期だった。
クラブも試練のときを迎える。捨て身で戦わなければ…そうした危機感を示したわけだが「開幕前から"緊急"とはおだやかではない」と界隈はざわついた。
実際に、チームは緊急事態に陥った。
第2節では、横浜ダービーの横浜FC戦に0-1と敗れた。4月半ばまでの6試合で4敗。早くも早野監督の進退を問う声が上がった。
そんなマリノスが急変した。
4月22日大分戦で5ー0、29日新潟戦で6ー0と連続して大勝。5月3日の神奈川ダービー川崎F戦も、2ー1と強敵を上回った。
スコアもさることながら、印象的だったのは相手陣内でのプレスだった。
FW2人と2列目に並んだMF3人が、激しく相手に詰め寄る。ミスを誘ってボールを強奪しては、速攻からゴールを挙げた。
自陣で守備陣系を整えつつ、最少限度の攻撃人数で得点する。
そんなクラブ従来のスタイルとは違う、ハイリスク・ハイリターンのサッカー。多くのメディアは「これこそがスクランブル・アタックだ」と書きたてた。
当然、早野監督に対する評価も一変した。
だが、現場でみているわれわれ番記者は、まったく違う受け止め方をしていた。
この「スクランブル・アタック」の発案者は、吉田さんであると聞いていたからだ。
◇
「吉田さんが中心になって『思い切って前から行き切ってしまったほうがいい』とみんなを割り切らせたところから、チームは変わりました」
そう明かす選手が何人もいた。
実際、転機となった大分戦は、吉田さんが先発に復帰した試合だった。
僕は本人に事実確認をすることにした。
吉田さんは、肯定も否定もしなかった。その代わりに、きっぱりと言った。
「そういう記事、書いてほしくはないよ」
これこそ「いい記事」。
喜んでくれるのでは、と思っていた。想定外の答えに、僕はまたしても言葉に詰まってしまった。
吉田さんは続けた。
「書くことでどうしたいの?」
そりゃ、吉田さんの戦術眼が評価されて…
そんなことを言いかけたが「他社に先んじて独自の記事を書きたい衝動に駆られた」という自覚もあって、声が小さくなった。
◇
「任せますけど」と吉田さんは言った。
僕はよくよく考えて、記事を書くのをやめた。
選手が戦術を立案した。
そうやって抽象化してみると、その事実が広まることは誰のためにもならない気がしてきた。
早野監督はシーズンを通して指揮を執り、チームは最終的に7位になった。
だが、その年限りで契約満了となった。そして吉田さんも、若返りをはかるクラブ方針のあおりで、戦力外通告を受けた。
「まあ、方針というなら仕方ないよ」。
淡々と話す様子をみて、かえって寂しく感じた。
吉田さんはひとりの選手以上の存在として、チームを支えていた。
それを伝えたくて、僕は必死で記事を書いた。
「並外れた戦術眼でチームを立て直したのに」
「精神的支柱としてチームを支えていたのに」
紋切り型で陳腐で、真価が少しも伝わらない記事だった。
だいたいなんだよ戦術眼って…わかるようでまったくわからないと、自分でも思った。
それでも吉田さんは「ありがとう」と言ってくれた。
いつかまた一緒に仕事がしたい。
そう伝えると「サッカーの奥深さを伝える仕事をやらせてほしいな」と言ってくれた。
「でもまあ、オレのキャリアじゃ、日刊スポーツで評論家をするのは難しいかな…」
そんなことないですよ。
その言葉に、僕は力を込めきれなかった。
◇
吉田さんは出身地のクラブ、ヴィッセル神戸に移籍した。
残留争いのチームを救うゴール。
盟友・松田直樹さんが急逝された直後の2得点。
印象的な活躍をされたのは、神戸のサポーターの皆さんや番記者の方々のほうがよくご存知だと思う。
引退後はクラブにとどまり、何度か監督もされることになった。
毎回、スクランブル登板のような形ではあった。前任者が解任されたことに伴って起用されては、数か月で役割を終える。
神戸には常に、世界的ビッグネームがいる。
素晴らしいことだがその反面、やれることに制約があるのも見て取れた。
2度目の解任後、僕は私信を送った。
もう少しいい形で指揮を執れるといいのにーー。
吉田さんは「わからんですけど」と綴りつつ、こう続けた。
「とりあえずオレには神戸愛があるから」
◇
2022年。
吉田さんはシーズン半ばで、再びヴィッセル神戸の監督に就任した。
イニエスタらがコンディション不良だったこともある。
FCバルセロナのようなパスサッカーではなく、ハイプレスを重視したサッカーでチームを立て直した。
2023年シーズンに入っても、そのスタイルをかえなかった。
とにかくハイプレス。攻守でハードワークを求めた。
チームは首位を快走した。
僕には2007年のスクランブルアタックにも重なってみえた。
吉田さんのサッカーが、未来のJリーグを席巻している。
戦力外通告もあって途絶えた伏線が、15年越しに回収されているような気がした。
11月25日。神戸はホームで名古屋に勝ち、J1優勝を成し遂げた。
勝手ながら、感慨深く思った。
吉田さんは戦術家として、何があっても信じるサッカーを貫き切った。
だが、中継で大映しになった吉田さんの顔を見て、ハッとした。
マリノスの練習場で聞いた、当時の声が脳裏に蘇る。
「これをすることで、最終的にどうしたいの?」
◇
パスサッカーか。ハイプレスか。
世界的名手か。ハードワーカーか。
それらはあくまで手段、選択肢でしかない。
神戸を勝たせたい。クラブを高みに導きたい。
サポーターを、街を幸せにしたい。そちらこそが「最終的にどうしたい」の答えには似つかわしい。
吉田さんにこだわりがあるとすれば、むしろそちらなのではないか。
2007年のスクランブルアタックしかり。2023年の神戸サッカーしかり。
何よりもまず「クラブを勝たせたい」という根源的な目的がある。戦術もそれを強く反映したものになる。
チームの皆さんは「勝たせたい」に共感し、ひとつにまとまったのだろう。
だからこそ、組織的な戦術は最大限に機能したのではないか。
◇
優勝セレモニーでは、吉田さんが笑顔をはじけさせている。
本当はこうやって笑う人だったんだな…中継の画面越しに、いまさらながらに知った。
関わらせていただいた当時を思う。
若かった自分が当時こだわっていたことは、どれもこれも「手段」でしかなかった。
そんな未熟な記者に、吉田さんはずっと「結局のところ何がしたいのか」の大事さを説いてくれていた。
吉田さんとの出会いは、考え方を変えるきっかけになった。
「目の前の事実を伝えていればいい」から「伝えることでどうしたいのか」へと。
その後、僕は記者として、取材対象の皆さんとの貴重な出会いを重ねることになる。
浦和レッズや埼玉西武ライオンズなどで、本当にいい取材をさせていただいた。多くを学ばせてもらった。
それらは「伝えることでどうしたいのか」に、ある程度共感をしてもらえたからこそ得られた機会だったように思う。
中継が映す会場では、ピッチ上の選手・スタッフとスタンドのファンが声をそろえて歌っていた。
命ある限り、神戸を愛したいーー。復興への思いも込められた応援歌「神戸讃歌」だ。
吉田さんはずっと、この光景をみんなに見せたかったのだろう。
◇
いま僕は、ニュースアプリのユーザー体験を考える仕事についている。
ディテールは大事だ。細部まで詰めて考える。
ただ、それだけではいけない。それらはあくまで手段。
折りに触れ「そもそも何がしたいのか」に立ち戻る。
どうやってユーザーを幸せにするのか。
どう世の中の発展に寄与するのか。
抽象化の重要性。
それはそもそも、吉田さんから教わった考え方のような気もする。
あらためて、教わったことの尊さを思う。
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