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「よい」授業にこそ批評を。

 教師の立場から理想の授業を追い求めていくなかで、これだ!と思う授業に出会えたとする。またはある手法を授業に取り入れて、うまくいったと実感する。そういった出会いや実感を得ることは、日々の授業を作っていく上でモチベーションにもつながるし、大事にしたいことだ。
 自分の中で良い授業を見つけた時、何の疑いもなくそれが誰にとっても良い授業であると思える事がある。しかし、良いと思える授業にこそ、何が良いのかを立ち止まって考えて、批判的な目を向ける。批評が大事だと私は思っている。
 逆に、どう考えても良いとは思えない授業を見た時も同様だ。自分の良くないと思うバイアスから逃れた時に、意外にも新たな視点が浮かび上がったり、見逃しそうな面白い瞬間に立ち会えたりすることがある。
 私がこれが良い、あるいは良くないと思える時、大抵の場合、見たいものしか見ようとしていない。そこを出発点に、自分にとって見えていないもの、見たくないものを見ようとすることが批評だ。しかし、自分だけで批評の視野を拡げることには限界がある。だからこそ、誰かに見てもらったり、記録をもとに誰かと議論する事が大事だ。もちろん、授業をやった人にチャレンジしたことへの最大限の敬意を払うことを忘れてはならない。
 ただ最近、教育や授業に対する批評の場が失われているような気がしている。ある教育や授業に対して、自由に自分の考えを話し合う場があまりにも少ない。教育や授業に対して同じ主義主張を持った人たちが集まり、自分たちの教育が優れていることを確かめ合う。ワークショップや勉強会も、SNSの影響か、似たような興味を持った人が集まり、互いを称揚しあう温泉のような場になっている。
 だから、いざ自分の学校に戻った時は、周りは自分を支持していない人ばかり。自分とは異なる主義主張を持っている人と対話する言葉を持ち合わせていない。その結果、職員室の同僚は誰も自分のことを分かってくれないと思い込んで塞ぎ込む。そしてまたワークショップに行き、分かり合える人たちだけで良さを確認し合う…と悪循環に陥りがちだ。
 教育や学校、授業を変えよう変えようとするあまり、自分が理想とする、「よい」授業の主義主張を誰かに押し付けようとする。でも、一番変わらなければならないのは、それを「よい」と信じてやまず、他者の考えを受け付けようとしない自分、だったりする。

 
 
 
 
 
 

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