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希望のひまわり

 毎年、暑い暑いと言いながら夏を過ごして来たが、蛇口を捻ると水道の水も心なしか、夏のその時より冷たくなったような気がするし、夜の静寂に耳を澄ませば、秋の虫がちりりりりん、と侘しく鳴いている。この世界的異常気象にあっても、季節は移ろうことを決して忘れてはいないのである。

 今年もわずかばかりだがピーマンの苗を植え、ひまわりとコスモスの種を蒔いた。

 毎年、どんな暑さでも何とか育つものなのだが、今年は花は咲かせても一つも実を成らすことはなかった。ピーマンもこの暑さで実をつける気力を失ったというのだろうか。いや、家庭菜園と専業農家を一緒にしては大変無礼に当たると重々心得てはいるが、どんな状況にあっても一つも野菜が収穫出来ず、出荷されないということはないだろうし、途中で成長が止まっても、何とかそれなりの形になるものである。

 一〇〇粒ほど蒔いたひまわりの種も、発芽はしたがもやしのようにか細く、暑さ負けして最後には干からびてしまった。その後、お義理のようにわずかに雑草が生えたが、それもいつとはなしに枯れてしまった。何があっても生き延びる雑草さえ枯れてしまうくらいだから、ひまわりが花を咲かせることは不可能だったのだろう。

 涼風が立った頃、母が喜ぶようにと蒔いたコスモスは発芽はおろか、土の中で朽ち果ててしまった。発芽を前に、この暑さを感じ取っていたのだろうか。地上に顔を出したところで暑いのはごめんとばかりに、育つことをやめてしまったようだった。

 今年は母が病を得て、私の生活は激変した。植物を育てる私自身が日々の暮らしに余裕がなく、草臥れ果てているのである。そんな人間に育てられた植物が無事に、そして元気に育つ筈がない。

 そんな植物たちに申し訳ないと思っていた最中、ミニひまわりが一輪だけすくすくと大きく、一メートル程の高さに背を伸ばした。折り悪く台風の接近中で、もう時期花が咲くというのにどうなることかと思ったが、私の心配をよそにミニひまわりは無事、太陽に向かって力いっぱい花開いた。

 柔らかな風に吹かれて、しなやかにゆらゆらと揺れるその姿は気負いがなく、雨が降れば、人間みたいに濡れないように傘を指すわけでもなく、恵みの雨だと全身ずぶ濡れになっている様は、見ていて何とも清々しい。

 しかし、このひまわりが、風に吹かれたり雨に降られたり、人から恥ずかしいくらいじっと見つめられたり、そんな今年の夏を満喫できるのもあと数日である。数日経てば、何事もなかったようにひまわりはこの世に礼を言って、まるで別れを告げるように深々と頭を垂れて、やがて太陽にジリジリと焼かれて枯れて行くことを定めとして、その生命を終えるのである。

 植物は抗いを知らない。すべてを受け入れるのである。そんな潔さを目の当たりにして、何て自分はバカなのだろうと、頭をぶん殴られたような気がする時が幾度もある。

「お前の人生はまだまだ長いし、自分のためにも人のためにもやれることはまだまだある」

 どこか殺伐とした私の心に、ひまわりがそう語りかけてくれたような気がした。私は、どこまでも広がる果てることのない真っ青な空を見上げた。

 夏ももう終わりである。

2024年8月28日




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