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本を読むということ

 大人になると、時の流れが妙に早く感じる。これは誰が言ったか忘れたが、大人になると物珍しさがなくなり、そのせいで生活が単調になり、時の流れが早くなるという。

 そうは言っても、物珍しさがなくなって単調な生活が続いているからといって、時の流れが早くなるのかと言うとそうでもない気がしている。逆に、生活の糧を得るために仕事をしたり、やりたくもないことを致し方なくやっている時程、時の流れが遅いと感じることを考えると、上のそれはちょっと違うような気もする。

 今振り返ると、小学校の六年間と、おまけのような中学校の三年間の計九年間というのは、どうしてあんなに長かったのだろう。色々なことがまだ目新しかった年代といえばそうだが、上記の説が正しければ、あの九年間というのはあっという間に過ぎていなければいけないはずである。それなのに、そうでなかったことを考えると、それらはどれも当てにならないと思うのである。

 確かに大人になってからの時の流れの早さは、子供の頃のそれとは全然違う。それはきっと、だんだんと限りある命というものに向かって、歩いていることを切実に自覚するからなのかもしれない。頭で自覚するのではなく、本能的な生命体として感じるのかもしれない。そうすると、寝るのが惜しいという気持ちにもなる。しかし、生命維持として健康を保つには、寝ないわけにはいかない。朝型と夜型の人間はもう遺伝子で決まっていると何かで読んだが、それもどこまで本当なのやら。
 本当に誰が言ったか知らないが、とういうことがこの世の中にはあふれている。

 私は最近、もっぱら読書にはまっている。時間を見つけては片っ端から本を読んでいる。書く側の人間なのに人様の本を読んでいる場合ではないのだが、欲しい本が山程あるから、山程までは買えないがちょっとした積み木のように、積み重ねられるくらいの冊数になった。それでも私が読みたい本は、次から次へとこれでもかというぐらい、毎日私の目に飛び込んでくる。その本を、何の戸惑いもなく買える程の財力がもし私にあったとしても、本を読める私の体はたった一つである。
 それなのに、人間はこの一〇〇年を振り返っても、一体、どれだけの分野でどれだけの本を出版したというのだろう。そんな途方もないことを考えたりする。

 人がその人生で手に取って読むことのできる本の量は、それに比べたらごくわずかである。人並みに長生きと言われるような年齢まで生きたとしても、人が読める本の数はそう多くはない。人によって読むスピードも違うし、読める時間の量も違うし、各々環境や条件は一緒ではない。

 携帯電話というものが、本来、人を助けるためにある片方の手をずっと占領するようになって、もう二十年くらいになるだろうか。四角い画面を覗いてばかりで、人を助けることを忘れてしまった。自己との対話や理解力というものが、危機的に欠如した人間が多くなったように思う。本を読まなくなった弊害であろうと思う。

 先日、字幕翻訳家の戸田奈津子さんがテレビに出て、話をされているのを聞いた。八十八歳という年齢とは到底思えない、物凄い頭の回転の速さで滑舌よく、淀みない早口でご自分のおっしゃりたいことを話されていたが、その彼女が最後にぽつりと言った。

「今の人が本を読まなくなったことに、憂いでいます」

 いくら世の中、片手を占領し続けているスマートフォンがあるからといって、全てが事欠かないわけではないのである。ゆっくりと時間をかけ、本を読むという行為はやはりスマートフォンではなく、本でなければいけないのである。ウェブニュースの簡単な活字を読んでいるからと言って、すべてが解決するわけではないのである。
 自己との対話をしなくなったら、人のことなど尚のこと理解できるはずがない。それは本を読むことを習慣としていない人間には、理解できないことかもしれない。なぜならば、本を読んでいなければその感覚自体が分からないからである。
 年を取ってから本を読みたいと思った時には、もう視力が悪くなり、本と向き合う気力もなくなっているのである。読める視力と気力があるうちに、本を読むことは至福の時であると理解して、年を取れることは幸いである。
 本を通して長年、時間をかけて凝り固まった「自分」と向き合い、軌道修正できる術を、読書は与えてくれていると私は思っている。

 どこまで自分の血となり肉となり、人間性を豊かにしてくれているのか分からないが、きっと、小指の爪の先ぐらいは何かしら私の中に、本を読んだことで残っていることだろう。その小指の爪の先が、薬指の爪の先といった具合にどんどんと広がって いくように、私はこれからも本を読み続けたいと思うのである。

2024年12月4日 書き下ろし・掲載


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