夫人と呼ばれた歌人・九条武子
いつの時代にも、その時代を象徴する人物、目立ちたがり屋ではない本人たちに言わせたら、非常に決まりが悪いと言われそうだが、スターというものが存在した。
今から一〇〇年前の大正時代にも柳原白蓮(大正天皇生母・柳原愛子の姪)、江木欣々らと共に大正三美人と謳われた、歌人で教育者でもあり、著書「無憂華」で知られる九条武子もそのひとりである。彼女は当時、その美貌と人柄ゆえに人々から憧れと尊敬の念を込めて「九条武子夫人」と呼ばれていた。
私がこの九条武子の存在をいつ頃知ったのか、今となっては定かではないが、子供の頃のことだったように思う。どこか憂いを帯びたそのプロフィール、そして四十二歳という若さで世を去ったことも手伝って、九条武子はいつしか佳人薄命として、私の心の片隅にこびりついて離れない存在となっていた。
そんな私だったが、九条武子を見るにつけ美しい人だと思う以外に何かしたかと訊かれると、決してそうではなかった。その残された著作を読もうとも思わなかったし、どんな人と成りでどんな人生を送ったのか調べようともしなかった。そんな私が、再び九条武子に心惹き寄せられたのは、今年に入ってからのことである。武子の著作である「無憂華」を手にする機会を得たのだった。この「無憂華」は、当時、「現代の枕草子」と言われた名著で、本の執筆は勿論のこと、装丁から掲載する写真や自画像、書の選別に至るまで、すべて武子の手で行われている。いわば武子の人柄とでも言おうか、センスがふんだんに盛り込まれている一冊である。
そのページをめくると、まず、その当時売られていた映画スターのブロマイドよりも大きい、武子のブロマイドが貼り付けられている。このブロマイドが貼り付けられているという時点で、当時の武子の人気がいかなるものであったかということの証明になっているような気がするのだが、まず、武子のしなやかな佇まいが読者を惹きつける。そして、武子のその文章は、読んでいて非常に心地が良い。その理由の一つは武子が西本願寺第二十一代法主・明如(大谷光尊)の次女(母・藤子は光尊の側室で紀州藩士族の子女)として生を受けたせいかもしれない。
この本の中で、武子は仏の教えに自らの思いを投影したような文章をいくつも書いている。読者は武子の分かりやすく記した、そういった間接的な仏の教えを読むことで、心が落ち着いたのかもしれない。それと、現代人のせかせかとした話し言葉が、そのまま文字になっているような今の作家の文体ではなく、かと言って、当時の女性の話し言葉でもない。何と言ったらいいのだろうか、武子の品格と教養の高さに裏打ちされた文章であることは間違いないが、普段話している武子の言葉の間合いというか、テンポのようなもの、武子の心音がそのまま文章に現れていた、とでも言おうか。
武子の声がどのような声色だったか知る術がないので何とも言えないのだが、関東大震災で自らも被災した際、築地本願寺の救護活動の拠点の一つである日比谷公園で、救護活動に当たっていた時の武子の姿を捉えた貴重な映像を見ると、当時の日本人女性としては圧倒的に背が高く、すらりとしてしなやかで美しく、慈愛に満ちた佇まいに、対面で武子と直接言葉を交わした人は、きっと穏やかな気持ちになったのではないかと思わせる、そんな柔和な雰囲気を武子は身に纏っていた。
当時、ラジオ放送もまだ始まっていなかった日本では、武子の肉声を耳にする機会もそうはなかったと思うのだが、その武子の声が聴こえてきそうな、そんな魅力溢れる文体に私は惹き込まれた。そして、武子の書いた文章がもっとたくさん残っていないことを残念に思ったのである。
武子は、この関東大震災をきっかけに、社会事業や児童救済に挺身し、激動の大正時代を終えるとその疲れが出たのか、昭和三年二月七日、敗血症で志半ばで世を去った。
同時代を生きたもう一人の大正三美人で、武子と同じ歌人として名を馳せた柳原白蓮は、既婚者でありながら七歳年下の宮崎龍介と恋に落ち駆け落ちし、夫である伊藤伝右衛門に新聞紙面で前代未聞の絶縁状を公開し、自分に正直に生きた。
武子や白蓮と同世代で女優の先駆けであった松井須磨子も、二度の離婚を経験し、日本人女優として初の美容整形をし、そのとんでもない後遺症に苦しみながらも女優として世間に認知され始めた大正八年、スペイン風邪が大流行し、愛人関係にあった島村抱月がスペイン風邪に罹患しこの世を去ると、明くる年、抱月の後を追って三十二歳の若さで自ら命を断ち、その名を伝説のものにした。
白蓮や須磨子とは性格も生き方も対照的だった武子は、スペイン風邪の大流行を何とか生き延び、関東大震災をも乗り越え、新しい時代である「昭和」を生きる筈の女性であった。武子がもし、昭和という時代を第二次世界大戦後の昭和三十年頃まで生き長らえていたとしたら、女性たちにどんな言葉を投げかけ、どんな生き方を示しただろうか。そして、どんな文章を書き残していただろうかと、私は九条武子の憂いを帯びた横顔を見るにつけ、そう思わずにはいられないのである。
2024年3月18日 書き下ろし
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