
本願力はベクトル
2024年10月1日(火)
本願力(ほんがんりき・阿弥陀仏のお救いの力)はベクトル(Vector)である。力なのでベクトルである。一方で、なんらかの力については、通常はその大きさだけを気にかけているように思う。自動車の速さについて語るときは、通常その速さについて議論するのであって速度ではない。速度は方向を含めた速さであってベクトルである。例えば、スポーツカーは時速300kmで走ることができるというときには、その速さを言っているのであって、どの方向に向かってその速さで走っているかは考えない。日常的に、ベクトルと量は混在・混同している。
さて、浄土真宗では阿弥陀仏の救いを本願力とも呼び、その方向を重要視する。つまり、ベクトルとして捉え、それがよく語られる。もちろん、「ちゃんとした」ご法話で、ベクトルという言葉を聞いたことはこれまでに一度もない。ただ、そのお話ではまさしく単なる「数値」の足し算引き算ではなく、「ベクトル」の足し算引き算の話をされている。特に、本願力については、その強さ・大きさよりも方向が重要視される。浄土真宗のご法座に参加されたことが無い方には、よくわからないと思うが、この文章で興味を持った方は、是非近所の浄土真宗のお寺のご法座に参加していただきたい。門徒でなくとも歓迎していただけるはずだ。
では、具体的に「本願力」の方向はどこから出てどこを向いているのか。本願力とは、阿弥陀仏が我々を含むすべての命を救いたいという願いの力である。よって、阿弥陀仏から我々個々に向かう願いの力であり、その方向は阿弥陀仏から我々個々に向かう。浄土真宗的な考え方に慣れていない方は、逆に思われるかもしれない。我々個々が功徳を積み、仏に捧げる。これは、我々個々から仏に向かうものであり、先の本願力とは真逆の方向になる。
ここからの話は、おそらく浄土真宗の「正しい」教義からすると間違っている可能性があるので注意いただきたいが(しっかりした話は、しっかりした布教師さんから聞いてください)、いわゆる「他力」とは先の本願力であって、阿弥陀仏から我々個々に向かうベクトルである。一方で、我々が努力し仏となろうとすることは「自力」であって、それは我々個々から仏に向かうベクトルである。それぞれ、真逆の方向を向いたベクトルであって、よくご存知の通り、それらを足すとベクトルの長さは短くなる。つまり、力は弱まる。しかも、どちらの力が強いかで、最終的に残る方向も変わってくる。同じ力であれば長さ0のベクトルとなり、方向すら不定となる。なんてこった。
お分かりだろうか。浄土真宗で、自力の心を捨てよとしつこく言われるのは、ベクトルで理解すれば、こういうことなのだ。いや、こういうことでは無いかと思うのだ。つまり、ベクトルの足し算。反対方向のベクトルを足すことになってしまう。
そもそも、本願力が我々の住む3次元空間世界の3次元ベクトルであるかすら確かでは無い。もしかすると、もっと高次元のベクトルかもしれない。我々の力はおそらく3次元であろうし、それらとは独立した方向からの力かもしれない。こういう事を妄想すると、楽しくなる。我々の自力とは干渉しない方向からの力かもなぁとか。何せ仏様なのであるから、このような妄想で捉えられるようなものでは無いのだろうか。