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日を追うごとに

2024/09/24(火)

 「日を追うごとに」という言い回しがあるが、まさに日を追うごとにさまざまな能力の減衰を感じている。例えば、文章を書くことについては、もともとそれほど得意ではないのだけれど、そもそも「何か」を書く気にもならず、これはすなわち思考を放棄しているような状態にどんどん近づいていることを自覚するようになった。このままではさらに衰退していくことは間違いなく、頭にさまざまな雑念、というか、そういうことすら思わなくなってきていることに、ある種の絶望を感じつつある。

 最近、YouTubeをよく見るようになった。これは、自分がよく見る動画の傾向を把握して、「これもきっと見たいだろう」と勧めてくる。ホリエモン氏の動画がよく出てくるが、実はあまり再生しない。なぜ頻繁に出てくるのかはよくわからない。一方で、ホリエモン氏が多くの配信、そして著作を出していることには感心する。そこにはメルマガやブログも含まれる。そういった活動は、当然ながら時間を使うわけで、日々そういった活動をされているんだということは容易にわかるが、なかなか真似はできない。そもそも、ホリエモン氏が書いたことは誰かが読む、聞く、見るわけだが、私が書いたものがそうなることは明らかにない。

 さて、ではなぜ書くのか。最初に書いたように、そもそも思考力の低下、想像力の低下、興味の低下が著しく、このままでは老後どころではないと真に自覚したからである。

 現状、数理科学者であり仏教僧侶である立場を全く活かすこともなく、ただただ日々を浪費しているように思う。一方で、何か私にできることがあるとは思わないのだけれど、リハビリというか、自己研鑽というか、そういう意味でこういった随筆的なもの(ただし随筆というものがどういうものかはよくわかっていない)を書いてみようと思うのである。

 まあ、もしかすると数年後には、上手に随筆なり何らかの文章を書けるようになっているのかもしれない。そもそも、以前は頭の中で絶えず例え話を考えるようなことをしていたが、そういうことも最近はしていない。

 さて、先日の秋の法座では「阿弥陀仏のお救いから学ぶベクトル」という話をした。これは法座なので、その参加者は何度となく阿弥陀仏のお救いの話を聞いておられるから、そちらについては大変知識が多い。一方で、数学的な概念であるベクトルについてはあまり馴染みがないだろうということで、一般ウケからすれば「ベクトルで理解する阿弥陀仏の救い」となるのかもしれないが、あえて逆でやってみた。結論からすると、自分としては結構興味深い話ができたように思ったのだが、やはりわかりにくかったようだ。あまり準備もきちんとしなかったのがまずかったが、それなりに手応えを感じたので、もう少しリファインしたいところ。こんな話をするのはおそらく僕くらいなので、自信を持ってやっていきたい。自信とはそういうものだったか?(笑)

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