湖中のさかなのように、はやくとりのように、わたしひとすはなである。そのかおりが、位置する場所に家はあり、営みがあり、住所もある。
ある人が、小さい頃、嫌いであった銀杏を、料理を始めたことをきっかけに食べられるようになったと話した。彼女は、この味が、煎り方で変わると知ってから、不快さを失ったと言った。香りや味の不快さや心地よさは自明ではない。それが何の香りかがわからないことの不快さや、それが体に害を与えないということが不明であることの不快さがあって、それは香りへの反応ではなかったのだ。
そのような意味で、知覚への信頼はひとすはなになる。見かけは全てであり、しかし、ここでいう見かけは、新たな情報によって修正を迫られるものではない;それは、ある香りを誠実に嗅ぐような態度であって、理解によって変わるような不誠実なそれではない。そのようなものは、見かけにすら達していない。あるいは、見かけを——もののすべてを——取り逃している。
お読みいただきありがとうございます。京都市立芸術大学の修士課程に在学しデザインや写真の研究・制作をしながら、写真論や写真史の研究をしています。制作や研究をサポートしていただけると幸いです。