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「ここから何か生まれるかも会議」第8回

Cafe Mamehicoの店主である井川啓央さんに「小説を書いてもらいたい!」との佐渡島さんの思いを名幹事の辻さんが繋げてくれて始まった
「ここから何か生まれるかも会議」。
第8回の今回は、井川さん、プロデューサーの角田陽一郎さん、コルク佐渡島庸平さんのお三方が、井川さんが作り出す作品についてや、小説とは何かについて、余すことなく語ります。



佐渡島:今までの井川さんが書いてきた初期の2、3回って、読んでるみんなの中で変化がわかりづらかったかと思うんだけど、今回くらいになってくると読み手が「明らかにこれがいいんじゃないかな」と統一して感じるレベルへとジャンプしてきたなって思って。

井川:もっと褒め調子で言って!(笑)そんな淡々と言われても褒められてる感じしない!(笑)

佐渡島:松岡修造に乗り移ってもらおうかな。(笑)
今回の作品だと、作家の世界へのグリップ力がよく見えてきてる。エトワール・ヨシノというキャラクターがいることによって、作品の中の脇の人達が生きてくるというか。脇の人達は所詮脇なんだけど、今まではその人達を結構濃く書いちゃってたから。

物語でよく起きる問題で、例えば、「俺は世界一のサッカープレーヤーだ!」って誰かが心の中で言ったとして、その人が超妄想男なだけなのか、本当に世界一なのか、世界一の可能性を秘めてるのかって読者は分かんない。

井川:言ってるだけかもしれないしね。

佐渡島:うん、言ってるだけかもしれない。ここに一つ第三者視点で誰かがその人の練習風景を撮って、それでJリーグ協会の人が「すごいね」ってなったら、すごい才能だってことが分かる。すごい才能だってことを分からせるために、他人に言わせるっていうテクニックを使わないと、読者の信頼を勝ち取れない。

このサッカーの例の場合は上手い下手ってところになるけど、この作品でいうと、主人公の女の子の気持ちというのが、ちょっと自分に都合のいい感情を持ってしまっているのか、応援すべき感情なのかっていうのがヨシノ視点から見て、ヨシノの台詞が入ったほうが客観的に見える。それと主人公の感情を擦り合わせることによって、作品に対しての理解が深まる。だから、ただただ独白で完璧に綺麗な言葉を語っていくと感情が伝わるという訳ではないんだよね。

角田:今回の作品を読んだら、単純にヨシノが活きてきたと感じたいうか、読んでいて安心しました。今までのは不安感を煽られていた感じが少しして。今回のは読んでて安心した。

井川:いいね、安心できるのは。

角田:読んでて安心感があるって結構大事なのかなと改めて感じました。

辻:なんでヨシノがこういう見方をすると安心感をもたらすんですかね?

角田:「彼に教わったんだよ」とか、そういうようなギミックが入ってるからかな。そういう立ち位置の人なんだなって分かる。あとは、これが一話完結なのか連続なのかは置いといてなんだけど、一話完結にしても連続するにしても、続かない感じって読者を置いてきぼりにするというか。この先もヨシノの物語が続く感じがするというのも安心要素な気がする。主人公たちと別の視点があることも。

辻:今回の作品は、「帰る場所」がある感じがしました。

角田:初期の頃って、作品の中に出てくる、旦那には感情移入できないとか、嫌な男だとか、そういう意見が多かったじゃないですか。これってフィクションなのに、そういうところを議論してたのが空論に感じてたの。(※「ここ何会議」では、読者もその場で感想を伝えられます)読んだ人が自分が嫌な感じに感じられるかどうかって、作品の良し悪しに本当は関係ない。だから、その人が嫌に感じたかどうかとかって、違うところで評価されてるなという風に思ったりしてたんだけど、今日の作品を読むと、そういうところじゃなくて井川さんが伝えたかったことがピュアに伝えられているなという感じがしました。

井川:でも今回のだと読む人が引っかかる部分が無くなっちゃって、その辺の本屋さんで売ってるような感じだなって言われたらそれはそれで意図するものとは違ってくるな。あの引っかかりがありながらも、「これは読んだことないやつだ!」って読んだ人から言われたら嬉しい。それが無くて「やっとプロの作家になれましたね」とか言われても全然嬉しくないから。読みやすくなったけど、読者の感情が引っかかる部分ももありつつってなってたら嬉しい。

井川:今日読んでくれた人から、読みやすくなったって言ってもらえたけど、ボリュームはむしろ増えてるんだよ。前回の作品よりもちょっと増えてる。だけど、軽くしてるから、胃もたれしない感じって量じゃないんだなって。

角田:作品のタイトルの「Less Is More」ってことでしょ?(笑)

井川:そう。(笑)自分で書き直してて、前回のものよりバサバサと切ってるんだけどね。目方は減らさずに筋肉質にしようっていうことはすごく意識した。推敲っていうことがちょっと分かってきたからかな。

角田:それがすごく伝わった!

井川:推敲が何なのかが分かった。

角田:書くもんだね。テレビでいうと、荒編じゃなくなった。

井川:作品の直しって永遠にできる。なんでこんなに直せるんだろうって考えたんだけど、それは自分は毎日違うから当たり前だと思ったんだよね。

角田:なるほど。「今日の推敲」ができるようになったってことね。

井川:そう。だって人は変わるわけで、人が変わらないっていうことが前提になったら、作家のあなたが書いてるということだから、高みを目指せば一つのものが出来上がるって考えるじゃない。だけど、火曜日の僕と水曜日の僕は極端に言えば違う訳だから、同じ作品を火曜日の僕がいいと思っても、水曜日の僕が読むと「アレ…?」と思うわけよ。で、このズレっていうものに対して、ずっとズレを追いかけてると、どこを歩いていいのか分からなくなってくる。なので、推敲の仕方をパターン化したの。

例えば、僕「〇〇のような」っていう言い方を文章でよくしている。それは比喩だからなんだけど、この「ような」っていうことがやたらめったら出てくるってなると、もう「ような」だけを直そうと決めるの。「〇〇の」っていうのもよく使うんだけど、「僕のカバンの中に」みたいな。この「の」っていうだけを潰していこうって、ローラー作戦をかけるの。ローラー作戦をかけて直していくっていう頭になると全然直せちゃう。作者だって頭になって感情移入していくと、感情ってものは日によって違うから、直せるんだけど、よくなっているのか悪くなっているのかが永遠に分からない。だから機械的に直していくことを自分に課した。そうすると自分の秘伝のタレのようなものができてきた。自分が絶対に使うであろう表現とか。

で、「ちょっとここって言い直さないと分からないかな?」って自分が疑いをかけるような部分は全部消したの。言い直さないで削除した。そうすると、残ってでてくるものって、これはこういう風にしか捉えられないだろうなっていうものの集積だから。ここはこの長さの小説では書ききれないというところは全部書くのやめたの。これを説明しようと思ったら、この尺の短編小説では説明しきれないだろうなっていう部分は全部カットした。

で、それでどのくらいの量になるかっていうと、ボリュームはあんまり減らない。いらないいらないと思っても、「ん?」って思うところはそんなに膨らませなくてもいいところなんだよね。骨格だけが残るから。作品が筋肉質になる。

それがいいかどうかは分かんないけど、お店やっててもそうだけど、プロとして作品を書き続けるには、そういうような自分なりの秘伝のタレというか、「型」がないと、永遠に直して、いささか嫌になるわけよ…。(笑)で、いささか嫌になるから、毎回これで終わりだって言ってるんだけど、見ると直せるじゃない。なんでこんなことになるのかなって、2ヶ月くらい考えてた。そしたら、やっぱり人なんだから、火曜も水曜も違うから感情の部分じゃなくて、型もふまえて直す。前回の推敲してもらったのは、感情と型がごちゃ混ぜになってた。そうすると頭が嫌になっちゃうから、時系列は時系列だけで直すとか、工場化したの。

佐渡島:毎日感情が違うから直そうと思うと揺れるっていうのは本当その通りだと思う。「推敲」って何なのかって、しっかり過不足なく伝わるかどうかの確認だと思う。その推敲をする時のまさにの方法論は人によって違うかもしれないけど、感情的になるかどうかという軸でやっちゃうとブレる。

角田:感情の軸だと、どっちが正しいもなにもないですもんね。

井川:そう、どっちがいいも悪いもないから。前の作品をいいって読んだみんなから言われたら、そうだよなとも思うけど、それに頼ってると費用対効果悪いから。これに何ヶ月かかってるんだって話になっちゃう…。(笑)

佐渡島:あと、感情を軸にしちゃうと、10年経った時に、主人公の逆の構成感がいいとか、作品の完成度とはあんまり関係ないことになっちゃう。

井川:時代も変わってくるしね

佐渡島:うん。そこを推敲しだしちゃうと結構ややこしくなっちゃうから。

井川:そうなの。だから、何が伝えたかったんだろうって自分でも分かってるんだけど、それ以外の部分はバサっと切っちゃって、伝えたいためにはここは「が」なのか「の」なのか、伝えたいことの邪魔になってるものを掃除するって感じ。

角田:それがやられていない小説も確かにありますもんね。

井川:でもすごい面倒臭いよ。(笑)普段だったらこれでいいだろって思ってても、小説としてその精度ってことでやってくと、全部そのタッチに合わせなきゃいけないから。

佐渡島:例えば、料理人が味見して作ってるかどうかはある程度予想できる。これ味見してないなって思う店ってあるじゃないですか。それと同じように、小説家が何度くらい原稿を読み直してるかなって予想できるものですよ。

井川:ただこうやって整っちゃうと、今度は何を書くかってことのほうが大事な気がしてくる。何を題材にどういう切り口で書くかっていうことが大事になってくるから、そうなるとこの作品をもう早く脱稿したい。これはもうどんなにいじってもこの話にしか書けないから、これをもって何を書くかってことに興味が移っちゃう。

佐渡島:そうなってくると作家の器が大きくなっていかないと物語がついてこない。僕もなんで井川さんが作家としてやればいいんじゃないかと思うのかっていうのが、なんとなく分かってきた。クリエイターっていうのは、基本的に弱者に寄り添うものだってなった時に、どの時代にも生き辛い人がいるじゃないですか。で、その生き辛い人っていうのは、みんな自分の感情がよく分からないことが多い

角田:だから生き辛いんだ。

佐渡島:そう。自分がなんで生き辛いんだろうって分かっていたら解決できるから。すごい遡ると、文学の中で「蟹工船」で描かれていたプロレタリアートの気持ちとか。急に農場労働してた人達が都会に出てきて、よくなると思ってやってきたのに、なんでこんなに生き辛いんだろう、という気持ちが上手く描かれていて、当時あれを読んだ人は「分かってくれてるなぁ、小林多喜二!」って思ったみたいに。

夏目漱石は近代的自我を描いたってよく言われるじゃないですか。個人主義的に「個として立て」って言われると、当時は「個人」っていう概念が無かったから、今まで一族の者としてとか、村の者としてとか、藩の者として駒としてどういう風に生きてきてた人達が、「個人とはなんなのか」って言われても、よく分からない、という感情を描いたのが夏目漱石。それは当時の知識人の多くが感じてた生き辛さだった。森鴎外っていうのは、誰かに寄り添っているようなタイプの作品を描いてる人じゃないんですよね。っていう中で、井川さんは色んな人の悩み相談とかするのが好きじゃないですか。

井川:好きって言われると語弊があるけど。(笑)まぁ、分かるよ。

佐渡島:ちょうど現代の人が感じてる生き辛さを大上段に構えずに描ける可能性があるところが井川さんの魅力だなと思って。そこが水戸黄門みたいな形にハマり過ぎちゃうとつまんないんだけど、なんとなく現代人の感じる生き辛さみたいなものを正確に捉えて描けるかもしれないって感じて。

昔、田辺聖子さんとか向田邦子さんが描いていた、市井の人たちの生きづらさを描いた作品って最近あんまり出会えないんですよ。完全にエンタメとしてとか、ミステリーとしてみたいな物語っていうのは存在してるけど。井川さんなら市井の人の生き辛さに寄り添う物語が描けるかもしれないなって思って。

新しい感情に苦しくなる時って、家庭で植え付けられてきた価値観と社会で求められている価値観がズレる時。今後そういうような生き辛さを感じている人達が、エトワール・ヨシノに会いに来ることによって、現代の生きづらさが立体的になってくるっていう風になると、文学としての面白さが増してくる。

角田:それでいうと、チェーホフですよね。

佐渡島:そう、目指すレベルはそれ。全ての文学の主人公は、社会的価値観と個人の価値観のギャップで悩んでるんですよね。それがすごく明確に描かれる場合もあれば明確に描かれない部分もあって。組織との価値観と個人の価値観ののズレが描かれているのが半沢直樹だったりするように。

角田:自己啓発本でもその目線がある自己啓発本と無い自己啓発本がありますよね。社会と個人の価値観のズレが芯にあると、自己啓発本でも質が違うなって思います。

佐渡島:社会的価値観と個人的価値観のギャップを解決しなければいけないものとして提示するのが自己啓発本

角田:小説はそのギャップを解決しようとしなくてもいい訳だから。

佐渡島:そう。それって解決しないといけないのかどうかも含めてテーマなのが小説
今までの井川さんの作品は具体が先にきていたのが、段々変わってきた。具体について延々と話してるんじゃなくて、抽象のところで精度を合わせていきましょうという議論ができるようになると、作家と編集者のいい対話ができる。打ち合わせができる。例えば、スタバに来るお客さんとマメヒコに来るお客さんって価値観がどう違うと思います?っていう議論を井川さんと話し合っていく中でキャラクターが生まれてきたりすると思う。

井川:具体のほうを大事にしようと意識はしてる。抽象と具体とのバランスなんだけど、市井の人ってやっぱり具体だから。お店やってても感じるんだけど、本当にちょっとしたことで人って肌触りが違うように感じるってことがあるじゃない。小さいことで抽象概念ってひっくり返るものだと思ってるから、そういうところを大事にしたいとも思う。この人のこと大好きだと思ってても、楊枝の使い方見て100年の恋も冷めるっていうこともあるじゃない。そういうのは描いてみたい。

3月24日に10時〜11時半に神楽坂で行われる「本のフェス」。
イベントでは井川さんが作品の中に出てくる、エトワール・ヨシノとして1日いらっしゃるそうです。


井川:作品の中のエトワール・ヨシノになって新しい読者体験を感じてもらえたらいいね。

佐渡島:井川さんはちょっと人より早くVtuberと現実が混同しちゃったんだね。

井川:え、どういうこと?(笑)

佐渡島:ヨシノがVtuberみたいなものだもんね。ヨシノになると性格とか喋り方とか変わる感じが。

角田:リアルVtuberとも言えるし、デーモン小暮さんとも言えるし。(笑)

佐渡島:その日は僕が、エトワール・ヨシノっていう占い師と話すみたいな感じにしようか。 単行本のタイトルは「エトワール・ヨシノ」!!


どうして私が井川さんの作品が好きなのか。
それは、井川さんの作品には
「人生とは明るく楽しいことばかりではない。辛いことも苦しいこともあるだろう。やりきれないこともあるだろう。むしろそんな時のほうが多いかもしれない。だけれど、そんな下を向きたくなる時だって、それでも人生は続いていく」ということが、繊細な描写で描かれているからです。

人が抱くそういった気持ちに気づいて、汲み取ることが出来る。井川さんはそうしたことが出来る方だなぁと、作品を読んでも、実際にお会いしても感じます。


今回の『LESS IS MORE』の作品後半に、主人公の優希がやりきれない感情を抱く部分があるのですが、その感情の後に

「そのあと優希は浴槽の掃除を念入りにし、切れかけていたシャンプーを補充し、ベランダで芽が出ている芋をポテトサラダにした」

という描写があります。この描写に私はすごく共感しました。

私も日々生活している中で、もうこれ以上力が出ない…。と感じることもあります。それでも子供達のお迎えに行き、ご飯を用意し、お風呂に入れ、寝かしつける。ギリギリの力を振り絞って生活を回していく、非日常というよりも、むしろ日常がそちらだと言ってもいいかもしれません。

「苦しいことは淡々と。やりきれない思いもあるからこそ楽しいことへの感度が増す」

私はそんな風に思って日々を過ごしています。

井川さんはそういった、人が抱くやりきれない思いをとても繊細に作品に投影してくれる方で、だから私は井川さんの作品を見続けたいんだなと思います。

来秋には今回の『LESS IS MORE』の他にもいくつか短編小説を作り、単行本として発売予定だそうです。今から楽しみ!!

最後までお読み頂きありがとうございました(^^)

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