シリア、パルミラの古代都市の遺跡で 23歳の誕生日を迎えた、37年前の 911 ... ってことはナニ? 今日、還暦かよ。
わざとらしいか。わざとらしいな。業(ワザと読みましょう)だな。業(ゴウと読みましょう)だな。拙者であるところの筆者が 37年前の今日、パルミラの古代都市遺跡で撮った、その蔵出し写真集(グラビアアイドルのそれみたいな表現だな、笑)は、本投稿の最後の章。果報は寝て待て(笑、寝るな)。
アグネス・ラムは、 4年前に「還暦」
本投稿の序文で「その蔵出し写真集(グラビアアイドルのそれみたいな表現だな、笑)」と書いたところで、思い出してしまった。「しまった」と言ったって、別に何のことはない、思い出しても全然構わないんだが(笑)。当然ながら!!
拙者、中3の時だったか高1の時だったか、当時日本で一世を風靡したアグネス・ラム(拙者の世代のストレートの男で彼女を憶えていないという人がいたらそれは超ド級の驚き)にファン・レターを出したことがある。
ハワイのアドレス宛てで、ハガキを使いつつ、頑張ってもちろん英語で認め(「したため」って「認め」って書くんだよな、「さみしさのつれづれに手紙をしたためています あなたに」、井上陽水「心もよう」)、エアメイルで(エアメイルは当たり前か)。
で、何と、程なくして、アグネス・ラムの写真付きハガキによる、彼女からの直筆(印刷じゃなくて直筆ですよ、直筆!!)の返事が我が家に届いた。
"I hope to be back in Japan soon, see you there in the near future", 大体こんな類のことが書いてあって(英語の一字一句までなんて記憶しているわけないし、こんな英語はもしかしたら不自然かもしれないが、まぁ要するにこういう意味になる英語だったのは間違いない)、そりゃもう、ませガキだったものの、当時まだまだガキの心の拙者が、コーフンしなかったはずはない。
まぁね、冷静に考えりゃ、そりゃもちろん当時だって思ったものだが、その「直筆の」返事を書いてくれたのはアグネス・ラム自身じゃなくて、彼女の事務所のスタッフだったのだろうが、あれは嬉しかったねぇ。後々の家宝にすべく、とっておくべきだったのに、多分もう無いと思う。田舎の実家の中を探しまくると見つかるのかもしれないが。
アグネス・ラムは 1956年の初夏、ハワイ生まれ。だから、4年前に日本でいうところの「還暦」を迎えています。この写真は当然ながら、拙者が大ファンだった頃の写真だと思われる(場合によったらその少し後ぐらいかもしれないが)。
メシ喰うな! ー 町田町蔵は、再来年が「還暦」
本投稿の序文の最後、「果報は寝て待て(笑、寝るな)」と書いて、つまり、そこに「寝るな」、と書いたところで、思い出してしまった。「しまった」と言ったって、別に何のことはない、思い出しても全然構わないんだが(笑)。
昔々、「メシ喰うな!」というタイトルの歌があった。いま調べたら、同名タイトルのアルバム・リリースが 1981年3月1日だから(ただし前年にオムニバスアルバムの中でこの曲の原型みたいなものをリリースしてると思う)、拙者が札幌で鬱屈としていた大学2年の時。
町田町蔵(後に町田康を名乗って小説家にもなる男、ついでに言うと彼の還暦は再来年の年明け早々です、つまり似たような年頃なのであった)率いるパンク・バンド INU がリリースした歌、これ。
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。
「還暦」かぁ、鬼才、永井豪 作 「赤いちゃんちゃんこ」 を思い出しつつ ..
小学生の頃に読んだ永井豪の漫画に確か「赤いちゃんちゃんこ」というタイトルの漫画があって、それは、60歳になったら「還暦」祝いで家族に赤いちゃんちゃんこを着せられて、お祝いされて、その後に直ぐに姥捨山に連れて行かれるという話だった(笑)。「デビルマン」、「バイオレンスジャック」、そして「ハレンチ学園」の永井豪は文字通りの巨匠であった(である、健在!!)
いま気になってググったら、タイトルは「赤いちゃんちゃんこ」で正しいが、その漫画の中で着せられるのは黒いちゃんちゃんこ、だったようだ。それと、小学生の頃と書いたが、中1だったかもしれない。
いずれにしても、もう半世紀ほど前から、もしかしたら拙者がガキだったから憶えてないだけで、もっと以前からだったかもしれない、日本はいずれ、高度高齢化社会になる、超高齢化社会になる、そして少子高齢化社会(拙者は元祖「ウルトラマン」もしくは「ウルトラQ」世代だから使えば、要するに感覚的にはウルトラ少子高齢化社会)になるということへの懸念が、いろんな媒体の上で(新聞・雑誌といったマスメディアから漫画に至るまで、いや漫画の方が川上でいいんだけど)、当時のガキがいま記憶しているくらいのレベルで言われていた。
しかし、日本政府、日本社会の統治機構は、当時から具体策を実行し始めていれば今の時代に間に合っていた可能性もあるというのに、事実上、何もやらなかった。当時から、今の今に至るまで。もしかしたら何かやったのかもしれないが、実態は、ほぼ何もやらなかったに等しい。
そして、今や一般の日本人や日本社会の支配層の連中が好むと好まざるとにかかわらず、日本社会を外国の人たちにとってもっと住みやすい社会にして、外国生まれ外国育ちの人にも日本に来て(当然ながら無理矢理ではなくてそうしたいと思ってくれる外国の人たちに)住んでもらうことが、日本社会の超ド級の少子高齢化に歯止めをかけ、社会の衰退を防ぐ有力な手立ての一つになるのに違いないにもかかわらず、いまだ日本という国は、たとえば日本に働きに来る外国人を労働力の適当な調整弁扱いにして憚らない。
そうしたことの具体例をいちいち見ていくと、日本に住む外国人たちへの人権侵害といった観点でも問題だらけの日本社会の実相が見えてくるのだが(拙者の住む街の隣街に「東日本入国管理センター」という名のとんでもない収容所施設があるよ、拙者も妻子と共に抗議活動に行ったことがある)、それ以前にというか、それと共に、統治機構の人たち(当然ながら政治家を含め)の頭の悪さが矢鱈と目立つ昨今なのであった。
「還暦」を迎えた今日、今日も今日とて、よく喋るというか、いろんな分野にペンを突っ込んでいくオヤジであった。拙者であるところの筆者。
パラミラ古代都市遺跡、蔵出し写真集は最後の章だよ 〜 知らない人の還暦を祝ってやろうという人(いる?)はこっちも読んでほしい、ユヴァル・ノア・ハラリの「人類と新型コロナウイルスとの闘い」論考批判
この章の中身は、長い長い、本当に長いなこの見出し、の字面を読んで字の如し。
ユヴァル・ノア・ハラリ、少なくとも彼がこの 3月に発表し、国際的に、且つ日本のメディアや SNS 上などでも注目を浴び矢鱈目ったら評価・称賛された「人類と新型コロナウイルスとの闘い」論といった趣旨の論考には、論理的なレベルの欠落と言っていい欠如があり、観点次第で欺瞞的とも言える内容のものであるにもかかわらず、いまだ彼への礼賛、賛美、称賛の声は止まる所を知らない。
というわけで、時々、書きたくなるのだ、彼のアレへの批判・批評を。
ってわけで、昨日あらためて書いて投稿したのが、その 3回目。「ナタリー・ポートマン と ユヴァル・ノア・ハラリ の相似と相違」なんてのは、多少とも斬新な切り口だったような気はする。切れ味鋭いナイフでなくて、よく切れるハサミで切ったんだけれど(笑)。
ユヴァル・ノア・ハラリについては、前にも 2回書いている。最初のやつは、フォロワーが少ない note アカウント・フォルダーの拙者にしては現時点で 13ほどの反響をいただいている。2回目のはその約半分(2で割ってから 0.5引く、細かい!!)、現時点では 6 留まり。
以下、1回目 と 2回目。
19年前の 911, 拙者が41歳の誕生日を迎えた日は、世界を揺るがしたアメリカ同時多発テロの日だった。
以下の note 投稿は、去年の 911, 拙者が 59歳の誕生日を迎えた日に note に登録し、最初に投稿したテキスト。
タイトル上の写真は、1983年の 911, 拙者が 23歳の誕生日を迎えた日にシリアのパルミラの古代都市の遺跡を訪れて撮った写真のうちの一枚。
この写真は投稿内容に直接的には関係しないのだが、投稿テキスト中に転載した 2001年9月15日の自分の日記に 1983年から翌 '84年にかけての当時の拙者のいわゆる「海外貧乏旅行」に触れた部分があって、且つ、その日記そのものは 2001年の 911 にアメリカ合州国を襲った同時多発テロを受けてその 4日後に書いた日記だったので、上記「海外貧乏旅行」中の 1983年 911 に訪れたシリアのパルミラの遺跡で撮った写真を使ってみた。
47年前の 911 は、 アメリカがチリの民主主義を殺した日
アメリカ合州国の殆どの人は、自らの国が災難に遭った 2001年の 911 は忘れなくとも(まぁ忘れてる人もいるんだろうが)、自らの国が他国の政権転覆を図った 1973年の 911 については知らない。関心も持たない(持つ人もいる、少数)。
遥か昔っから、他国の政府の転覆が殆ど趣味のようになっているアメリカ合州国。
そんなアメリカ合州国の政治権力が、チリの、民主的な選挙で選ばれた大統領、要するにチリの人々が自らの国の元首として自由選挙で選んだ大統領、サルバドール・アジェンデに対する、チリの軍隊によるクーデター、将軍アウグスト・ピノチェトによるクーデターをアメリカ合州国大統領直属・直轄の監督下にあるアメリカ中央情報局 (Central Intelligence Agency)、つまり CIA を使って背後から演出・支援し、ピノチェトのクーデターを成功させ、チリの民主主義を殺したのが、1973年 9月11日。
サルバドール・アジェンデは、自身に対するクーデターを図った軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う最中、チリ国民に向けて 6度ラジオ演説を行なった後、自死した。
以下は、バーニー・サンダースがまだ今年のアメリカ合州国大統領選における民主党からの候補を争っていた時の論戦から(拙者が Facebook でシェアしたヴィデオ)。
バーニーはこの時、1973年のチリ(サルバドール・アジェンデ大統領)、1954年のグアテマラ(ハコボ・アルベンス・グスマン大統領)、1953年のイラン(モハンマド・モサッデク首相)の例を挙げ、自分の国であるアメリカ合州国の政治権力が、他国の政権を転覆させた過去を明言した。
これらはアメリカ合州国による外国政府転覆例の一部だが、因みにこの三例について言えば、全て、その国、アメリカ合州国にとっての外国の国民が民主選挙、自由選挙で選んだ自国、アメリカ合州国にとっての外国の政府。
バーニー・サンダース以外に、こんなことを、かつてアメリカ大統領候補のレースの中で公の場ではっきりと言葉にして明らかにした人は、アメリカ合州国にいただろうか。
勿論、いない。いなかった。少なくとも、いわゆる「泡沫候補」的存在でなく、選ばれる可能性が十分にあった有力候補の中で、こうしたことを明言した人はいない。バーニー・サンダース以外には。
加えて言うなら、ユダヤ系アメリカ人であるバーニー・サンダースは、アメリカ合州国の対イスラエル一辺倒の中東外交を批判し、パレスチナ人の人権を擁護することの重要性、必要性にも、大統領候補のレースの最中でたびたび触れた人だった。
バーニー・サンダースが民主党の大統領候補となり、最終的にアメリカ合州国大統領となっていたら、あの国に真の「変化」が訪れた可能性は大きいのだが、もはや後の祭り、民主党の莫迦幹部連中は彼を嫌い、中にはイスラエル・ロビーの力を借りて反バーニーのキャンペーンを張る連中まで出て、最終的に民主党の候補は「現状維持」の権化みたいな(しかも徹頭徹尾イスラエル支持派の)ジョー・バイデンとなった。
ジョー・バイデンが仮に大統領選でトランプに勝ったところで、あの国はオバマ以前に戻るだけのこと。バイデンに期待は全くしない。
このヴィデオ、左側で喋っているのがバーニー・サンダース、その右で「バーニー、何を言い出すんだ」ってな調子で茫然自失(してたに違いない)の顔を見せているのがジョー・バイデン。
次。
以下の拙者の Facebook post では、上の post と同じヴィデオをシェアしつつ、Instagram 上でこのヴィデオのオリジナルが投稿された際のコメント欄で拙者がアメリカ合州国の人たち 3人と議論した時の内容、そのコメント欄・会話の一字一句をそのまま転記してある。
アメリカ人のそれぞれの名前は匿名にしたが、A1 はちょっと「困った」人(結構こういう人っていると思う、あの国は)、A2, A3 は話が通じる人だった。
以下の Instagram post がそのヴィデオのオリジナル。このコメント欄で、まぁ note は日本社会の中のもののようだし、そもそもが本名じゃなくてハンドル・ネイムであるところのアカウント名だからいいでしょう、A1 は dennis_king_art というアカウントで、彼の "Honest about american imperialism?????? Why hasn't Bernie moved to cuba yet?" というコメントの下に 76 replies が連なるスレッドがあって、その中に、拙者と A1 であるところの彼、そして A2, A3 (勿論、固有のアカウント名がそれぞれある)との間の議論、というか、コメントのやり取りがある。
55年前の 911 は、 シリアの現独裁者・大統領、バッシャール・アル=アサドが生まれた日
37年前の 911, 拙者がシリアのパルミラの遺跡で 23歳の誕生日を迎えた時は、シリア(シリア・アラブ共和国)の大統領は、バッシャール・アル=アサドの親父さん、ハーフィズ・アル=アサドだった。
そうです、型通りの選挙はしているとはいえ、事実上の権力世襲。「朝鮮民主主義人民共和国」が正式名称の北朝鮮のアレみたいじゃないかって。まぁ現象的にはそう言えなくもないが、あの国は元首選びについては型通りの選挙もしないし、あそこってもう三代世襲になってしまってる。
現シリア大統領バッシャール・アル=アサド(以下の写真の左)は、シリアの先代大統領ハーフィズ・アル=アサド(右)の次男坊。親父さんも独裁者だった。どちらの時代においても、シリアはイスラム専制のイスラム法による支配を掲げるイスラム神政国家が治める国ではなく(基本、そういう国は政治的自由だけでなく、カルチャー面とかあるいは女性の服装に関する自由などもない)、この数十年間にわたるシリアの社会は、一定の市民的自由はあるが、政治的自由はかなり制約されるといった社会。
1983年9月、当時のシリアを旅していた時の拙者の日記には、「みだりに政治のことを話すな。自分の為にも知り合ったシリア人の為にも」という自分に対する警告のメモが、何度も書かれている(政治犯が相当数、牢獄に入れられている社会だから、深みに嵌って踏み込むとヤバイことを感知していたので)。
次の写真は、バッシャール・アル=アサド(もちろん右、笑)と彼の嫁さん。嫁さんはイギリス出身。はっきり言って美人です。美女、権力者を好む。ってなわけでもなく、たまたま惚れてしまったんだろう。恋愛というのは、時にキツイ。政治家相手でも構わないけれど(politician じゃなく statesman がベターです)、もっと「いい政治家」になる人に惚れてほしかった。
彼女の名は、アスマー・アル=アサド。イギリス生まれ、イギリス育ちのスンニ派シリア人で、バッシャールはイギリス留学中に彼女と知り合った。シリア人同士、シリアった。駄洒落。
アスマー・アル=アサドは「中東のダイアナ」とか「砂漠のバラ」(因みにシリアは砂漠だらけの国ではありません、砂漠もあるけど)とか言われるようだけれど、拙者はとりあえず容姿だけで言えば、このアスマーさん、あのダイアナさんより美人だと思う。
本投稿はアスマー・アル=アサド特集ではないので(笑)いちいち載せないけれど、ネットを漁れば、彼女がいかに美人か、もっと伝わる写真は沢山あるはず。
余談: シリアの政治の評価は一筋縄ではいかない ..
バッシャール・アル=アサドの政治体制が独裁であるのは確か。そして、近年のシリア内戦の際は、数え切れないほどの反政府派の人々が政府軍に殺され、また、国を追われたりした。拙者の Facebook frineds にも難民になってトルコやドイツに移り住んでいるシリア人たちがいるし、Instagram でフォローしあっている人には、シリア生まれシリア育ちのクルド人で、難民として母国を逃れ、今現在はスイスで家族と共に暮らしている詩人兼画家がいる(彼の場合はある意味さらに複雑で、元々ムスリムだったところ、普通はイスラムのコミュニティの中では不可能で生命の危険さえある改宗 = 彼の場合はキリスト教への改宗 = をしているので、生まれ育った場所のコミュニティに戻るのはあまりに危険過ぎてほぼ不可能だと思うと本人が言っている)。
一方で、近年のシリアの内戦は、シリア政府と反政府派のシリア人同士の戦いにイラン、ロシア、トルコ、アメリカ合州国の他にイスラエルまで介入し、そこにさらにイスラム国(IS)まで入り込んだから、究極の、とんでもなくややこしいものになった。
こうしたケースでのアメリカ合州国の介入はいつものことで(シリア内戦では反政府側についている)、良くないのは言わずもがなだが、かと言ってバッシャール・アル=アサドによる独裁体制が良いとはとても思えない。
近年のシリアの政治や政治環境を評価するに際しての難しさを象徴する、その難しさの結果としての一つの例を挙げると、パレスチナ問題に関しパレスチナ人たちの人権や民族自決権、難民の帰還の権利などを支持する人たちの間でも(拙者が経験したのは海外の人たち、つまり欧州の人とか、あるいはアラブ諸国の人とか)、バッシャール・アル=アサドを徹底的に批判する人から、対イスラエル、対アメリカという観点もあってバッシャール・アル=アサドの体制を支持する人までいて、そして、その中間とか是々非々対応みたいな人も沢山いる。まぁ拙者は是々非々対応みたいな人間の一人なんだろうけど、バッシャール・アル=アサドによる政治体制について言うなら、それがいいとは決して思えないし、思わない。
以下の写真は、4年前、2016年12月18日、シリアの反政府派が押さえていたシリア第2の都市アレッポ(拙者は 1983年9月、パルミラを訪れる前はアレッポにいた)がシリア政府軍の猛攻撃に晒されて陥落する直前、当時あまりに多くのシリア人が命を落とし、いたたまれなくなって、SNS で知り合った人の呼びかけに応じて、妻と一緒に東京に出かけ、六本木や渋谷での(それぞれ手製のプラカードなど持ちながら)殆ど自然発生的に集まってきた人たちの集まりに参加した時のもの。
1, 2枚目は六本木の交差点。他の人の顔も写っているけれども、まぁそれほど明瞭に写っているわけでもないし、その時の雰囲気から大丈夫と思う(何人かにはおことわりして当時 Facebook に投稿したりもしている)。
1枚目の右端は拙者で(妻が撮った)、2枚目の右端は拙者と妻(拙者は妻に寄り過ぎてるな)。
3, 4枚目は渋谷の交差点。5枚目は、その日、家に帰ってから、渋谷で使った蝋燭を灯しながら、妻と作って東京での集まりに持って行ったプラカードに、なんとなく本などを加えて写真を撮ったもの。
37年前、1983年9月1日、ソヴィエト連邦の空軍戦闘機が大韓航空ボーイング747旅客機を撃墜、乗員・乗客合わせて269人全員死亡。
この事件については、拙者は 1983年9月11日、37年前の今日、シリアのパルミラを訪れた日、宿のオヤジさんから新聞を渡されて知った。驚愕のニュースだった。
パルミラについて
拙者が撮ったパルミラの古代都市遺跡の写真は、最後の最後に載せます。勿体ぶるなぁ。まぁ「還暦」だし。関係ないか(笑)。
パルミラの遺跡は、現在のシリア中央部に所在する、当地をローマ帝国が支配していた時の古代都市の遺跡。
拙者は「世界史」とってない。好きだけどね。
ウィキ。
IS, 通称「イスラム国」の阿呆ども、莫迦どもによる破壊に言及しているテキスト、もう一つ。
古代遺跡が大好きな皆さん、お待たせしました、シリアのパルミラ 〜 IS 通称「イスラム国」の莫迦どもが破壊する前の見事な遺跡の姿、蔵出し写真集
拙者は当時、1983年4月から1984年2月にかけてのバックパッカー「海外貧乏旅行」一人旅の「放浪者」もどきだった。
実際のところ、大雑把な計画をもって旅していたんだから、真の放浪者ではない。だから、「放浪者」もどき。
横浜港をフェリーで発ってロシア、当時のソヴィエト連邦へ。そしてシベリア鉄道の旅。その後はヨーロッパ諸国、そして 8月にはギリシャからトルコへ、その後、トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプト、再びのトルコ、そしてイラン・イラク戦争中(両国の国境辺りでやっていたので、トルコからの陸路移動はオッケー)のイラン、その後はパキスタン、インド、タイ、韓国を旅して、日本に戻る。
そんな旅の最中、シリアでは、アレッポとパルミラとダマスカスを旅した。
前の章で安直に資料リンクを載せたけれど、兎にも角にも、パルミラは、シリア中央部に所在する、当地をローマ帝国が支配していた時の古代都市の遺跡。
拙者が見た遺跡の中で飛び切り見応えがあったのは、シリアのパルミラ、ヨルダンのペトラ、他にも良かったのはギリシャのパルテノン、イタリアはローマの遺跡、ポンペイの遺跡、そしてエジプトのピラミッド(あれは勿論すっげの一言なんだけど、あれって遺跡という名称とは別次元にあるような)。
以下は、ここまで思い切り勿体ぶった、拙者であるところの筆者の本日「還暦」記念、37年前に23歳の誕生日を迎えた日に、シリアのパルミラで撮った写真。
以下 3枚、パルミラの遺跡から、宿のある街方面に戻る道、これは見ての通りで(笑)、近代の「道路」。
宿のある街に戻ったのであった。
宿のおやっさん達と。ベドウィン一家のようなつもりで記念写真。右から 2番目の怪しい東洋人は誰だ? .. 当時 23歳の俺だ !!