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パルミラ(シリア, 古代ローマ帝国の都市遺跡) 〜 1983年9月11日(ISによる破壊の32年前)

写真は, 西暦紀元32年に建造され, 2000年近くこの姿を保ちながら, 今から6年前, 2015年に "宗教" 原理主義者 IS「イスラム国」がこの地域を制圧した際に破壊された, パルミラのベル神殿(1983年9月11日, 筆者撮影)。この写真を含む 1983年のパルミラの写真は 本 note 第2章にて。  

謎の東洋人, パルミラに現わる

1983年4月26日に「極東」日本を発った怪しげな東洋人(以下 note 1つ目タイトル写真の右から2番目!), 「現代」のシリア・アラブ共和国, 「古代」ローマ帝国時代の都市遺跡があるパルミラに現わる, 1983年9月11日(細かいこと言うと, この写真はパルミラの遺跡に隣接する「現代」シリアの街タドモルの安宿で撮影)。

あれは 1983年の 911 で, あれは 自分の 23歳の誕生日で, 

それはそれからちょうど 18年後の同じ日にアメリカ合州国が「アメリカ同時多発テロ」に見舞われる日だった(以下 note タイトルに使った写真は, 1983年の 911 に シリアのパルミラの古代都市遺跡で筆者が撮った写真, 後の2011年に始まったシリア内戦中・2015年に IS「イスラム国」によって一部破壊されたパルミラの円形劇場)。

さてさて。

パルミラ (写真14枚) 〜 IS いわゆる「イスラム国」の莫迦連中が破壊する前のパルミラ, 1983年9月11日

これの最終章にも載せてるけれど,

1)

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3) 2015年に IS「イスラム国」によって破壊されたパルミラの「勝利のアーチ」, 凱旋門。

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5) 2015年に IS「イスラム国」が一部破壊した, パルミラの円形劇場。

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7) 2015年に IS「イスラム国」が破壊した, ベル神殿(西暦紀元32年建造)。

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以下 3枚は, パルミラの遺跡から 宿のある街タドモル方面に戻る道。見ての通りで, ここからは「現代」の「道路」付き写真。

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2000年以上前に遡る歴史を持つ「古代」都市 パルミラ の遺跡, その凱旋門(2015年に, 1300年程度の歴史を持つ "宗教" を狂信する連中 IS「イスラム国」が破壊)の横を通る, 「現代」の馬車。

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パルミラ, 本当に本当に, 実に美しい, 類稀なる都市遺跡だった。

さてさて。

怪しい「極東」東洋人, パルミラに現わる(写真2枚)

なんつって。パルミラの遺跡から, パルミラに隣接する街タドモルに戻って一枚。 

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宿のおやっさん達と。ベドウィン一家のようなつもりで記念写真。右から 2番目の怪しい東洋人のオヤジ顔が, 当時 23歳の誕生日を迎えたばかりの筆者。

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誕生日だったのだ ♫

トム・ウェイツも, ある意味「怪しい」風貌かもね。

旅日記から 1) 〜 「とにかく, 夜空の下で ぼくらは いろいろと話した。アラブの伝統を, ぼくは体験したのかもしれない」, そして 1983年9月10日にパルミラ(タドモル)で知った 同年9月1日ソ連による大韓航空機撃墜事件

当時の旅日記から。その前に, パルミラに着く前のことについて。1983年4月26日に横浜港を発ってフェリー2泊3日の船旅で当時のソ連・ナホトカに向かい, 以降はソ連・ヨーロッパを旅した後, 8月11日からは中東(西アジア)の旅, トルコのイスタンブール, カッパドキア, そしてシリアとの国境に近いアンタキヤに滞在, その後, 9月5日に陸路 シリア入国, 9月10日まで, まずはアレッポに 5泊6日滞在した。

旅日記についてはこれまでその大方を掲載することが多かったけれど, 今後は当面, 一部掲載ということにしていこうと思っている(上掲 note では詳細掲載)。その辺りのことは上掲 note においてアレッポでの写真を掲載した後の章「旅日記について」で触れている。 

... と思っていたのだが, 色んなところに様々なことを書いていて切り取りにくく, いやそれよりも 今回については 23歳の誕生日をパルミラ で迎えた記念, やっぱ誕生日前日と当日の日記の大方を載せておくことにした。

ではでは, アレッポ を発って パルミラに着き, パルミラ(に隣接する「現代」の街タドモル)に滞在している間の旅日記, 以下はその大方, 要するに大部分

最初の3ページについては, 上掲リンク先, 前回のシリア旅 note アレッポ編 に載せたものをそのまま, ここに転載。

お世話になったアレッポの若者たちに別れの挨拶をし, そして古代ローマ帝国の時代の大規模な都市遺跡があるパルミラへ 〜 1983年9月10日

5泊6日したアレッポの街を離れた日, 1983年9月10日。

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アレッポ を発って, いざ, パルミラ へ。「きれい」なバスに乗って, 経由地ホムスに着くと, そこから パルミラ行きのバスは「朝の 9時のみだと言う(既に 10時をすぎていた)」。

上掲の頁の日記にある通り, 観光案内所をみつけ, カタコトのアラビア語で挨拶しつつ, 他にパルミラに行く方法がないか尋ね, 毎時出ているというローカルバスがあることを知った。

バスは きたなかった。
たぶん アレッポ から ホムス も, きたなくて安いバスが あったと思う。しかし誇り高き J.. や スーフィーは, きっと きれいな方(したがって少し高い)に乗せたかったのだろう。

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*以下も, パルミラに着いてから書いた, 上掲の頁の旅日記からの引用。P.L.O. をカタカナ書きしたのは, 後に行くイスラエルでの荷物検査を想定した "万一" あるいは "もしも" に備えて。「真近」は正しくは間近。

運転手の息子と思われる子供が 中で働いてる。荷物運び その他。かんじいい子だった。
途中から 完全に砂漠。ベドウィンのテント。途中で降りる人たち(=ベドウィン)。彼らが ベドウィンであることは パルミラでも きいたから確か。

また「異邦人」してしまった ♫

.......

さてさて, 1983年9月10日 の現実, あの日の シリア, ホムス から パルミラ への旅に戻して。

戦車の群れ。爆音。土けむり。なんと シリア軍(か, もしかしたら ピー エル オー)の演習だった。軍の演習を真近で見るのは初めてだ。
タドモル(パルミラ)につく。つく前, 広大な 遺跡 をみて カンゲキ。

ではでは, ここからまた, 旅日記 の続きを掲載。

宿をとって, そこの

子供たち及び青年, おっさんとともに garden へ。
火をたいて, シャイをつくり, みんなでダベる。

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日本は親米かというので, 日本政府は USA政府と仲がいい, 俺は American people は好きだが, USA government はきらいだと言っておいた。

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オレが韓国航空機の事件(後述)について話し, It's very shocking news for me と言ったとき, 学生は, レバノンでは, 毎日毎日, 多ぜいが死んでいくと言った。つまり, 彼は, そのような惨事が レバノンでは 日常的にあるということを言いたかったのだろう。

レバノンは当時, 長い長い内戦の最中にあり(1975年 - 1990年), 前年1982年にはイスラエルによるレバノンへの侵攻もあった。レバノンを巡っては, シリアとイスラエルも対立, 軍事的に緊迫した状態にあった。上記はたまたまパルミラ(タドモル)に来ていたシリアのアレッポ大学の学生との会話だが, そのシリアがその時から28年後の 2011年から長い内戦状態に陥っている。何とも悲しい歴史の綾を感じざるを得ない。

もちろん 政治的なことは 話したことの 1部にすぎない。暗くなって 火をたいて しゃべり, そして garden を出たあと, 遺跡のところでも すわって話した。1部がライトに照らされて ジャミール(=beautiful)! 夜空も全く美しい。(砂漠の夜空なのであります。) 

我が人生これまでの 61年の間に見た最も美しい夜空は, ここパルミラの遺跡の近くで見上げた夜空と, シリアの次に旅したヨルダンにあるペトラの遺跡(パルミラと「ほぼ」同時期に古代ローマ帝国の支配下にあった都市の遺跡)近くでベドウィンの家族のテント脇にシュラフ(寝袋)を出して寝た日の夜に見上げた夜空, その二つだったのではないかと思う。

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韓国航空キ事件」とは, 1983年9月1日に起きた, ソ連空軍による大韓航空機撃墜事件, あの世界を震撼させた大事件, 大惨事のこと(大韓航空のボーイング747が, 当時のソヴィエト連邦の領空を侵犯したことを理由にソ連空軍の戦闘機によって撃墜され, 乗員・乗客合わせて269人全員が死亡・殺された事件)。

1983年9月1日 というと, 自分は 8月11日から3週間滞在したトルコのイスタンブールを 8月31日の夕刻にバスに乗ってカッパドキアに向かい, 翌9月1日朝8時頃に同地のユルギュップに着いていた。件の大韓航空機がソ連空軍機に攻撃されたのが 東京/ソウル時間で午前3時半より少し前, 墜落したのは同, 3時半過ぎということだから, 時差を勘案してトルコの現地時間で言えば 8月31日の夜9時半頃のこと。したがってイスタンブールからカッパドキアに向かうバスの中にいた, その間の時間ということになるのだが, あの大事件が明るみになって一大ニュースとして世界中のメディアがその「詳細」を配信できるようになったのは何日頃だっただろうか。

上掲ウィキペディアによれば, 9月1日の日本時間の早朝の時点で既に日本政府が大韓航空機の「サハリン沖」における「行方不明」を公式発表し, 午前7時前後には日本のテレビやラジオで「ニュース速報」が流れ, 各国の通信社も東京発の情報としてその旨配信し始めたようだが, その後, 当事国(105人の犠牲者を出した韓国, 28人の犠牲者を出した日本, 62人の犠牲者を出したアメリカ合州国, 加害国のソ連など, ただし韓国は当時ソ連と国交がなく且つ国連未加盟の時期だったため, ソ連への抗議や交渉, 国連での活動は主に日本とアメリカが担ったとのこと)の間で様々な動きがあって, ソ連の当時の外務大臣アンドレイ・グロムイコが同国空軍による大韓航空機撃墜を認める声明を出したのが 9月6日

1983年9月6日 となると, 自分は既にシリアに入っていて, 同国最初の滞在地アレッポにいた時だ(アレッポには 9月5-10日, 5泊6日)。しかし兎に角, 旅人の自分がアレッポにいる間は, ソ連による大韓航空機撃墜事件のことは耳にしていなくて, この驚愕のニュースを知ったのは, 9月10日, パルミラ(タドモル)に着いてからだった。宿を決め, そのホテルにチェックインした際に, フロントの人間が新聞を見せながら説明してくれた時の驚きは, 今も記憶に残っている。話を聞いた時の衝撃ばかりが印象に残っていて, その時にフロントのスタッフが持っていたのがアラビア語の新聞だったのか英字紙だったのかまでは思い出せないのだが, おそらくは後者だったかなと思う(安宿ではあったが英語を話すスタッフが複数いて, 新聞もアラビア語と英語のものと両方置いていたのではと)。兎に角, とにかく, 驚いた。 

おっさんによると, 日本政府はいつも何も言わん。おっさんによると 米ソともに悪い。たぶん 米(USA)が写真とらせた。Everywhere で 米ソ2大国のためにプロブレムがあると 彼は主張した。 

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garden にて, 子供がオリーブの実をくれた。日本に帰っても, この garden を思い出すようにとのこと。(帰国まえに くさっちまうなぁ)
とにかく, 夜空の下で ぼくらは いろいろと話した。アラブの伝統を, ぼくは体験したのかもしれない。

パルミラ とにかく

次の頁の旅日記については, その下に, ごちゃごちゃと補足を。

パルミラ ホリ

「政治や政府のことはみだらにしゃべるな!!」という自分向けの注意は, アレッポで親しくなった若者たちからのアドバイスを受けてのこと(学生たちの話では例えば大学にも「シークレットポリス」がいる)。

「Mr. と呼ばれるのは 好かん」とは, パルミラ(タドモル)で泊まった宿のスタッフたちが宿泊客である自分のことを矢鱈と「ミスター, ミスター」と呼んでいたことに関して。何というか, 実際のところは分からないのだが, 彼らが妙にへりくだっているように思えて, いい気がしなかったから。

さて, 上掲の頁の旅日記にある, 宗教や信仰の問題に関わるくだりについて。

学生に Do you believe in God? ときかれた。Yes と答えた。

今ならもちろん, No と答え, Maybe I should say there might be great power or powers in this universe, but it'd be scientific rather than religious. It's NOT so called "God" anyway .. とかいった答え方をすると思う。いずれにしても, 当時の自分も theist「有神論者」などではなかった。強いて言えば, agnostic「不可知論者」(人間は「神」の存在について証明も反証もできないと考える人)だった。今は agnostic とも言わない。そうではなく, はっきりと atheist無神論者」。

しかしあの日の自分は, 思い切り日和った「不可知論者」だった。というか, この件に関しては正直に自分の考えを言ってない。簡単に言うと面倒くさくなってたからかな, といま思う。シリアの若者たちの宗教に関わる真剣さに押されて, ということにもなるが, あの日のパルミラ(タドモル)で自分の考え通りに言わず, 思い切り日和って「信じる」なんぞと言ってしまってた, その辺りのことについては,  

上掲 note に載せた旅日記の中の, 若者たちとの交流, 宗教・イスラームのこと, そして アラブのもてなし 〜 1983年9月9日 という見出しの章, その 3/94/9 のところで既にその気分や経験を詳述。

ついでに関係するところを少し, 

の第7章 911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス), より詳しくは, 

の, やはり第7章 911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス) という見出しの章。自分自身の「無神論」の考えは, 別に 911 が切っ掛けというわけではないけれど。なお, リチャード・ドーキンスは勿論ずっと以前から「無神論者」で, 911 以降は Militant Atheist になったと言えるのかもしれない。

もうひとつ, 

"Do you believe in God?" と詰問されて, ルイーズ・ブライアントは。

上のヴィデオは, 1981年の映画 Reds から(ジョン・リードの妻ルイーズ・ブライアントを演じているのはダイアン・キートン)。

さてさて, 話を戻して, 

1983年9月11日 のパルミラへ。

旅日記から 2) 〜 世界で一番美しい都市遺跡の一つ, パルミラの遺跡を歩く, 1983年9月11日

最初の3行は, 1983年9月10日に書いたもの。

学生は, アレッポで 村に水を送る仕事をしてる(たぶん水道工事)日本人のことを話した。聞く限りでは, オレもそりゃ nice と思う。

当時, そういう日本人がいたんだな。あるいは日本のODA事業で JICA関連だったりしたのだろうか。ちょっとそこは分からない。 

4行目からが, 1983年9月11日

9月11日

旅日記, 次の頁より。

museum へ。
パルミラの遺跡へ。雄大。アテネ のパルテノンなんて比じゃない。

なんと!

「パルミラの遺跡」の「雄大」さについては, 生で見たらそりゃ凄いけど, あの日, 1983年9月11日 に撮った写真は, 本 note 第2章にて。

「写真」「(ベドウィン風にして)」のその写真は, 本 note 第3章。

再び パルミラの遺跡に行って, 

テンプル of ベルへ。(ベル神殿)

その写真は本 note タイトルの写真, そして第2章の "写真集" にも収録。西暦紀元32年に建造され, その姿を2000年近くもの間ほぼ保ち続けたこの「ベル神殿」は, 2015年8月に IS「イスラム国」によって破壊されている。

勝利のアーチをくぐって ロングストリートを歩く。神殿, 浴場, 劇場などの跡。アゴラや墓地も。

「勝利のアーチ」とは 凱旋門 のこと(写真は本 note 第2章にて)。これもパルミラの「象徴」的建造物だったが, 2015年10月に IS「イスラム国」によって破壊されている。「劇場」について言えば, 円形劇場の写真をやはり本 note 第2章に掲載したが, その一部はこれも IS「イスラム国」による制圧時に彼らによって破壊された。ほんと, 連中, 頭イカれてる。 

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.. 遺跡の全部が見える。ジャミール(beautiful)

写真は本 note 第2章にて。

「ベドウィン風の子」が「しつこくバクシーシをせまり」ながら, 腕には「立派に時計をはめて」いて, 何というか, 悲しいものを感じた。いろんな意味で!

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夕暮れどきの遺跡は very beautiful 

「(Hotel の)おっさんは 女は strong head を持ってないと言う。女は化粧したり何だりするが, 男は必要ない。モスレムの伝統的な考え方の悪い部分だ。アレッポあたりではだいぶ変わっていても, パルミラのような村では まだまだそういうところがあるのだろう。おっさん自体は実にいい人なのだが。」(ここでいう「パルミラのような村」とは, パルミラの遺跡に隣接する街タドモルを指しているが, もしかしたらだけど, 2000年ほど前の古代都市パルミラの方が, よほど女性差別がなかったかもね!)

パルミラの歴史。いろんな国がきて 建てたり こわしたり の連続だったようだ。

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宿でドイツ人学生(シリアのみ 6週間の旅, 医学生)と知り合い, 「かなり話した」。

旅のこと。学生のこと。政治のこと。パレスチナ問題も含めて よく気が合った。

アレッポ大学学生

そう, 「オレの誕生日」だった。「23才」の誕生日だったのだ。 

23歳の誕生日

今日は オレの誕生日。
23才になった。23だぜ オイ!

誕生日は 911 だってば。

トム, あれ歌ってくれ ♫

さてさて, 

話を戻して, 旅日記の次の頁について。

「ヘブロン」とは, 1967年6月よりイスラエルが不当に, かつ国連安保理決議にも違反し続けて(2021年の今も)占領し続けているヨルダン川西岸地区の街。シリアを旅した後, ヨルダンを旅し, その後, パレスチナとイスラエルも旅したのだが, その時にはヘブロンにも行って, ヘブロンのパレスチナ人から様々な話を聞いた(イスラエル軍が占拠する建物なども見た)。

「ハレブでもここでも」とは, アレッポ(アラビア語で言うとハラブもしくはハレブ)でもパルミラ(タドモル)でも, の意。

PLO を「ピーエルオー」とカタカナ書きしているのは, 後のパレスチナとイスラエルの旅での "万一" "もしも" のイスラエル官憲あるいは兵士による手荷物チェックなどに備えてのこと。

Hotel のおっさん, Temple や石の像は 神 ではないと言う。
偶像すーはい拒否のことだろう。

偶像崇拝 はダメとの話ですね。しかしいくら何でも, タリバンや IS「イスラム国」のように人類の遺産を破壊するような連中の場合は, もう完全に常軌を逸してるけどね。

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ドイツ人学生も, パレスチナ人は パレスチナ で ユダヤ人 とともに住みたいと言ってる と言った。たぶん 彼の会った パレスチナ人 がそう言ったのだろう。

実際, 自分も, シリアとヨルダンの後に旅したパレスチナで, 同じようにユダヤ人との共存について語る多くのパレスチナ人と会った。

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シリアも日本製品の大行進だ。(時計から クルマまで)

「時計」や「クルマ」はともかくとしても, しかし他の家電とかの様々な「製品」で言えば, 今はもう, 台湾や大陸中国あるいは韓国の製品にとって代わられてるね, 世界中で。あの頃の日本経済のイケイケのムードはもはや "日本昔ばなし" ♫

さて,

上に掲載した頁の 旅日記 は途中から 1983年9月12日付になっていて, 以下はその続き。 

パルミラ(タドモル)を発って, シリア・アラブ共和国の首都 ダマスカス に向かった。ダマスカス に着いて, とりあえず「ユースホステル」に宿をとったが, 

ユースは安いこと以外 大したメリットなし。他の方が, 現地の人と交流できると思う。

というわけで, 後日, 宿は別の, 街の普通の宿に変えている。ダマスカス旅 note はまた "後日"!

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さてさて。

パルミラの破壊 〜 「神」の名の下に人を殺し, 「神」の名の下に人類の遺産を破壊する,  「宗教」原理主義者たちの度し難い愚行(2015-16年)

連中の愚行の最たるものは奴らが信じる「神」なるものの名のもとに平気で人を殺すことだが, こうした人類の遺産を「偶像崇拝」だからと平然と破壊してしまうことも, 奴ら以外の頭がイカれていない人々に連中の莫迦さ加減をよく示す象徴例。

世界で最も美しい都市遺跡のひとつ, 人類の遺産「パルミラ」, しかしあの連中にとってはただのクズだった。2015年から2016年にかけて, IS「イスラム国」がその多くを破壊。

(粉々の神殿, 彫刻の顔は破壊された 〜 シリア・パルミラ遺跡)

(ヴィデオ付き)

さてさて。

パルミラ から フォロ・ロマーノ, ポンペイ への旅 〜 "Echoes" by Pink Floyd 歌詞和訳

パルミラ(現代のシリア・アラブ共和国にある古代ローマ帝国時代の都市遺跡)の円形劇場 〜 1983年9月11日撮影(2015年 IS「イスラム国」によって一部破壊)

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パルミラの円形劇場を見ると, これも思い出す, 現代のイタリア共和国にあるフォロ・ロマーノのコロッセオ(こちらは日本語でいうところの円形闘技場)。「ヴァチカンと共に」と書いたのは併載したから。

*A

フォロ・ロマーノ(現代のイタリア共和国の首都ローマにある古代ローマ帝国時代の都市遺跡)のコロッセオ 〜 1983年7月6日撮影

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写ってる人間たちの小ささを想えば, やはりこれはかなり巨大。人間たちがほんと, ちっこい。勿論, これを撮っていた筆者も, ちっこい人間のひとり。

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現代も, ここで オペラ が演じられたりする, 古代ローマ帝国のコロッセオ。

次は, こちら。同じく現代のイタリア共和国にある, 古代の火山噴火で埋没して, 長い長い眠りを経てから発掘された ポンペイ の都市遺跡。

*B

ポンペイの円形劇場 〜 1983年7月6日撮影

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*C

詳しくは 上掲リンク先 note *C, および *B 最終章 Echoes, Pink Floyd LIVE at ポンペイ(1971年10月) 〜 歌詞和訳 

以下は, "Pink Floyd: Live at Pompeii" (October, 1971) より, "Echoes" part I と "Echoes" part II ♫ ... ヴィデオの下に, 歌詞と筆者による歌詞和訳

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

..............................

頭上 空高く アホウドリが (*1)
宙に舞い上がったまま静止して垂れ下がる
そして 揺れる波間の奥深く
珊瑚の洞窟の迷宮の中
遠く離れた潮の流れ 遥かな過去の残響が (*2)
砂地を越え 風に舞う柳の如くゆらゆらとやって来る (*3)
そして 何もかもが青々とした緑色を成し 海の底に (*4)

誰も我々を陸地に導かなかった
誰もが 何処にいるのか 何故そこにいるのかを 分かっていない
しかし何かが目覚めて動き出し 何かが試みを始める (*5)
そして 光に向かって 登り始めるのだ

通りすがりの見知らぬ者どうしが
偶然にも 一瞬その視線を交わす
実は私はあなたであり 私が見ているのは私自身なのだ
私はあなたの手を取り
この地の何処(いずこ)かに導き
自らができる最上のことは何なのか 理解することになるだろうか?

先に進むよう呼びかけるものなどいない
視線を落とすよう強いるものもいない
言葉を発するものはいないし 我々のように試みるものもいない
太陽の周りを飛ぶものなどいないのだ

雲ひとつない毎日 あなたは 覚醒した私の眼に舞い降りる
私に起き上がるよう 鼓舞し、誘い(いざない)ながら
そして 壁に埋められた窓を通し
陽の光の翼に乗って差し込んでくるのは
眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使 (*6)

私に子守唄を歌ってくれるものなどいない
私の目を閉じさせるものもいない
だから私は窓を大きく開け放ち
空の向こうのあなたに呼びかけるのだ

.............................................

注釈 *1 - *6 については, 上掲リンク先 note *C にて。以下は *D, *E はその他の「エコーズ」(および歌詞和訳)関連 notes, *F, *G*E からの繋がりで付録!!

*D ピンク・フロイド 「エコーズ」 を和訳する 〜 空を見上げ、アムリトサルで、ダラムサラで、ポンペイで、そしてスタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」を観ながら聴く、不朽の名作 "Echoes" by Pink Floyd ♫

*E 2001年宇宙の旅 と ピンク・フロイド 「エコーズ」 の シンクロニシティ 〜 歌詞和訳 ♫

*F 2001年宇宙の旅 〜 "2001: A Space Odyssey" (Stanley Kubrick, 1968)

*G 「エコーズ」も「2001年宇宙の旅」も出しちまった記念の粘着付録, 長いなこのタイトル, まさに粘着(笑), 「ブレードランナー」から「2001年宇宙の旅」/ "Echoes" へと巡る旅 〜 〜 経由地は「いまを生きる」「6才のボクが、大人になるまで。」「生きる」「ゴンドラの唄」, "To the Virgins, to Make Much of Time", 途中下車して「ウィンザーの陽気な女房たち」, "Welcome to the Pleasuredome" "Relax", 「アポロの歌」, "If" & "If", 「ツァラトゥストラはこう語った」


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