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聖書とセックス、安宿の壁と安アパートの壁 ー Duncan (歌詞和訳)

<<この段落のみ、2020年8月28日に加筆:次の段落以降は 2020年8月25日に投稿したものだが、同日 note でいうところの「スキ」をこの投稿にした人が、それから間もなく(おそらくは 30分以内のうちに)その「スキ」を取り消す、ということがあった。その特定の個人による「スキ」取り消しの理由には殆ど関心がないが(単に関心ゼロということでもないので「殆ど」とした)、つまり、その人個人の理由はどうあれ、投稿内容に宗教を扱って「巫山戯た」(「巫山戯る」という巫山戯た当て字を使っているのはその語源を意識して巫山戯たまでのこと)表現をしている箇所が複数あることで気分を害する、英語で SNS をやっているとよく見る "Offend" というやつだが、つまり Offend される(「お遍路」さんじゃないよ、とまた巫山戯ておこう)と思う人がいるなら、この投稿はその人にとってその種の投稿である可能性が高いから、とりあえず本投稿の閲覧は避け、それでもこの歌、Paul Simon の "Duncan" の歌詞とその日本語訳に興味がある人は、筆者がこの投稿をした翌日、2020年8月26日にあらためてこの歌の歌詞の日本語訳を投稿しているので、そちらを見てみることをお薦めする。その後で、こっちの投稿も見てみようかと思うような人がいたら、あらためてここに戻ればよい。なお、その 8月26日の投稿テキストの URL は次の通り。
https://note.com/dailyrock/n/nb5f72c57fc2e >>

今日は聖書とセックス、安宿の壁、隣の部屋から聞こえる他人の「まぐはひ」(古いな、ってか古語由来だろ、しかも歴史的仮名遣い!)の声、そんな「聖」と「性」にまつわることどもが散りばめられた、「聖俗」鏤められた宝石のような物語を歌った、ポール・サイモン Paul Simon が 1972年1月にリリースした自らの名を冠したアルバム「ポール・サイモン」, "Paul Simon" に収められ、同年7月にシングルとしてリリースもされた「ダンカン」, "Duncan" というタイトルの歌、その物語の中身、そして歌詞と、筆者による歌詞和訳についての投稿です。

さて、この歌、のっけからセックスの話です。"Couple in the next room bound to win a prize, they've been going at it all night long" (隣の部屋のカップルは賞でも取るつもりだろうか、オールナイトでよろしくやってるんだぜ) で始まるこの歌のことですが、この歌、物語の後半になると、主人公の青年ダンカンが、聖歌を歌い聖書を読み上げて群衆に説教している、そんな若い女性と出会います。

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いや、違う違う、threesome なんてとんでもない(ジョークだよ、ジョーク!)、そもそも歌詞に登場する女性は一人だけだし、大体、いきなりこれはないだろう。しかし、この写真は何処から飛んで来たんだ? 

.. たぶん、天から。聖霊降臨のように。

まぁとにかく、ダンカンはその「聖書」の彼女に、「どうしたらいいのか、分からなくなったんだ」と、ある意味、若い青年らしい人生の悩みを打ち明けます。すると、彼女はダンカンに、キリスト教が教える「聖霊降臨」(*1) について話してくれたのです。それを聞いたダンカンは、彼女の存在は自分にとって「これから生きていくための」道筋のようだと思うようになります。道筋、道程、そこまでの間は童貞。ま、ひらがなにすれば「どうてい」。

言葉遊びかよ? 言葉遊びかどうかは兎も角として、いや、言葉遊びするなら、聖書は性書、聖霊は性霊、降臨とは降りて来ること、「降りて来る」は "Come down", 「来る」と言えば "Come", "Come" と言えば、それは英語の世界では日本語でいうところの「いく」。日本人は普通、「いく、いく」って言いますよね、英語に直訳すれば "Go, go" だから、彼らの "Come" とは反対方向にあるようにも見えるけれど(それについては後述)。

*1 聖霊降臨(ペンテコステ, ラテン語では Pentecostes, この歌の歌詞の中のように英語では Pentecost)とは、キリスト教、新約聖書にあるエピソード、まぁ要するに御伽噺に纏わるもので(少なくとも無神論者の私にとっては御伽噺、御伽噺は英語で言うなら "Bedtime story")、イエス・キリストの復活・昇天後に、集まっていた信者・信徒たちの上に神からの聖霊が降りて来たという話のことを指します。その出来事を記念するキリスト教の祝祭日のことも、同じく、"Pentecost" (Pentecostes) といいます。後者は、日本語で言うなら、聖霊降臨祭。

聖霊降臨と "I'm coming", 「いく、逝く」と輪廻転生

要するに彼ら、"I'm coming", あるいは "I'm gonna come" とか言ってしまう(「しまう」ってのも妙だけれども)人たちのセックスでは、最高に気持ちが良くなった時には「聖霊」なのか「性霊」なのか、とにかく霊的なものが降りて来るんですね。私は彼らじゃないから、あくまで、たぶん、おそらく、もしかして、の話。

兎にも角にも、彼女ら(彼ら)はあの時、"I'm coming!" って言ったりするわけだけど、あの時はもう既に「聖霊」なのか「性霊」なのか、とにかく霊的なものが彼女ら(彼ら)に憑依しているわけです。つまり、霊が乗り移ってる。だから、"I'm coming!" と言って(日本語でいうところの)「いく」時の、その言葉の主語 "I" は、実は彼女や彼ではなくて、彼女もしくは彼に憑依した「聖霊」の方なのです(「性霊」でもいいけど)。

日本人は「いく」って言いますけどね、大抵。「いく」ってのは、「逝く」という漢字で書いたら、しっくりするような気がします。つまり、「死ぬ」のです。実際、「いく、いく」じゃなくて、「死ぬ、死ぬ」って言う人もいるんじゃないかと思うけど。これ読んでるあなた(読んでる人いたらの話だけど、笑)、「死ぬ、死ぬ」って言ったことありませんか、これまでに。

兎にも角にも、日本人の場合は、セックスして、もちろん「望まないセックス」のようなものは論外として、そうした極めて不幸な例を除くと、その時は大抵は「生」を謳歌しているわけだけれど、その絶頂の時になって、「いく」という時は、実は一度、「死ぬ」のです。で、ほんの一時(ひととき、一時間の人もいれば一分の人もいるかもしれないけれど、まぁ一秒はないよなぁ)を経て、再生するわけです。再生というか、蘇生もしくは甦生するわけです。生き返るってわけです。

つまり、日本人はセックスするたびに、生と死、死と蘇生(甦生)を繰り返している。これを仏教用語で「輪廻転生」と言います。

あのですね、この辺、敬虔な仏教徒の皆さん、だけでなく、そもそも敬虔なキリスト教徒の皆さん、そして何事も経験豊かな皆さんなら、真顔になって怒りませんよう。

まぁ拙者のことはケーシー高峰なのだと思ってください。ありがとう。私は兎も角としてウサギもツノぐらいの人間ですが、とにかく、本物のケーシー高峰(1934年2月25日生まれ - 2019年4月8日死去)は偉大です。

あのですね、日本人はセックスをして、その絶頂の際、つまりオーガズム(英語 "Orgasm" よりオルガスムス, ドイツ語の "Orgasmus" の方がケーシー高峰っぽいなぁ、私が好きな古代ギリシアの言葉 "οργασμός", 意味は「熟する」「満ちる」ですが、これが語源です、興味半分でウィキペディア引っ張ってきただけかよ、しかし古代ギリシャは本当に好きだ)に達した時、「いく、逝く」と言って一旦は死に、そして、その後、やや間を置いて、蘇る。甦る。生き返るのです。

しかし世の中にはいわゆる「腹上死」(この言葉は俗語、そもそも他の退位、じゃなかった、体位でも起こり得るし、男性でも女性でも起こり得る、起こり得ると言っても稀だけど)、性行為最中の突然死、医学用語でいうところの「性交死」という現象もありますから、世の紳士淑女の皆さん、気をつけましょう。ここまで来たら、さらに細かいことを書いておくと、実際には性行為中よりも行為を終えた後に死亡する例の方が多いようです。つまり、これは、「いく、逝く」と言ってオルガスムスに達して擬似「死」の体験をした後、本当に死んでしまう、という現象です。人間、本当に死んだら蘇生なんて出来ないから、もちろん、この場合は擬似「蘇生」「甦生」もない。したがって、擬似「輪廻転生」もない。終わり、ジ・エンドです。

え? 英語圏、いや "I'm coming" 圏だって、俗称「腹上死」はあるだろうって? 

それはですね、彼ら彼女らの場合は、彼ら彼女らがオーガズムに達して "I'm coming!" と言った時、つまりそれは「聖霊」、じゃなかった、「性霊」(どっちでもいいや)が彼ら彼女らに憑依している時なんだけれども、その霊が、なんと彼ら彼女らを、そのまま霊の世界に連れ去って行ってしまった時に起こる現象なのです。つまり、その、医学用語でいうところの「性交死」のことなんですがね。もちろん、人間、本当に死んでしまったら、それで終わり。蘇生、甦生はありません。THE END です。

歌詞の話に戻ろう

閑話休題。いや、何が本題で何が余談なのか、分かったもんじゃないな。上に書いたことは、聖霊降臨に関わることなのです。聖霊降臨と言えば、キリスト教のペンテコステ(ラテン語では Pentecostes, 歌詞の中のように英語では Pentecost)です。

ここで兎にも角にも、今日の本題、というか投稿のお題、投稿タイトルにある (歌詞和訳) に絡んで、この「ダンカン」, "Duncan" というタイトルの歌の、歌詞の話に戻ります。

ダンカンは「聖書」と「聖歌」(「性書」と「性歌」だったのかもしれない)で人々に説教をしていた若い女性に、「僕はどうしたらいいのか分からなくなったんだ」と、若者らしい人生の悩みごとを打ち明けたわけですが、そんな彼に、彼女は、キリスト教が教えるところの「聖霊降臨」について、その全てを話します。

「聖霊」の「降臨」の話ですよ。「性霊」、じゃなかった、「聖霊」が、「降りて来る」、これから「降りて」「来る」のよ、という話を、彼女はダンカンにしてくれた、そういうわけです。"Come down" ... "Coming" の話を。 

ダンカンには、彼女が、自分が「これから生きていく、生き続けるための」光明のように見えてきます。そしてその夜、ダンカンは懐中電灯を片手に、こっそりと彼女のテントを訪ねるのです。

すると彼女は、ダンカンを森に連れて行き、"Here comes something and it feels so good" と囁きます。そこでダンカンは彼女を相手に、この世に生を受けて初めてのセックスを経験する。

この歌は、そういう物語なのです。

違う? いや、そういうふうに読めるんだから、そう読んで構わないでしょう。アートというものは、鑑賞する側がそれを受け取った時には、既に作者だけのものではありません。

いや、著作権とかいった法律上のことを言ってるんじゃないんです。著作権は、もちろん、アーティストの側にある。ただ、その作品をどう解釈するかということに関しては、鑑賞する側、歌であればリスナーということになりますが、こちらにもある程度のフリーハンド、自由裁量があるということです。解釈の自由。ある程度の、というのが肝ですが。

ネタバレというか、何というか、歌詞の日本語訳を掲載する前に、この歌で歌われている物語の大筋を書いてしまいましたが、まぁいいでしょう。とにかく、けっこう面白い話なんです。

実は2番の歌詞、「漁師」や「ニューイングランド」にも、聖書やキリスト教の匂いが

この歌、2番の歌詞では、「父は漁師で 母は漁師の女友だち」とか、「ニューイングランド」とかいった言葉が出てきます。

前者については無神論者の我ながらもっと勉強したうえで詳しく書きたいところですが、要は、新約聖書の中の「マタイによる福音書」(*1) に、キリストが最初の弟子をとる場面があって、場所は「ガリラヤの海」(実際には湖、パレスチナにある湖で、現在イスラエル領内にあるガリラヤ湖のこと)、登場人物はキリストの他にはシモンとアンデレ。シモンは英語読みするならサイモン、Paul Simon の Simon, そして、シモンとアンデレは漁師なのです、その御伽噺の中で。

また、ニューイングランドについて言うと、1620年にイングランドのプリマスの港から「メイフラワー」号 "Mayflower" に乗ってアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)たちが辿り着いたのはマサチューセッツ州のプリマス、そして、その後、そのマサチューセッツ州に、メイン州、ニューハンプシャー州、ヴァーモント州、ロードアイランド州、コネチカット州の 5州を合わせた アメリカの 6つの州が、ニューイングランド New England と呼ばれるようになります。清教徒たちが最初に移り住んだ地方です。(*2)

*1 因みにポール・サイモンの「アメリカの歌」(American Tune) という歌は、昔々の時代の聖歌のメロディを使って作られていますが(17世紀, つまりイングランドから清教徒たちが「メイフラワー」号に乗ってアメリカに渡ったのと同じ時代に作られた聖歌です、ただしその作曲者はドイツ人ですが)、同じ聖歌の同じメロディを用いてバッハ(Johann Sebastian Bach)が作曲したのが、「マタイ受難曲」(Matthäus-Passion)です。

Paul Simon が "American Tune" でモチーフにしたのはバッハの「マタイ受難曲」の方だという説もありますが、この辺り、本年7月11日に私が投稿した、「アメリカの歌 〜ピルグリムの船・メイフラワー、植物のメイフラワー、そしてナサニエル・ホーソーン『緋文字』を巡る不思議(?)な展開」という長いタイトルのテキストの中の、「アメリカの歌、その源流」という章で、紹介している通りです。

そして、「マタイ受難曲」 (Matthäus-Passion) というのは、上で言及した新約聖書の「マタイによる福音書」の中で述べられる、キリストの受難を題材にした曲です。

*2 ニューイングランドと清教徒に関わることも、この直ぐ上の *1 で言及した、本年7月11日の投稿テキストの中で書きました。

ご関心のある方は、こちら。

安宿の壁、安アパートの壁

さて、ようやくのこと、歌と歌詞と歌詞和訳の章に入る前に、この歌の第1節、ファースト・ヴァース、 "Couple in the next room bound to win a prize, they've been going at it all night long. I'm trying to get some sleep, but these motel walls are cheap .." についての、思い切り余談。

私は幸か不幸か、いやこんなものは幸でも不幸でもない、ああでもないこうでもない程度のことだけれど、これは話のネタ的な思い出話としての経験談なのですが、この歌詞の冒頭と似たようなことが、若い頃、二度ありました。

最初は大学生の時。札幌の学生街の6畳一間の安アパートの壁は本当に薄く、世も更けて街が静まってくると、ますます隣の部屋の会話は嫌でも聞こえてくるようになります。その日、私は翌日の試験に備えて一夜漬けの徹夜をしていたわけですが、隣室から嫌でも(まさしく「嫌でも」)完璧に、普通に聞こえてきてしまった男女の会話がまさしくあれで、若い女性の「大変ね男って」という声が聞こえてきて、どうやらその前後の文脈からして、つまりは備えを切らしていた彼の方がコンドームさん(なんで「さん」付けするのか、「さま」でもいいか)を買ってきたことを指して彼女はそう言ったようなんだけれども、その後はまぁ何というか、会話というものでない声、あの声だけが聞こえてきたわけです。こっちは明日の試験に備えての一夜漬け「勉強」中だよ。勘弁してくれって(笑)。実際、笑えてきて、笑いを堪えるのが大変だった。お互い様だね。

もう一回は確か京都、でなければ、大阪だったはず。出張先のビジネス・ホテル。安いビジネス・ホテルだったからなんだろうな、部屋の壁が思い切り薄かったようで、隣室の「まぐはひ」、つまり契り、まぁ要するにセックスです、その声が初めから終わりまで、まる聞こえ。こっちは仕事で行ってたんだ。面白いわけがない。学生時代のあれと違って、笑いもせず、只管、"Couple in the next room bound to win a prize, they've been going at it all night long. I'm trying to get some sleep, but these hotel walls are cheap .." と小声で歌う他なかった、というわけです。まぁその時のこっちは、結婚何年目かの時だったけれど。

要するに、この歌は

しつこくも、歌と歌詞と歌詞和訳の章に入る前に、この歌の物語の粗筋を、あらためてざっくりと書いておきます。念押しみたいな章だなぁ。

物語の主人公、何歳なのか分かりませんが、兎にも角にも若者です、そのダンカンがなんだか自信を失って、家を出ます。そして、17世紀の昔、イングランドからアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)たちの多くが住みつくことになったニューイングランドに向かい、そこで、聖歌を歌い聖書の一節を読み聞かせながら群衆に向かって説教をしていた若い女性と出会います。彼女は、ダンカンに、ペンテコステ(Pentecost)、つまり「聖霊降臨」についての全てを話してくれます。そうして、その日の夜、ダンカンは彼女に導かれ、いわゆる一つの「初体験」をするのです。初体験なんだから、一つの、は当たり前か(笑)。

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その夜、件の、「聖書」の彼女が、"I'm gonna come!", "I'm coming!" と言って、ダンカンが "I'm coming too, baby!" とか、あるいは、"I'm coming too, sister!!" (あ、sister というのは当然ながら姉でも妹でもないのは当たり前、これはシスター、つまり「修道女」のことです)と言ったかどうか、そこまでは流石に分からないなぁ。そんなこと、歌われてない(笑)。

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しかし、もしも二人がそう言ったのなら、それはつまり、その、日本人なら「いく、いく」「逝く、逝く」というその時に、彼女と彼のところには聖霊が "Coming" down してきていた、ってことなのでしょうね。

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マジかよ。

Duncan ー 歌詞和訳

以下にリンクを付すのは、オリジナルのスタジオ録音ヴァージョンではなく、Paul Simon が 1974年にリリースしたアルバム "Paul Simon in Concert: Live Rhymin'" に収録されたライヴ・ヴァージョンの方。スタジオ・ヴァージョンはもちろん素晴らしいし、このライヴ・ヴァージョンもいいわけだけれど、後者の YouTube クリップを選んだのは、単にこの Music Video の方は綺麗なお姉さんが出てくるから。

歌詞を訳したのは今日、推敲もほどほど、ホヤホヤの翻訳詞。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

..............................

隣りの部屋のカップルは
賞金でも狙ってるんだろうか
彼ら、オールナイトで延々と続いてるんだ
僕はちょっとでも眠ろうとしてるんだけど
このモーテルの壁はどうにも安っぽくてね
ところでリンカーン・ダンカンというのが僕の名前なんです
それで、これが僕の歌、僕のことを歌った歌なんです

父は漁師で
母は漁師の女友だちでした
それで、僕は彼らの退屈しのぎの中で生まれたのです
それと、チャウダー(寄せ鍋)の中で
だから僕は盛りの頃、つまり青春とか呼ばれる時期を迎えると
マリタイム (*1) の家を出て
ターンパイク (*2) を通って、目的地に向かったのです
ニューイングランド (*3) に、憧れのニューイングランドに

(*1 カナダの地名、The Maritimes を指しているものと思われる。因みにポール・サイモンはアメリカ生まれ、アメリカ育ちのユダヤ人です。)
(*2 turnpike は高速道路もしくはその料金所、ここでは前者を指している。)
(*3 New England については、3つ前の章で書いた通り。)

僕の自信は穴ぼこだらけ
ジーンズの膝にも穴が開いていて
ポケットには1ペニー硬貨すら残っていませんでした
おお、僕はもう子どものように無一文 (*4) だったのです
指輪でもしていればよかったなと思ったほどでした
そうすれば質屋に入れて少ししのげたのに

(*4 destituted は辞書にもなく、destitute という動詞もない。destitute ならば、「極貧の」といった意味の、かなりの貧窮状態を表わす形容詞。the destitute と言えば名詞句になって意味は「貧困者」。歌詞サイトをいくつか見たが、綴りは "destituted" で、この綴りがここで使われていることはちょっと不思議。実際にはこういう単語があるのかもしれないが。)

駐車場で見た若い女性が
群衆に向かって説教をしていました
聖歌を歌い、そして聖書を読み聞かせながら

それで、僕は彼女に言ったんです
僕は自分を見失ったみたいですと
そうしたら彼女は僕に話してくれたんです
聖霊降臨についての全てを
僕には彼女が、僕がこれから生き続けるための
道筋のように思えてきたのでした

その同じ日の夜
僕は懐中電灯を片手に彼女のテントをこっそり訪ねました**
そうして僕は長い罪なき (*5) 時代、童貞の時代に別れを告げたのです

** <<重大な発見。ここではオリジナルのスタジオ・ヴァージョンの歌詞通りに "I crept to her tent .." の日本語訳を記載しておきましたが、よく聴くと、このライヴ・ヴァージョンでは、"She crept to my tent .." と歌っているように聞こえます。ほぼ間違いなくそう歌っているのではと思うのですが、となると、「彼女が、僕のテントに、懐中電灯を片手に持って訪ねてきた」ことになるわけで、これはこれで興味深い設定変更なのか、あるいは単純にライヴで間違えたのか分からないのですが、しかし筆者、ヒアリングに 200%(笑)の自信を持っているわけではないので、ここは深く突っ込まず、オリジナルのスタジオ・ヴァージョンの歌詞通りの英語とその日本語訳、を掲載しておきました。>>

(*5 innocence は淡々と「童貞」と訳してしまっていいのですが、ここは「聖書」やキリスト教との関わりを想い、あえて直訳の「無罪」「無邪気、無垢、純潔、純真」から、「無罪」「罪なき状態」の意を取り出して、日本語の中に入れてみました。)

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https://www.instagram.com/p/B2hMYN7CAqE/

彼女は僕を森に連れて行きました
何かがやって来るの、そうしたらとても気持ちよくなるのよ
と言いながら
そうして僕は犬のように可愛がってもらったのです、犬のように (*6)

(*6 繰り返しは "I was befriended" の方ですが、日本語にした場合は、"just like a dog" の訳を繰り返した方が原詞の雰囲気に近いと思います。)

おお、おお、なんて夜だろう
おお、ここは歓喜の庭に違いない
今もあの甘美な思い出は消えないのです

僕はギターを弾いていました
満天の星々を見上げて横たわりながら
ただ神に感謝しながら
僕にこの指を授けてくれたことを
ギターを奏でるこの指を

I know, I know, I know, I know, I know, I know ... (*7)

(*7 "I know" の繰り返しは無理に訳さない方がよさそうです。自信を完全に失いかけていたダンカンが、歓喜の末に、見失っていた自分を取り戻したこと、それが "I know" の object, 目的格みたいなものに当たるのかもしれません。しかしこれはちょっと難しいし、抽象的に喜びを表現している繰り返し、ぐらいに受け取っておけばいいのかもしれません。)

付録 1: 「聖書」の彼女、その翌朝

巫山戯るのもいい加減にしろ? 「巫山戯る」の語源を意識してみたんだよ。

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もう一枚。

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https://www.instagram.com/p/B2hMYN7CAqE/

付録 2: "Duncan" オリジナル、スタジオ・ヴァージョン(歌詞和訳 付き)

Duncan ー From Paul Simon 1972 self-titled album

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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隣りの部屋のカップルは
賞金でも狙ってるんだろうか
彼ら、オールナイトで延々と続いてるんだ
僕はちょっとでも眠ろうとしてるんだけど
このモーテルの壁はどうにも安っぽくてね
ところでリンカーン・ダンカンというのが僕の名前なんです
それで、これが僕の歌、僕のことを歌った歌なんです

父は漁師で
母は漁師の女友だちでした
それで、僕は彼らの退屈しのぎの中で生まれたのです
それと、チャウダー(寄せ鍋)の中で
だから僕は盛りの頃、つまり青春とか呼ばれる時期を迎えると
マリタイム (*1) の家を出て
ターンパイク (*2) を通って、目的地に向かったのです
ニューイングランド (*3) に、憧れのニューイングランドに

僕の自信は穴ぼこだらけ
ジーンズの膝にも穴が開いていて
ポケットには1ペニー硬貨すら残っていませんでした
おお、僕はもう子どものように無一文 (*4) だったのです
指輪でもしていればよかったなと思ったほどでした
そうすれば質屋に入れて少ししのげたのに

駐車場で見た若い女性が
群衆に向かって説教をしていました
聖歌を歌い、そして聖書を読み聞かせながら

それで、僕は彼女に言ったんです
僕は自分を見失ったみたいですと
そうしたら彼女は僕に話してくれたんです
聖霊降臨についての全てを
僕には彼女が、僕がこれから生き続けるための
道筋のように思えてきたのでした

I know, I know, I know, I know, I know, I know (*7 これは訳しません。)

その同じ日の夜
僕は懐中電灯を片手に彼女のテントをこっそり訪ねました
そうして僕は長い罪なき (*5) 時代、童貞の時代に別れを告げたのです

そうなんです、彼女は僕を森に連れて行きました
何かがやって来るの、そうしたらとても気持ちよくなるのよ
と言いながら
そうして僕は犬のように可愛がってもらったのです、犬のように (*6)

おお、おお、なんて夜だろう
おお、ここは歓喜の庭に違いない
今もあの甘美な思い出は消えないのです

I know, I know, I know, I know, I know, I know ... (*7)

僕はギターを弾いていました
満天の星々を見上げて横たわりながら
ただ神に感謝しながら
僕にこの指を授けてくれたことを
ギターを奏でるこの指を

...........................................

*1 カナダの地名、The Maritimes を指しているものと思われる。
*2 turnpike は高速道路もしくはその料金所、ここでは前者を指している。
*3 New England については、本投稿の前半の章で書いた通り。

*4 destituted は辞書にもなく、destitute という動詞もない。destitute ならば、「極貧の」といった意味の、かなりの貧窮状態を表わす形容詞。the destitute と言えば名詞句になって意味は「貧困者」。歌詞サイトをいくつか見たが、綴りは "destituted" で、この綴りがここで使われていることはちょっと不思議。実際にはこういう単語があるのかもしれないが。

*5 innocence は淡々と「童貞」と訳してしまっていいのですが、ここは「聖書」やキリスト教との関わりを想い、あえて直訳の「無罪」「無邪気、無垢、純潔、純真」から、「無罪」「罪なき状態」の意を取り出して、日本語の中に入れてみました。

*6 繰り返しは "I was befriended" の方ですが、日本語にした場合は、"just like a dog" の訳を繰り返した方が原詞の雰囲気に近いと思います。

*7 "I know" の繰り返しは無理に訳さない方がよさそうです。自信を完全に失いかけていたダンカンが、歓喜の末に、見失っていた自分を取り戻したこと、それが "I know" の object, 目的格みたいなものに当たるのかもしれません。しかしこれはちょっと難しいし、抽象的に喜びを表現している繰り返し、ぐらいに受け取っておけばいいのかもしれません。

付録 3: "Duncan" 収録アルバム、レヴューもどき

"Duncan" のオリジナル、スタジオ録音ヴァージョンは、Paul Simon が1972年にリリースした、自分の名前を冠したソロ・アルバムに収録されています。

18年半ほど前、2002年3月23日に、そのアルバムのレビューもどきを書いていました。さらっとした短いものですが。

ネット上ではここ。自前のホームページ上。ただし、2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化け。

付録 4: 恋人と別れる50の方法 (歌詞和訳) 

 一昨日、Paul Simon の "50 Ways to Leave Your Lover" の歌詞の解説もどきと、歌詞の和訳に関して、投稿しました。

今日の投稿で取り上げた "Duncan" も同じ Paul Simon の歌だし、今日の投稿では何枚か「綺麗なお姉さん」系の写真を掲載して、そのうえ最初にリンクを貼ったのは「綺麗なお姉さん」が何人も登場する "Duncan" ライヴ・ヴァージョンの YouTube クリップでした。

一昨日の投稿でもタイトル上に「綺麗なお姉さん」の写真を掲載したことだし、それだけの繋がりでここにリンクを貼っておこうと思います。

付録 5: 清教徒とニューイングランドと「アメリカの歌」

今日の投稿のだいぶ上の方で一度リンクを貼りましたが、アメリカ合州国の成り立ちの一断面について、Paul Simon の "Ameircan Tune", そのメロディ、歌詞、私が訳した日本語歌詞などと合わせて混沌としたテキストを書いた投稿を過去にしているので、最後にあらためて、いま一度、その投稿へのリンクを貼っておきます。

この投稿でも、今日取り上げた歌 "Duncan" にも登場する "New England" について言及したり、更にはキリスト教(清教徒)、バッハの「マタイ受難曲」など、今日の投稿の内容にも繋がりのある事柄を扱っているので。

付録 6: この投稿テキストの最後が Duncan だった

この投稿、名作映画の「いまを生きる」を取り上げていますが、回り回って、巡り巡って、最後は今日の投稿内容と重なり合い、今日取り上げた歌 "Duncan" まで扱ってました。歌詞を訳したのは今日なので、その時は英語のオリジナル歌詞しか掲載していませんが。

付録 7: Blasphemy is NOT a crime.

付録 8: From Salman Rushdie 

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