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1984年2月2日、初めて訪れた広島平和記念公園

1983年4月26日に日本を発った海外「放浪」もどきの旅からの帰路

放浪は実際には「放浪」もどきなので鉤括弧を付けた。ユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅をすることとおおよその行きたい国は想い描いていたから、単に「放浪」と言ったら言い過ぎ。自由に旅ができないソ連以外は宿や交通機関の予約などしていなかったから、その点はまぁまぁ「放浪」に近いのかなと思うけれども。

1983年4月26日に横浜港を発って「国」名だけ挙げると当時のソ連、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、西ドイツ、東ドイツ(東ベルリンのみ)、フランス、スイス、オーストリア、(当時のチトーの)ユーゴスラビア、イタリア、ギリシャ、トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプト、再びトルコ、イラン、パキスタン、インド、タイ、韓国を旅し、1984年1月31日に韓国・釜山港を発って翌2月1日に下関港にて入国手続き、10ヶ月に満たないからバックパッカーの海外一人旅としてはさして長い方ではないと思うが、兎にも角にも、帰国した。静岡県の実家に戻ったのは2月4日のことで、帰宅前、広島に(3泊4日)滞在した。

今日 2021年2月2日現在、note ではまだ当時のソ連・ヨーロッパ方面のことは殆ど書いてないけれど、多分そのうち書くと思う。以下はこれまでの関連 note 投稿を入れたマガジン。


1984年2月2日・3日 〜 広島平和記念公園

この時が自分にとって初めての広島だったが(平和記念公園や平和記念資料館だけでなく広島市を訪れること自体)、その後、海外から日本の産業技術や企業管理を学びに日本にやってくる人たちに対するオリエンテーション・プログラムを企画・運営する仕事をしていた時代に(1988年度から1994年度までの7年間)、度々そうした外国(いわゆる開発途上諸国)の人々を広島に案内する機会があり、何度も繰り返し広島を訪れることになった。2004年夏の妻と当時小6の息子との家族旅行の際にも広島に行ったが、一点だけ留意しておきたいことに触れておくと、外国の人と行った時も家族で行った時も欠かさず立ち寄ったところがあって、それは韓国人原爆犠牲者慰霊碑がある場所だった。

アメリカ合州国による広島・長崎への非武装市民をターゲットにした原子爆弾投下は何によっても正当化されない「戦争犯罪」に違いないのだが(つまり日本が戦時中に犯した南京虐殺他の「戦争犯罪」があるからといって戦勝国アメリカの戦争犯罪は許されるということは有り得ないし、原爆投下のお陰でそれが無ければ続いていた戦争で命を落とすことになったより多くの人々を救ったというのは「嘘も方便」の釈明で、それならばその良し悪しは別として太平洋上の上空で爆発させて日本を降伏させることはできたであろうし、そもそもあれは既に始まっていた冷戦におけるソ連への「威嚇射撃」としての目的があったし、敵国の人間の人体を使った実験という側面があった、戦後処理におけるアメリカによる被害調査・人体に対する影響調査をみてもそれは明らか、ああ長い括弧だね)、一方で原爆による被害(「日本の被害」)だけを強調するのではなく、当時の日本が諸外国に対してどういう国だったのかを知る一つの「資料」を併せて示したいと思えば、そのための恰好の場所の一つが韓国人原爆犠牲者の慰霊碑だった(「慰霊」のために訪れることは当然のこととして)。なお、その慰霊碑は1970年4月に平和記念公園に隣接する場所に建立されたものだが、1999年7月になって公園内に移設されている。したがって、筆者が外国の人たちを案内していた時は公園の外にあり、今世紀に入ってから家族で訪れた時は既に公園内に移設されていた。

さて、話を戻すと、前章にざっくりと書いた通りで、筆者は 1983年4月から10ヶ月弱の間、バックパッカーとして海外一人旅をしていたのだが、最後の訪問国・韓国の釜山港からフェリーに乗って 1984年2月1日に帰国すると、その足で広島に向かい、3泊した。前年4月26日に横浜港を発って、当時のソ連・現在のロシアのナホトカに向かったその時から続いていた一連の旅を終え、静岡県の実家に戻ったのは 2月4日。

当時の日記には「広島には2泊のつもりだったが、(資料館には)世界の核の現状を訴え、どうしたらいいのか主張しているような面もあったりして、帰途ついでに見ていくようなものでないことを知り、結局もう1泊つごう3泊した(2/1, 2, 3)」と書いてある。

以下は、今から37年前の「今日」と「明日」、1984年2月2日と3日に広島平和記念公園で撮った写真、計6枚(6枚目のみ 2月3日)。

6枚目に写っているのは、アメリカ合州国による核実験に対する「座り込み抗議」活動をする被爆者の人々(1984年1月31日に核実験が行なわれている)。

1)

広島1

2)

広島2

3)

広島3

4)

広島4

5)

広島5

6)

広島6


「広島」 〜 フラワー・トラベリン・バンド (1972年2月10日)

Hiroshima 〜 from Flower Travellin' Band's 1972 album "Made in Japan" released on February 10, 1972

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

ヒロシマ、わが罪と罰 〜 「良心の立入禁止区域」と、広島への原爆投下時の気象観測機パイロットだったクロード・イーザリー

生ましめんかな 〜 1945年8月6-8日、広島

長崎原爆投下の犠牲者の写真を「ヌード」だとして削除する Facebook の検閲プログラムの愚劣さ

〈ヒロシマ、ナガサキ〉 というとき ー 〈ああ ヒロシマ、ナガサキ〉 と やさしくこたえてくれるだろうか

"Telegraph Road" (Dire Straits, 1982) 〜 "Rene and Georgette Magritte with Their Dog after the War" (Paul Simon, 1983)

既に書いた通り、1983年4月からの海外「放浪」もどきの旅の帰路、1984年2月1日から4日の3泊4日、広島にいたのだが、広島に立ち寄ったのは、一度は広島に行かなくてはという想いがあったのと(これも書いた通り、その後、繰り返し何度も広島を訪れることになるが)、当時、小中高時代の後輩が広島大学にいたということも大きかったと思う。

10ヶ月弱にわたる海外一人旅の帰りで、まだ大きなバックパックを持っていたのだが、家に帰ったら直ぐにでも聴きたいと思ったのか、広島大学の生協に寄って、レコードを何枚か買ったのを今もよく憶えている。「よく」と書きながら何枚買ったのか枚数までは記憶していないのだが、2枚は正確に憶えている(あるいはこの 2枚だけだったのかもしれない)。

Paul Simon が 1983年11月4日にリリースしたアルバム "Hearts and Bones", そして Dire Straits が 1982年9月20日にリリースしたアルバム "Love Over Gold" の 2枚。

"Telegraph Road", from Dire Straits' 1982 album "Love Over Gold"

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

"Rene and Georgette Magritte with Their Dog after the War", from Paul Simon's 1983 album "Hearts and Bones"

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。 

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