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イスタンブールは「旅心」の琴線に触れる街 〜 トルコ, イスタンブール 1度目の滞在・旅 note 第3編(1983年8月18日から8月31日)

前説

トルコ入国は 1983年8月11日(ギリシャ・アテネからの 2泊3日の列車旅でイスタンブール着)。日本をバックパックひとつ担いで出たのは 1983年4月26日。横浜港から 2泊3日の船旅で当時のソ連・ナホトカに着いて, それから先はソ連・北欧諸国を旅し, さらに南下しながらヨーロッパ諸国の旅を続け, ギリシャにはアテネとサントリーニ島に計30日滞在。そこまでの旅については以下リンク *1 と *2 の中にあり, イスタンブール旅 note 第1編と第2編は以下のリンク *3 と *4, 続く *5 は番外編「イスタンブールで同宿した, イラン・イスラム革命4年のテヘランを脱出したイラン人兄弟の話」。因みにイスタンブールを 8月31日に発った後は, ユルギップ(ユルギュップ, カッパドキア見物)とアンタクヤ(アンタキヤ)に滞在し, その後は シリア, ヨルダン, パレスチナイスラエル, そして イスラエル占領下のパレスチナ・ガザ地区から エジプトへと引き続き陸路で旅し, エジプト・カイロからこの旅で初めて飛行機を使って トルコ・イスタンブールに戻っていて(1983年10月26日), その 2度目のトルコでもイスタンブールで再びそこそこの長居をし, その後, トルコ国内を今度は東へ東へと陸路の旅を続けて イランに向かっている(引き続きイラン, パキスタン, インド, タイ, 韓国を旅)。というわけで, 本 note は「トルコ, イスタンブール 1度目の滞在・旅」note, その第3編。

*1 ソ連からイタリアの旅に至るまでの各国各都市の旅 note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の第3章以降。

1983年4月26日に横浜港から当時のソ連・ナホトカ行きのフェリー(2泊3日の船旅)で日本を発って始めたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, ソ連(当時はあったソヴィエト連邦!)を旅した後は北欧に出て, その後もヨーロッパ各国を旅しながら徐々に南下, 7月10日にはイタリア・ブリンディジからフェリー1泊2日の船旅でギリシャ・パトラへと向った。

*2 ギリシャには 1983年7月11日に入国, 8月9日にトルコ・イスタンブールに向かう列車でアテネを発つまでの ギリシャ30日の旅, アテネ 5編やサントリーニ島 1編などの note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の第2章に。

中東の旅, ってか「中東」ってのは西洋から見た言い方で, こちら式に言い換えるなら, 西アジアの旅へ, いざ!

*3 トルコ・イスタンブール 第1編: ガラタ橋で眺めた夕日 〜 1983年8月15日, 日本を出国して112日目(イスタンに着いたのは 8月11日, 日本を出て108日目)

*4 トルコ・イスタンブール 第2編: 1983年8月16-17日, Sultan アフメト・モスク, ボスポラス Straits 〜 Sultans of Swing, Dire Straits ♫

*5 トルコ・イスタンブール 番外編: 1983年8月, イスタンブールで同宿した, イラン・イスラム革命後4年のテヘランを脱出して来ていたイラン人兄弟から聞いたイランやイスラム革命などについての話を, 当時の旅日記で振り返る

(タイトル上の写真は, 1983年11月16日のイラン・テヘラン市街, 筆者撮影)

さてさて, 本日は トルコ・イスタンブール 1度目の滞在・旅 note 第3編なり。

スレイマニエ・モスク

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これはスレイマニエ・モスク(だと思う)。「だと思う」というのは, 1983年8月20日にイスタンブールで撮ったこの写真, いつの頃からか スルタン・アフメト・モスク(通称ブルーモスク, その写真は「トルコ・イスタンブール 第2編」note に掲載, 以下リンク)の写真だと思ってしまっていたんだけど, 

当日の旅日記をあらためて見返すと, そこには「シュレイマニエ・モスク」と書いてあって, となるとこれはウィキペディア表記によるところの「スレイマニエ・モスク(トルコ語: Süleymaniye Camii)」。だから, (だと思う)ではなくて, (に違いない)ということでいいか(笑)。旅日記には, 

シュレイマニエ・モスクへ(「そとみ」はブルーモスクの方が立派だが, 中の美しさはその比でない)。いっせいのお祈りを見れた。前に出て祈ってるのは男のみ。女はうしろでやる。

と書いてあるけれど, 中では写真は撮らなかった(撮れなかったというべきか)。

以下は ウィキペディアの冒頭。

スレイマニエ・モスク(トルコ語: Süleymaniye Camii)は、オスマン帝国の旧都イスタンブールにあるモスク。1557年完成で、オスマン建築(トルコ建築)の最高作のひとつと言われる。イスタンブールの旧市街にある7つの丘のひとつの頂上に位置する。スレイマン・モスクともいう。

下町っぽい通りを歩く 〜 On Every Street, So Far Away (Dire Straits) ♫

イスタンブールの下町っぽい通り。そんな通りはけっこう沢山あって, よくぶらぶらと歩いた。写真のやや「中年」ぽいおじさんは地元のトルコ人, 筆者ではありません(笑)。筆者はこの写真を撮った(1983年8月20日), 当時22歳の日本人バックパッカー。

当日の旅日記には,

トルコの下町っぽいとこは どこか昔の日本みたい。目に見えるものも, 耳にきこえる音も。

とあるけれど, この写真だけではちょっと伝わりにくそう。ただ兎に角, 何というか懐かしい感じの, 日本の年号で言えば「昭和30年代から40年代ぐらいの日本」の雰囲気があったような気がする(この時は1983年だから昭和58年)。日本がそうであるように, トルコもその最大都市イスタンブールも, 多分もう相当に変貌を遂げているんだろうけど。

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On Every Street 〜 the title track on Dire Straits' sixth & final studio album released on September 9, 1991 ♫

So Far Away 〜 the opening track on Dire Straits' fifth studio album "Brothers in Arms" released on May 13, 1985 ♫

イスタンブールの写真に戻らねば!

路地裏で遊ぶ子供たち 〜 Teach Your Children (CSNY) ♫ 歌詞和訳つき

これも 1983年8月20日のトルコ, イスタンブールで撮った写真。当日の旅日記によれば, 

歩いてるうちに貧民街に入った。しばし ぶらぶら歩く。

子どもたちが遊んでる。You, who are on the road ♫

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Teach Your Children 〜 from CSNY 1970 album "Déjà Vu"

(和訳 by 筆者)

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

..............................

この世界でいま歩みを進めている君たちには
これで生きていくんだという道標が必要に違いない
だからこそ誰でもない 自分自身になることさ
なぜって 過去はいつも過ぎ去っていくものだからね

子供たちにはよく教えてあげることだ
父親たちの苦悩が ゆっくりと消えていったことを
子供たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
子供たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

感じやすい年頃の君たちは (聞くことができるかい, 気に掛けてるかい)
でもまだ恐れというものを知らない (分かるかい)
年嵩のいった人たちは その恐れによって大人になったんだ (僕らは自由でなくちゃいけない)
だから 君らは助けてあげてほしい (君の子供たちに教えるんだ)
その若い力で彼らをね (君が信じることを)
彼らは真理を探し求めてるんだ (世界を作るんだ)
死ぬその時まで (僕らが生きることができる世界を)

親たちにはよく教えてあげることだ
子供たちの苦悩が ゆっくりと消えていくことを
親たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
親たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

今日も今日とて, ガラタ橋

今日も今日とて 泪橋, なんつったら「あしたのジョー」(1960年生まれ, ってか昭和35年生まれの筆者ぐらいの世代にしか通じない恐れあり)。ここはイスタンブール名物, ガラタ橋 の話。

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1983年8月20日当日の旅日記には, 

ガラタへ。天ぷら魚 探したが, まだやってなかった。残念!

とある。ガラタとは, ここでは ガラタ橋。上下二層のガラタ橋の下層はレストラン街で(レストランというより 呑み食い処 という風情だったと記憶しているが), そこには, 日本料理の「天ぷら」そのものが食べられたわけではないのだが, 天ぷらと似たような料理(トルコ料理なんだけど)を出す店があった。

1983年4月から翌1984年2月にかけての旅で, イスタンブールは2度にわたって滞在, 1度目が 8月11日から31日までの 20泊21日, 2度目が 10月26日から 11月8日までの 13泊14日で, トータル 33泊35日, おおよそ 5週間。国ではトルコよりインドの方が長かったけれど(2番目に長かったのがトルコ, 次がギリシャ), 一つの都市での滞在としてはイスタンブールが一番長かった。確かにイスタン, 旅人の居心地はよかった(旅人はわるく言えば時に「手前勝手」, イスタンブールの市民にとってあの時期のイスタンはどうだったかというと, そりゃ良かったとは言えないのだと思う, 何せ当時のトルコは軍政期で街には兵士や警官が少なくなく)。

ヨーロッパとアジアが交差する場所に位置して独特の「異国情緒」を有し, 人懐っこい感じの人が多かったイスタンブールには, 確かに旅人の「旅心」「旅心地」「旅情」なんぞに触れたり, そんな心情をくすぐったり誘(いざな)ったりするところがあった。そんなイスタンブールに計5週間ほど居て, 一番足を運んだのは ガラタ橋 だと思う。

ガラタ橋 というのは, 横着してウィキペディアから引いておくと https://ja.wikipedia.org/wiki/ガラタ橋

ガラタ橋(ガラタばし、トルコ語: Galata Köprüsü)は、トルコのイスタンブールの金角湾に架かる可動橋(跳ね橋)である。初代の橋は1845年に開通した。1992年には火災で焼失している。現在の橋は1994年12月に開通した5代目である。
長さ490m、主橋脚間80m、幅42mで片側3車線と歩道を備え、市街電車も通る。船が通行する中央部以外は上下二層になっており、上層が車道、下層がレストラン街となっている。

金角湾というのは, これも横着してウィキペディアから引いておくと https://ja.wikipedia.org/wiki/金角湾

金角湾(きんかくわん、トルコ語: Altın Boynuz、ギリシア語: Χρυσόν Κέρας、いずれも「金の角」の意)は、トルコのイスタンブールにある湾。トルコ語では通常ハリチュ(Haliç、ハリチ、「入り江」の意)と呼ばれる。
古来からの名前の通り、ギリシャ神話で「牝牛の渡渉」を意味するボスポラス海峡からヨーロッパ大陸に牛の「角」のように切り込んだ東西に細長い湾で、この海峡の西南のマルマラ海への出口に位置する天然の良港になっている。南は古代ギリシアのビュザンティオンの跡地であるイスタンブール旧市街で、北は東ローマ帝国とオスマン帝国の時代に西欧人の商人・使節の居留地であったガラタの町がある。

というわけで, 下層がレストラン街 となっているガラタ橋。イスタブールにいる間, ガラタ橋 には本当によく行って, よく飲んで(大抵ビール, 国民の99%がイスラームを信仰するとされるトルコだがイスタンブールでアルコール類を飲める店を探すのは容易), よく食べた。真っ先に思い出すのはムール貝の料理(ミディエ・ドルマス, ムール貝の殻にご飯を詰めてある), あれは美味かったなぁ。

そして, そこから眺める海や街の風景は, 実に美しかった。

ガラタ橋界隈は, イスタンブール市民だけでなく, そして筆者のような「貧乏旅行」バックパッカーのみならず, 多くのトルコ人および外国人旅行者・観光客の憩いの場所だったのではないかと思う。それはおそらく今世紀に入って以降も変わりないだろう(と期待!)。

ガラタ橋 から眺める夕日も素晴らしい。

トルコ料理, 美味かったなぁ 〜 トルコ人のジェスチャーで「美味い」は?

1983年8月20日撮影。右にイスタンブール 1度目の滞在の際, 同じ宿にいた日本人バックパッカーが写っているのだが, 残念ながら彼とはその後の交信がないので, 本 note 上ではカット。

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このジェスチャー, 確か「美味い」「美味しい」って意味だったと思う。「ありがとう」のジェスチャーとも似ているみたいだけど, まぁレストランの前, 料理人のジェスチャーだし!

トルコ語の「美味い」「美味しい」は ギュゼル güzel, チョク ギュゼル Çok güzel は「超うまい」「とても美味しい」。因みに güzel の意味はもともと「綺麗」「美しい」「すばらしい」といった意味で, 「美味しい」は レゼットリ lezzetli なんだけど, güzel の方がよく使われると思う(たぶん!)。

も一つ因みに, トルコ語の「ありがとう」は テシェキュル エデリム Teşekkür ederim, これは「ありがとうございます」のニュアンスで, 筆者のようなトルコ語通ではない旅人が使うには一番無難。実際, よく使った。正確に発音できるのでもなく, カタカナ表記で言うと「テセキュル エデリン」と発音してしまってたと思うけど。

更に因みに, 若干くだけた言い方なら テシェキュレール Teşekkürler となる。

しつこく「因みに」(笑), トルコ語は世界の言語の中では(たぶん!「たぶん」というのは世界の言語って実際にはあまりに多過ぎて実態が掴めないのだ, 専門家なら掴んでるか, 笑)少数派, というのは, 文法・語順が韓国語や日本語とかなり似ている。

トルコ・イスタンブール の フランス・パン は最高の味 〜 わしのパンじゃ!!(山下洋輔) ♫

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この女の子(もちろん右の人), 後にミス・トルコ並みの超美人になったものと思われる(撮影した筆者の妄想, でも本当にそうかもね)。この写真は前章に載せた写真と同じレストランの前, 彼女が持っているのは, まぁ38年も前のことだから記憶にあるわけではないんだけど, いわゆる「フランスパン」に見える。

イスタンブールでは「イエニペンション」(通称ブルーモスクつまりスルタン・アフメト・モスクの近くにあった, 「イエニ」は New という意味だと思うがとにかく安宿, 残念ながらだいぶ以前この宿はなくなったという風の噂を耳にしたが, 宿代は当時, 旧トルコリラで 1泊200トルコリラ, あの当時の為替レートで日本円にしてやはり 1泊200円程度だった)という名のドミトリー, 相部屋の安宿に泊まっていたが, その宿の裏だったかな, とにかく直ぐ近くにパン屋さんがあって, イスタンにいる間, 毎朝のようにそこに通って, 焼き立ての超絶美味しい「フランスパン」を買って食べていた。ほんと, あの店の「フランスパン」は美味かったなぁ。あのパンは絶対に わしのパンじゃ!!

わしのパンじゃ!! 〜 山下洋輔(1983年)♫

A-1. パンの花束・1
A-2. PANJA組曲 part1
山下洋輔(PF),小山彰太(DS),武田和命(TS),
林栄一(AS),ヨシコ(VO),橋本俊一(NARRATION)
A-3. パンの花束・2
麿赤児,赤塚不二夫,平岡正明,河野典生
A-4. フリー落語
三本亭指助(=山下洋輔)
A-5. 寿限無
山下洋輔(PF),小山彰太(DS),武田和命(TS),
林栄一(AS)
A-6. 講演
乙骨健太郎(=山下洋輔)
A-7. PICCASO
山下洋輔(PF),川端民生(b),村上"ポンタ"秀一(DS),
岡野等(TP),粉川忠範(TB),松風鉱一(AS),
武田和命(TS),杉本喜代志(G)
A-8. P.A.N.J.Aオールスター・バトル・ロイヤル
村松友視(解説者),乙骨健太郎(乱入論者),
松山真佐夫(放送アナ),石沢徹(リング・アナ)
A-9. BATTLE ROYAL
鬼鍵盤山下(PF),アンモナイト小山(DS),
シーラカンス武田(TS),シュランジャー林(AS)
A-10. パンの花束・3

B-1. パンの花束・4
  かんべむさし、堀晃
B-2. 五・七・五
  山彰太(和歌詠み人,DS),山下洋輔(PF),
  武田和命(TS),林栄一(AS)
B-3. P.J.Nドキュメント「今週の問題人物」
テーマ音楽"THE OTHER PICTURE"
B-4. 一市民の意見
浅井慎平
B-5. おことば
南伸坊
B-6. ハヤマ・キッド・バンド・1
ダイチャン(TP),タイコウ(PF),ツンツン(PIANICA),
コースケ(DS)
B-7. ハヤマ・キッド・バンド・2
ダイチャン(DS),タイコウ(TP,G),ツンツン(G),
コースケ(PF)
B-8. ジャズ大名
筒井康隆(CL),山下洋輔(PF),川端民生(b),
小山彰太(DS),武田和命(TS),杉本喜代志(G),
林栄一(AS),
編集者バンド~鈴木啄二(CL),田寄哲(AS),横山正治(TB),
ソークメナーズ・ホーンズ
B-9. JAMAICAN PARROT
山下洋輔(PF)
B-10. 対決1(SYMPHONIC ORCHESTRA VS 山下洋輔)ー「運命」
山下洋輔(PF),新日本フィル(?)
B-11. 対決2(ELECTRIC INSTRUMENTS VS 山下洋輔)ー「SOCOLLA」
山下洋輔(PF),神谷重徳(LINN DRUM,SYNTH)
B-12. パンの花束・5
糸井重里,三上寛,相倉久人,油井正一
B-13. PEACE
武田和命(TS),山下洋輔(PF),川端民生(B),
小山彰太(DS)
B-14. PANJA組曲 part2
山下洋輔(PF),小山彰太(DS),武田和命(TS),
林栄一(AS),ヨシコ(VO),etc.…

山下洋輔の「わしのパンじゃ!!」, 1983年のリリースだけど, 何月だったのかな。レコードは買って, 田舎の実家にあるけれど(残念ながら今の我が街の自宅にはレコード・プレイヤーがないのだ), あれは 1983年4月から翌1984年2月にかけての旅に出る前に買ったのか, 帰国後に買ったのか, ちょっと思い出せない。何となく帰国後のような気が。

山下洋輔については彼の著作「ピアニストを笑え!」(1976年)を読んだことがあって, ライヴは学生時代, 札幌で観た。実際に観る前に予想していた通り, いや 聞きしに勝る という感じだったかな, 実際に観たら・聴いたら, 実に素晴らしい「ピアノと格闘するフリージャズ」だった。「格闘する」という修飾が相応しいかどうかはよく分からんけど。観たのは 山下洋輔トリオ だったと思う。トリオは1966年に結成して1983年に解散してるようだけど, 自分がライヴを観たときはサックスが 坂田明 だったはずで, ウィキペディア見ると 坂田明 が 山下洋輔トリオ に在籍していたのは 1972年から1979年末までだったようなので, となると 1979年, 自分が大学1年の時に 観た・聴いた んだと思う。もし違ってたら, 坂田明もライヴを観たのは確かなので, それはそれで別だったのかな? 記憶はややあやふや。たぶん 坂田明 がいた当時の 山下洋輔トリオ を観たはず! .. と思われる(笑)。

山下洋輔トリオ のことは書いてないけれど, 1979年春に大学進学で札幌に移り住んで, これは 1981-82年ごろの話。

え〜い, ついでだ, 札幌にいた学生時代, あの旅に出る前に読んでいた本, 聴いていた曲 〜 そして帰って来てから読んだ本(旅の前なのか後なのか記憶がはっきりしない本があったと思うけれど!)

子どもは めんこい, あったり前ながら何処の国でも, 何処の地方でも, どの人種も, どの民族も! 〜 Teach Your Children (CSNY) ♫ 歌詞和訳つき

1983年8月25日, トルコ・イスタンブールの街で出会った女の子。

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Teach Your Children は Crosby, Stills, Nash & Young の 1970年リリースのアルバム "Déjà Vu" の収録曲。以下は 1971年リリースのライヴ・アルバム "4 Way Street" 収録ヴァージョンと, 1974年にリリースされたコンピレーション・アルバム "So Far" に収められたオリジナルのスタジオ・ヴァージョン, 後者の絵は同アルバムのカヴァーで Joni Mitchell によるもの, 歌詞の和訳は筆者。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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この世界でいま歩みを進めている君たちには
これで生きていくんだという道標が必要に違いない
だからこそ誰でもない 自分自身になることさ
なぜって 過去はいつも過ぎ去っていくものだからね

子供たちにはよく教えてあげることだ
父親たちの苦悩が ゆっくりと消えていったことを
子供たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
子供たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

感じやすい年頃の君たちは (聞くことができるかい, 気に掛けてるかい)
でもまだ恐れというものを知らない (分かるかい)
年嵩のいった人たちは その恐れによって大人になったんだ (僕らは自由でなくちゃいけない)
だから 君らは助けてあげてほしい (君の子供たちに教えるんだ)
その若い力で彼らをね (君が信じることを)
彼らは真理を探し求めてるんだ (世界を作るんだ)
死ぬその時まで (僕らが生きることができる世界を)

親たちにはよく教えてあげることだ
子供たちの苦悩が ゆっくりと消えていくことを
親たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
親たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

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*1 歌詞の解説めいたことと, 世界の子供たちの写真と映画と

*2 Teach Your Children 再び

*3 日本の北関東の地方都市(我が街)の子供たち

*4 Teach Your Children, 三度(三たび)の note 投稿 ♫

1度目のイスタンブール, 同じ宿に「イラン・イスラム革命」4年後のテヘランを脱出して来ていたイラン人兄弟がいた

トルコを旅した後, 陸路シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, イスラエルによる軍事占領下のパレスチナ・ガザ地区から陸路エジプトへと旅を続け, エジプト・カイロからあの旅で初めて飛行機を使ってトルコ・イスタンブールに戻った。2度目のトルコでは再びイスタンブールでそこそこの長居をした後, アンカラ, ドグバヤジッドと東へ進み, その後, 陸路, イランに入った。

1度目のイスタンブール滞在の時, 同じ宿に, イラン革命(1978年1月7日 - 1979年2月11日, 結果としてイスラム革命)から 4年のテヘランを脱出して来ていたイラン人兄弟がいた。上に書いたように, イランには 2度目のトルコの旅の後に(トルコ側の国境の街ドグバヤジッドから陸路)行ったけれど, 1度目のイスタンブールで同宿していたイラン人兄弟からは, 随分と貴重な話が聞けた。

*以下の note のタイトル上の写真は, 1983年11月16日のイラン・テヘラン市街(筆者撮影)。

1983年8月27日の旅日記(次々章)にあるように一緒に記念写真を撮っていて, 彼らイスタンブールで親しくしていたイラン人兄弟が写った写真は今も大事に持っているが, 本 note ではその写真はとりあえず掲載しないことにする。既に38年経過した今, この note に掲載したからといって彼らに危害が及ぶことは考えにくく, 過去に Facebook で掲載したことなどもあるのだが, 彼らと筆者以外にやはり同じ宿にいた日本人バックパッカー二人が写っていて, うち一人はその前にギリシャ・アテネで出会った人でイスタンブールで再会, 縁あってその後イスラエルによる占領下の東エルサレムでも再会, インド・デリーでも再会し, 帰国後もお付き合いさせていただいている人なのだが(3歳年上), もう一人の日本人(彼は当時22歳だった筆者より若干若かったと思う)とはその後の交信がない。上掲リンク先 note 同様, 本 note でもその写真は掲載しないでおく。いい表情してるので, 掲載しないのはちょっと残念ながら!

イスタンブールは人当たりがいい, 親切な人が多かったけれど(そもそもトルコは「親日」的とか?), 役人とかは別 .. かも(大抵の国がそうだけど!) 〜 僕は一寸(細野晴臣) ♫

 よくトルコは「親日」の人が多いと聞く。今でも言われるのかな? 当時は兎に角そういう話を耳にした。なんでも 1890年9月のエルトゥールル号遭難(オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が日本の和歌山の沖合で台風の為に遭難し多数の犠牲者を出した)事件の際に, 地元の日本人たちが懸命に救助したことが伝わったのが切っ掛けとか, あるいは更にその後の日露戦争(1904-1905年)で日本が戦勝国となり, 長年ロシアの南下政策に悩まされてきたトルコの民がこの結果に快哉を叫んでますます「親日」的になったとか。日露戦争の日本海海戦の際の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎提督の名をとって, 「トーゴー」という名を自分の子どもにつけるのが流行ったらしいし, イスタンブールの通りにも「トーゴー」という名が付けられたり。なんとまぁという感じだけど, しかし確かに日露戦争から80年近く経過していた 1983年のトルコにおいても, 「親日」国という印象は肌で感じるところがあった。近頃はどうだか分からないけれど, 日本語を習ってる人も多数とは言えないにしてもそれなりにいたと思う(商売に役立つから上手になったという感じの人ともけっこう会った)。

ただ, それは横に措くとして, イスタンブールの人たちの印象は非常に良かった。人懐っこい人が多く, バスに乗った時とかでも, あるいは街を歩いていても, 親切なトルコ人とよく出会ったという印象が強い。

しかし一方で, イスタンブールで絨毯を買ったんだけど(「貧乏旅行」バックパッカー, もちろん高価なものは買えないが, 小さなサイズのものを買って実家に送った), それを日本の家に送る時は随分と嫌な経験をした。要するにタライ回し。何日間かにわたるその経緯を旅日記に残してあるけれど, A に行けと言われて A に行くと B に行けと言われ, B に行くと C に行けと言われ, C に行くと ... そんなことの繰り返しの挙句, 最初のところに戻らされて, という按配。当時のイスタンブールの街にはモノ売りの子どもたちも多く, 最後の方では思わず, 通りではあんなに沢山の子どもたちが働いていて, それであんたたちは終日(ひねもす!)何やってんだよ, なんて啖呵を切ってしまった(流石に「ひねもす」とは言わずに下手くそな英語で捲し立てたわけだけど)。

国により印象は様々だけど, まぁ俗に言う「お役所仕事」というような類のことでは(それってもちろん日本でもよく言われることで「ある」ことだけど, 正直, 海外の多くの国で経験する「お役所仕事」は日本の比ではなく, アレらと比べると日本ってやっぱ真面目だし少なくともその点はベターとは思う)例えば「先進国」フランス・パリの鉄道の駅の窓口とかも酷かった印象があるけれど, (再び)「正直」, いわゆる「開発途上国」(昔は発展途上国という言い方だったけど)の役人とか警官とかになると, 実に酷いのが多かった。大使館や領事館にもそういう輩が少なくなかったけど, 態度がデカい, 横柄, 尊大, 権力を笠に着るような言動に出る人間が多かった。控えめに言うなら, 決して「少なくなかった」。イスタンブールの後に, トルコ以外の他の幾つかの国で更に経験したような諸々を思い出すと, 上記のイスタンの件なんてある意味マシな方だったかもしれない(トルコはいま「開発途上国」などと呼ばれないが当時はその範疇だった, 因みに)。

日本も明治とか大正とか, あるいは昭和の早い時代とか, シンプルに言って「開発途上国」「発展途上国」の部類だったわけだけど, しかし例えば明治の頃の役人って, 大抵はもっと真面目で態度もそんなに尊大な感じじゃなかったんじゃないかなと, 旅して上で言及したような経験をすると, そんなことを思ったりもしたのだった。その時代の日本を生きたわけではないから個人的に確証があるようなことではないけれど, 何となくそう思ったものだ。江戸時代の寺子屋とか儒教の教育とか, 何か日本には歴史的背景でもあったのかな。あるいは明治維新以降の教育の中の「いい部分」が効いていたのかな。

自分は今でも(ある意味, 残念ながら)母国「日本」の有り様にはかなり批判的だし, 若い頃からずっと政府や支配与党(自民党やね!)などに対しては批判的態度が強くて, 当然のことあの旅をしていた時もそうだったわけだけど, 闇雲に日本を嫌うような人間ではないから(当然ながら!.. ハナシ逸れるけど, 日本のいわゆる「ネトウヨ」は闇雲に何でもカンでも日本を持ち上げ, 日本の批判されるべきところを批判する外国人や日本人に対して闇雲に「反日」のレッテルを貼る, 実にコマッタおっちゃん達おばちゃん達だ), 海外のいろんな国を旅していて, ああ, こういうところは日本の方がマシだな, あるいはずっといいなとか感じて, 「母国」日本を再発見したりすることもあるのだった。

僕は一寸 〜 細野晴臣 HOSONO HOUSE(1973年5月25日リリース)

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部のみの掲載に改めました。歌詞・全編に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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...

どんな話を しゃべりましょうか
日の出づる国の 明日の事でも

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どんなところを 歩きましょうか
日の出づる国の輝く道でも

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白い家でも 見つけましょうか(拙者の家の壁は青だけどね, 笑)
日の出づる丘に 彼女と2人で

外の日溜まり 枯木に埋まり
だまりこくる 家の中の午後
僕は一寸 だまるつもりです

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さてさて ♫

旅日記・抜粋 〜 8月11日から 3週間いたイスタンブールを 8月31日に発つまで(カッパドキアに向かったのだ)

抜粋 です。かつ, 見ての通りで, 乱筆乱文 殴り書き メモ。

殴り書き, 「殴り」と書くと, つい, 「あしたのジョー」を思い出してしまう, 元号がアタマでは好きでないながら, 心根は「昭和」オヤジなのであった。トルコ・イスタンブールに夏と秋の二度滞在したあの年 1983年は, 昭和58年なのであった。

それはともかく! .. 旅日記・抜粋殴り書きメモ の 殴り貼り。

1) 1度目のイスタンブールの旅, 第3編は 1983年8月18日 から。

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3) 1983年8月19日

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5) 1983年8月20日

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8) (途中から)1983年8月21日

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9) 殴り書きってより, 走り書き(笑)

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15) 1983年8月22日 

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16) (途中から)1983年8月23日

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18) (途中から)1983年8月24日

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22) 1983年8月25日 

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23) 1983年8月26日

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25) 1983年8月27日 

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27) (途中から)1983年8月28日 

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29) (途中から)1983年8月29日

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32) 1983年8月30日 

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34) 1983年8月31日

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こうして, 1度目のイスタンブールに別れを告げ, いざ, カッパドキアへ。

Istanbul, Hinech Yafa (You are Beautiful) 〜 from Light in Babylon 2010 album "Istanbul" ♫ 再び

イスタンブールで生まれた多国籍・多民族バンドによるアルバム「イスタンブール」に収録された2曲を, 再び。ってか三度(三たび)か。イスタンブール 旅 note 第1編と第2編でも取り上げていて, 詳しくは前者。

特に "Hinech Yafa (You are Beautiful)" が素晴らしいが, 曲は 2曲とも本章の後段にて ♫

1) Hinech Yafa (You are Beautiful) ♫ 〜 イスタンブール, ストリート・ライヴ

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あ, 絵だった(わざとらしい, 笑)。イスタンブール路上ライヴはこちら。

歌詞は
https://www.lightinbabylon.com/lyrics/hinach-yafa

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2) Istanbul ♫ 〜 イスタンブール にて

歌詞は
https://www.lightinbabylon.com/lyrics/istanbul

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