2度目のトルコ, 初めての首都アンカラ 〜 1983年11月9-11日
1983年4月26日に日本を発って, トルコ最大の都市イスタンブールには 同年8月と10-11月に合計 5週間滞在, 首都アンカラは 2泊3日
イスタンは旅人にとって "超絶"魅力的な場所だったということがまずあるけれど, アンカラに来た頃は頭の中で徐々に見えてきた「インドの旅」への想いが(*1), 既に「はやる気持ち」レベルに到達していたということもあったかもしれない。
*1 元々この旅を考え始めた時の想いは, とりあえず「インドに行ってみよう」だった。1979年, 大学入学で札幌へ, その年の夏辺りには既に「インド・ネパール旅の絵本」を買って読んでいた (以下 note の第3章)
次章からは, トルコ旅 note 関連。
2度目のイスタンブール, 振り返り
それは,
因みに 2度目のトルコ, 2度目のイスタンブールは, 1度目のトルコの旅の後に続いてシリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエルを旅し, さらにエジプトに行ってから, 1983年10月26日に あの旅では初めて飛行機を使って エジプトの首都カイロから「飛んでイスタンブール」(*♫)して到着。
*♫ 飛んでイスタンブール
この歌, 歌詞ヘン。以下, 実は 次章の第1節 にリンクを付した自分の以前の note その第3章から転載。
「飛んでイスタンブール」(作詞 ちあき哲也, 作曲 筒美京平)は, 庄野真代が歌って 1978年にヒットさせた曲, リリースは同年4月。
しっかしですね, 「光る砂漠でロール」って歌ってるけど, トルコには砂漠はないんですね。隣国イランなら東部にかなり大きな砂漠があるから, イランからトルコに向かった人がイランの砂漠を思い出した歌だろうか(笑)。「夜だけのパラダイス」もちょっと不思議なフレーズ。トルコは何度か軍政が敷かれた時期があるけれど(そういうわけで戒厳令なり夜間外出禁止令なりが発令された時もある), まぁ1978年は一応, その時期に当たらない(自分が旅した1983年は軍政期だった)。それでも一般に敬虔なムスリム(イスラム教徒)が多いアラブ諸国と違い(勿論トルコ自体はアラブではない, ついでに言うとイランもアラブではない, 少数とは思うけれど勘違いしている人がいるので念の為)緩めではあるものの, 国民の99%はイスラームを信仰しているとされる。信仰の度合いというか質というか, その中身は, 単に個人差があるというだけでなく, 都市部と非都市部, あるいは西部と東部などでだいぶ異なるものの, 「夜だけのパラダイス」というフレーズはとりあえずトルコの風土とか社会状況などとは合わないような気がする(とはいえ, とはいえというのも可笑しいけれども, イスタンブールにはビールが飲める店は幾らもあったし, それに筆者が旅した1983年は遊郭まであった, 筆者は冷やかし・野次馬的に場所を見に行っただけだけれど; 話が飛ぶけれどあれは明らかに公然と存在していたのだが, イスラームの教義との関係は一体どうなっていたのかね, イスタンブールのあれって今もあるのかどうかまでは知らないが)。
まぁしかし, 流行り歌の歌詞なんだ, この歌の歌詞にあるように「どうせフェアリー・テール」♫ と想えばそれまでか(笑)。
*下に 庄野真代 の 1978年オリジナル「飛んでイスタンブール」, イスタンのモスクの写真など使われたヴィデオクリップが YouTube 上にあったのでそれをシェアしてたのだが, いつの間にか消えていたので, 差し替えることにした。以下は翌1979年に 石川さゆり がカヴァーした「飛んでイスタンブール」, 聴いてみたら, 案外こっちの方がいいかもね ♫ (2021年8月23日, 差し替え)
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
1度目のトルコ(イスタンブール, カッパドキア, アンタキヤ), 振り返り
1. トルコには ギリシャの首都アテネから2泊3日の列車旅で 1983年8月11日入国
2. イスタンブール 3編 + 番外編
1) トルコ・イスタンブール, ガラタ橋で眺めた夕日 〜 1983年8月15日, 日本を出国して112日目
2) トルコ・イスタンブール 1983年8月16-17日, Sultan アフメト・モスク, ボスポラス Straits 〜 Sultans of Swing, Dire Straits ♫
3) イスタンブールは「旅心」の琴線に触れる街 〜 トルコ, イスタンブール 1度目の滞在・旅 note 第3編(1983年8月18日から8月31日)
4) イスタンブール番外編(タイトル写真は 1983年11月16日のイラン・イスラム共和国の首都テヘラン市街, 筆者撮影)
3. カッパドキア(1983年9月1, 2日)
4. アラブ諸国の旅を始める直前; アラブ世界に既に半歩, 足を踏み入れていた, シリアとの国境に近い街 アンタキヤ 〜 シリア入国前に滞在した トルコ側国境の街 アンタキヤの飯屋で見た吉永小百合(の額縁入り写真!) 〜 1983年9月3, 4日
さて, 次章からは, 2度目の トルコの旅, その アンカラ編をば。
アンカラ, 1983年11月10日 〜 「現代トルコの国父」 アタテュルク逝去45周年の日に撮った街の写真4枚
アンカラでは あまり大した写真撮れてないけど(笑)。この日は, オスマン帝国の崩壊後の「現代トルコの国父」「建国の父」ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk, 1881年5月19日生まれ - 1938年11月10日他界), 彼の逝去45周年だったのでありました(「アタテュルク」は「父なるトルコ人」を意味する称号)。
一応, 当然ながら彼の功績とは何だったのか, その大筋は掴んでおいてからトルコの地を訪れてはいたけれど(その一件だけで済ませられないけれど, あえて一件につき書くと, アタテュルクは要するに国の統治の在り方として「政教分離」させる理性の持ち主だったのだ, 彼の功績がなかったらトルコも他の決して少なくないイスラム圏諸国もしくは地域と同様に, 例えば街でヒジャブを被らない女性が逮捕されたり, LGBTQの人たちとかあるいは婚前(性)交渉が発覚した人たちが公開ムチ打ち刑に処されたりするような類のイスラム神政国家になっていたかもしれない; もっとも 2021年現在のトルコの大統領エルドアンのやっていることはそちら方向をも一部包含するようなヤバさがあるけれども, カッコ内最後は脱線!), さて,
アタテュルクについては, ここでは横着してウィキペディアへのリンク貼っちまって了, その下に38年前, 1983年11月10日の アンカラ市街の写真4枚!
1. この写真はちょっとヨーロッパの何処かの国の街並みに見えたりするかも。
2. アタテュルクの像
3. どこの国のどの街に行っても, モノが売られ買われている場所は 大抵それなりに面白い。どうして?(笑)
4. 再び, アタテュルクの像を眺めてみよう!
さてさて,
次章は 旅日記です。
アンカラ, 1983年11月9-11日 〜 「現代トルコの国父」「建国の父」 アタテュルク逝去45周年の日を挟んで, 2泊3日(旅日記)
当時の 旅日記 5ページ分だけど, その1頁目から2頁目は 2度目のイスタンブールを発って 夜行列車で アンカラに向かった 1983年11月8日付の日記の最後の方。その時のことは, 本 note 第2章 2度目のイスタンブール, 振り返り にリンクを付した前回の旅 note イスタンブール再訪(1983年10月26日-11月8日)の第6章 2度目のイスタンブールを発って, 首都アンカラに向かった日 〜 旅日記 Part 2, 「また久しぶりに 1人にもどる。独特の緊張感。夜ということもあり, 1人の旅発ちは 気をひきしめる。オレは この緊張感が好きだ。街の灯。列車の窓から見える 夜の街並み。東へ東へ。」 に掲載済みです(なっげぇ見出し!)。まずはそこから引用, ってか転載してしまう。
長ったらしい章見出しだな。でもほんと, あの日の夜のあの時の気持ちは, そのとき見た光景(光景自体はもちろん朧げになっているのだが)と共に, 今も忘れられない。
当日の旅日記, 2ページ目と3ページ目(は冒頭のみ, カットした部分はアンカラに着いた翌日の日記部分)。
あ, でも今日のこの note 上ではもちろん「アンカラに着いた翌日の日記部分」もカットせずに掲載。
因みに「みの虫ゴトーくん」と「ヤツ」(前章, 旅日記の前頁で言及した「きのうのヤツ」)は 以降読めば分かる通り 別人物、念のため。
ここでいう「前章」とは, 前回の旅 note の中での「前章」。
旅日記 1/5
以下の引用は, 上掲の旅日記の最後の5行から, 下掲の旅日記次頁にかけて。T.L. はトルコの通貨トルコ・リラ。あの日の夜のこと, ここに書いたことは, 38年経った今でも はっきりと記憶に残っている。要するに, あのときの気持ちは, そのとき見た「今は既に朧げになっている」光景と共に, 「鮮やかに」思い出せる。
オレは ガラタ渡って 右のところから 船で ハイダルパサへ。(30T.L.)
駅につく。兵隊がいる。
8:55 PM 発。アンカラへ。
また久しぶりに 1人にもどる。独特の緊張感。
夜ということもあり, 1人の旅発ちは 気をひきしめる。
オレは この緊張感が好きだ。
街の灯。列車の窓から見える 夜の街並み。
東へ東へ。
あれ? 間違えた, これは「東へ西へ」だった(笑)。
人には 人 それぞれの旅がある。
旅日記 2/5
1983年11月9日,
朝8時頃 アンカラに着いた。
「師匠」とは, 1度目のイスタンブールで会い, シリアの旅の途中でばったり再会して, そこからヨルダンを経てパレスチナ/イスラエルの旅のエルサレム滞在初期まで旅の諸国・諸都市間移動(堅い言葉だな, 笑)を共にした何歳か年上の日本人カメラマン・バックパッカー。風貌が「師匠」という感じだったし, 実際, 人生経験豊かでもの知りの人だった(「師匠」もいま振り返ればまだ若かったわけだけど!)。
旅日記 3/5
4行目より アンカラ 2日目, 1983年11月10日, 現代トルコ「建国の父」アタテュルク逝去45周年の日。当時の日記では「アタチュルク」と書いてる(たぶん以前はこの表記が多かったのではと思うけれど)。
今日は アタチュルクが 没した日なのだ。(60年前?)
ここは 大間違い を書いてしまってる(笑)。1983年から60年前では 1923年, それは ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk, 1881年5月19日生まれ - 1938年11月10日他界)が トルコ共和国・初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)になった年。うっかり思い切り間違えた数字を当時の旅日記に書いたのは, 日記を書いてる時なぜかその年度と取り違えてしまってたようで。疲れてたでしょうか(笑)。とにかく, 正しくは, 1983年11月10日は, アタテュルク逝去から 45周年の日。
なお, アタテュルクについては, 前章で少しだけ説明(少しだけだけど!)。
前も感じたことだが, トルコには オレが子供の頃の日本を感じさせるものがある。どこか なつかしい。
これは本当です。近年のトルコについてはどんな感じか, 行ってないから何とも言えないけれど。
しかし 心はもう インドの方へ 向いてしまっている。
これについては, 本 note 第1章にて。
旅日記 4/5
ペルシャ語 カタコトと数字, 覚えておくこと。
ペルシャ語はもちろん, トルコの次に行った国, イランの人々の言葉。こういうのは大事。確かイランではその種の嫌な目には遭わなかったけれど(この括弧内 2021年11月20日に加筆・編集, あとでイランでの旅日記を見ていて思い出したのだが, イランでも残念ながら「その種の嫌な目」に複数回 遭っていた, 決して頻繁にということではないけれど), たとえばエジプトの首都カイロでは アラビア語の数字の読み方を覚えておいた為に, カイロの軽食屋で値段をぼられていた時にメニュー版をチェックして気付き, 店のおっさんに抗議することができた。
旅日記 5/5
アンカラを発って, イランとの国境の街で キリスト教の御伽噺の「ノアの方舟」が行き着いたとされる(一部の人たちからそう信じられている!)アララト山が見える街ドグバヤジッドに向かった日, 1983年11月11日から 11月12日にかけての旅日記。
まわりにいた おっさんたちや おばさんたちが 親切にしてくれた。
あのですね, どこの国にも親切な人はいるんだけど, トルコって親切な人が多かったなぁという印象は強い。まぁよく言われる通り「親日」的な人が多い(理由はいくつか有名ですね)という背景もあるだろうけれど, 実感としては, 別に相手が日本人だからってわけでもなく, 基本, 親切な人が多かったと思う。
バスを待つ間に 大学浪人中(しかしバスに乗って働いてるらしい)のトルコ少年と知り合った。わりと英語をしゃべる。(とオレに言われるようではそう大したことないが ...... しかし, しゃべる。) モスレム。ホメイニは嫌い。アタチュルク没の行事のときは 眠ってたという。「死んでるんだ。オレに何ができる?」
彼のこの態度, 大袈裟に表現すると英語で言うところのアティチュード, これは気に入ったなぁ。いいと思う!(直接関係しないけれど「モスレム」とはムスリムつまりイスラム教徒, 当時の日本語カタカナ書きは「モスレム」が多かったような朧げな記憶あり, それと「ホメイニ」はもちろん隣国イラン, 当時イラン・イスラム革命からまだ4年目だったイラン・イスラム共和国のあのおっさん, ってか爺さん(1983年11月当時で既に81歳だった), アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー爺さんのこと)
さて, 21時間の夜行バスの旅で, ドグバヤジッドへ。以下, 翌 1983年11月12日付 旅日記の冒頭にかけて。
バスは 2時間遅れて 5時発になった。21時間 バスの旅。たまに見る街の灯。岩山ばかりの広大な自然。半月に近い月。月が沈んだあと見えた オリオン座。
東へ東へ 進むうちに 自然の姿は厳しくなる。当然 人間の生活環境も厳しくなる。土と石で造った家々。テント。羊の群れ。西とは別の世界がある。
久しぶりに聴いてみよう 〜 喜多郎の「シルクロード」 ♫
前章最後に掲載した, 1983年11月11日付より翌11月12日付にかけて, アンカラから夜行バスに乗ってドグバヤジッドに向かった時の旅日記から, その部分を再度。
バスは 2時間遅れて 5時発になった。21時間 バスの旅。たまに見る街の灯。岩山ばかりの広大な自然。半月に近い月。月が沈んだあと見えた オリオン座。
東へ東へ 進むうちに 自然の姿は厳しくなる。当然 人間の生活環境も厳しくなる。土と石で造った家々。テント。羊の群れ。西とは別の世界がある。
というわけで, 何とはなしに, いや全く理由がないわけでもないけれど, 兎にも角にも(兎に角が生えてきたわけではないぞ!), 懐かしの喜多郎「シルクロードのテーマ」を聴きたくなったのだった。
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