
ナンキンハゼの紅葉を鑑賞したり, 晩秋に咲いたユリを観たりした後, 「人生のポケット」を振り返るノート
鑑賞は 通常「芸術作品」に使う言葉か, しかし自然が生み出した芸術と見做せば OK, 理屈っぽいな。
南京街の 可笑なあの娘, とんちんかんな眼, 見たら駄目よ, Yellow Magic 🎶
それ, キャラメル・ママじゃんかよ。懐かしのティン・パン・アレー(細野晴臣, 鈴木茂, 林立夫, 松任谷正隆), 1975年11月25日リリース, 中3 の時に買った, ってか高3 の兄貴が買ったのかな, 記憶曖昧, まだ田舎の我が家の居間に LPあるはずのアルバム, 残念ながら今の我が家にレコード・プレイヤー持ってないのだ, とにかく, アルバム「キャラメル・ママ」, そのB面4曲目(29:50), 作詞作曲編曲は 細野晴臣, "Yellow Magic Carnival" の歌詞。
キャラメル・ママ Caramel Mama 〜 Tin Pan Alley ティン・パン・アレー(1975年)
Caramel Rag
Chopper's Boogie
はあどぼいるど町
月にてらされて
Choo Choo Gatta Goto '75
She Is Gone
ソバカスのある少女
Jackson
Yellow Magic Carnival
Ballade Of Aya
南京櫨(ナンキンハゼ)の紅葉を鑑賞したり, 晩秋に咲いたユリを観たり ..
日課, 文字通り「毎日きまってする物事」, (括弧つけて)いや カッコつけて
言うと ルーティン, それはカミさんとの散歩, (括弧つけて)以下同上, 要するにウォーキング, それを一昨日の日曜にもして(普段, 平日はナイトウォーク, 晴れてる場合は星空観測散歩, 曇りでも寒くても雨でも多少の雨なら結構だから決行), その際ついでに, いやウォーキングがついでとも言えるのだが, とにもかくにも,
我が家からそう遠くないところにある公園に寄って, ナンキンハゼ(南京櫨)の紅葉を観てきた。


動画ですねん。
カミさんとのウォーキング中, ナンキンハゼ(南京櫨, Chinese tallow tree)の 紅葉「鑑賞」。
「鑑賞」は 通常「芸術作品」に使う言葉か, しかし自然が生み出した「芸術」と見做せば OK, 理屈っぽいな。
📸 2024年11月24日 午後3時52分
これも 動画。
晩秋の日曜午後, カミさんとウォーキングに出て, まずは家の近くの公園に寄り, ナンキンハゼ の紅葉を観察。
ナンキンハゼ が 2本並んでいて, 左は今も緑, 右は「紅葉」真っ盛り。人間も年の取り方は人それぞれ, それと同じ ... か?
📸 2024年11月24日 午後3時53分
家路に向かう道(我が家はまだだいぶ先の方), 珍しい遅咲きの ユリをみつけた(写真 2枚)。
ウォーキングの帰路, カミさんが ユリ発見。
ユリの開花時期は 普通は初夏から盛夏。晩秋のこの時期に花を咲かせるユリは珍しい。
人間の世界で言うところの「大器晩成」型ユリ。いや, なんでも人に譬えてはいけない, そもそも人間より自然の方が偉い ... か。いやいや, そもそもそもそも, 本来は, 人間も自然の一部に過ぎない。しかし兎に角(ウサギにツノがあろうが無かろうが), ユリの方が人間より偉い ... 気がする。
📸 2024年11月24日 午後4時38 - 39分
綺麗な百合さん, アンコール(意味不明)。


木もれ陽を 両手にすくい, 飲みほす 朝の光よ
木もれ陽を 両手にすくい, 飲みほす 朝の光よ
これはしかし, 朝ではなく 既に 夕刻が迫ってるのでは(笑)。

木もれ陽 〜 笠井 紀美子, 1977年リリースのアルバム "Tokyo Special" より
笠井 紀美子, どうして知ったんだっけかな, このアルバムのLP, 高2の時に買った, これも田舎の我が家の居間にまだあるはず。
Tokyo Special 〜 笠井 紀美子, 1977年リリース
Vibration (Love Celebration)
やりかけの人生
夏の初めのイメージ
Very Special Moment
人はそれぞれ
Tokyo Special
木もれ陽
Take Me
待ってて
陽の光の翼に乗って差し込んでくるのは, 眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使
Pink Floyd "Echoes" 拙訳(拙者による良薬いや良訳), 下掲 note 「前説」の後の第1章「Echoes 〜 歌詞和訳」注釈(ヤク中いや訳注)より,
*6 A million bright ambassadors of morning
"A million" はもちろん、日本語に直訳すれば「百万」。ただ、ここで表現したいことは、「数え切れないほど沢山の」といったニュアンスだろうと思う。些か冗談めくが、通貨価値からしても "A million" US dollars はかなりの大金だが、「百万」円となるとそれと比べた場合にはそこそこの大金(筆者にはそれもかなりの大金だが、笑)。
いずれにしても、この歌詞の上記フレーズの中での "A million" は、日本語に置き換えた場合は「何百万もの」とした方が相応しいと考え、"A million bright ambassadors of morning" は日本語で「眩い(まばゆい)ばかりに光り輝く何百万もの朝の大使」と表現することにした。
ピンク・フロイド 「エコーズ」 を 和訳 する 〜 空を見上げ, アムリトサルで, ダラムサラで, ポンペイで, そしてスタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」を観ながら聴く, 不朽の名作 Echoes by Pink Floyd
さてさて 🎶
人生のポケット を振り返るノート
花を見ても, 鳥の鳴き声を聞いても, 何も感じなかった, 時には悲しくなるくらいだった, 好きな音楽も聴く気がしない, 文字通り 音楽を聴く気など全くしない時期もあった「人生のポケット」
「人生のポケット」に入ってた頃, 花を見ても, 鳥の鳴き声を聞いても, 何も感じなかった。時には悲しくなるくらいだった。
長かった。2002年初夏から 2016年初め頃まで, とりわけ酷かった, いや酷いという表現はそぐわない, とにかく日常の感情が希薄になっていたのは, 2009年秋から 2016年初め頃まで。
それはまるで, 深くて暗い河の中にいるようだった。
人と生のあいだには 深くて暗い河がある ..
それ, 「男と女のあいだ」だろ(笑)。しかも野坂は「誰も渡れぬ河」と歌ってるけど, 俺は「人と生のあいだ」にある「深くて暗い河」なら 渡りきったぞ(笑)。
「深くて暗い河」と言えば,
その河まで3マイル
私を運び去ってしまう河
"River of Tears" (Eric Clapton/Simon Climie) 〜 from Pilgrim, the thirteenth solo studio album by Eric Clapton, released on March 10, 1998, 歌詞和訳
英語原詞 https://genius.com/Eric-clapton-river-of-tears-lyrics
その河まで3マイル
私を運び去ってしまう河
埃だらけのその通りまで2マイル
今日あなたを見た場所
私のひとりぼっちの部屋まで4マイル
そこは私がひっそりと身を隠す場所
ダウンタウンのバーまで 0.5 マイル
そこは私が恥辱から逃れた場所
神よ、私はどれだけ走り続けなければならないのか
7時間? 7日間? それとも7年間?
あなたがいなくなってしまってから
私に判るのはただ一つだけ
私はまるで河で溺れているみたいだ
そうさ、涙の河で溺れている
河で溺れている
まるで溺れているみたいなものさ
河で溺れているんだ
あと3日のうちに私はこの街を出て行くだろう
足跡すら残さず消え去るつもりだ
そして1年後、おそらくどこかに落ち着くことになる
私のことなど誰も知らない場所に
あなたのことをもう一度抱きしめることが出来れば
この苦しみを和らげることが出来るはずなのに
だけど行かなくちゃ
私にはもう時間が残されていないんだ
また走り去るほかないのさ
それでも私は、今もある考えにとらわれている
いつか私はここに戻る方法をみつけることになる
あなたは溺れている私を救い出してくれるだろう
河で溺れている
涙の河で溺れているんだ
河で溺れているんだ
まるで溺れているみたいだ
一人でもがいても逃げられない
神よ、この苦しみはあとどれだけ続くのか
私は魂の居場所を探している
私は涙の河で溺れている
人生のポケットから出る方法はどこかにある(はずだ, 2003年4月12-13日)
最近、名前なら大抵の日本人が知っている日本の俳優と香港の俳優が自殺した。古尾谷雅人とレスリー・チャン。二人ともファンというのでは全くないが、名前なら知っている。古尾谷雅人なら、たぶん何かのテレビ・ドラマで何回か観ているに違いない。レスリー・チャンは、やはりテレビで顔くらいなら観ているだろう。二人とも40代半ば。自殺の理由は知らない。ファンではないし、理由に関心はない。ただ、何となく、自殺なんて嫌な話だなと思った。そう言ったら、ほとんど誰もが似たようなことを言うのだろうけど。
二人の自殺に関して、劇団主宰の人が、何日か後の新聞のコラムにこんなことを書いていた。その人のことは知らない。だけど、この人の感想は気になった。曰く、
「気がついたら人生のポケットに入りこんで出られなくなった。そんな怖さを彼らの死に感じた。」
ポケットに入ってしまってそこから出たいと思い、しかし出られない。出られなくて苦しい。少なくともそこまでなら、何だか自分のことを言われているような気がしてくる。「人生のポケットに入りこんで」「出られなく」・・・何だかわかり過ぎるよ、この表現は。わからなければ幸いです。別にわかる必要なない。いや、ある種類の人々は、どうやらそういうものがあるらしいってことは意識していた方がいいかもしれないけれど。人のこと気にしている余裕はないか。
人生のポケットから出る方法はあるか? その回答はない。具体的な正解はない。はっきりしているのは、ポケットから出なければならないということだ。あるいはポケットだと思わないこと? 思わなければ話は簡単。思わなくなった瞬間、それはポケットではなくなる。そんなことが簡単に出来れば悩みはないね。
件のコラムはこう締め括っている。「一度、人生の物差しを取り換える作業が必要かもしれない。」
締め括り以外はよくわかるコラムだったが、最後の言葉は自分にはあまり届かない言葉だ。言いたいことはわかるし、この言葉が届くような状況にある人、あるいは心の隙間にピタッとはまる人はいるだろう。そう思った。しかし、今現在の自分自身にはしっくりこない。もっと前の自分には必要だったし、意味があったかもしれない。物差しを取り換えるっていうよりも、物差しを少しずらして気持ちを楽にしてみるってことならね。それが以前に出来ればどれだけ良かったかと思うけれども、でも今の自分には、そんな作業は効き目がないように思う。
以前から入りかかっていたんだろうが、その先がポケットの中かもしれないということを十分に意識できないままやり過ごし、結局ポケットにはまり込んだ。自分自身の有り様と人との関係がややこしくなり、どうにも息苦しい。おそらくは物理的に脱出しなければ解決しないんじゃないかと思うのだが、物理的な脱出なら既に1度経験済みのところに抜け抜けと舞い戻ってしまったんだから、全てがねじれ過ぎてしまっていてどうにもならない。このままでいながらポケットから出られると思えるほどの物差しの交換でもしたら、万一そんなことが可能なら、その時は自分は自分でなくなっているってことだと思う。要するに、そういう方法は、今現在の自分にはいいアイディアだとは思わないんだな。
人生のポケットから出る方法はあるか? 正解もその手掛かりも持たない時は、とにかく「方法はある」と思っていることでしょう。ポケットから出る方法は必ずどこかにある。あるいは、いつか必ず、自分はポケットから出ている。気がついたらポケットから出ていた。何でもいい。とにかく、いつか出ている。なぜなら、方法は必ずあるからだ。まるで「念仏」か。いや、それが必要な時もあるのです。いつまで言い続けているんだ、こんなこと。わかりませんな。必要なうちは、言い続けます。必要がなくなったら言いません。来年の今頃も言っているかもしれません。言ってないかもしれません。とにかく、メシを食い、愛する者を気にかけ、愛し、勉強し(何を何のために?)、ものを考え、眠り、眼を覚まし、メシを食い、そうやって生き続けることです。そう言い続けながら、生き続けることです。死んで花実が咲くものか。そう言うじゃん、昔っから。
昨日、人生のポケットのことを書いた。
そういう言い方をするなら、自分はまさしく出られないポケットに入ってしまったと意識したりもしている。・・・とこの後もいろいろ書いてみたけれども、あんまり生々し過ぎて世界に公開する(笑、どんな顔して笑ってるのかね)のは辛いのでやっぱり消します。まぁいつものは、これでも生々しくないんです。全部書いたら発狂するからね(笑、同上、再笑)。一言言えるのは、自分は消えはしないってこと。消えてしまいたいような気分はあるけれども、たぶん、消えられないし消えたくないからこその苦痛だと思う。
極端に辛く苦しいだろうとは簡単に想像できたし、考え抜いて覚悟もしたつもりだったけれども、出られない人生のポケットだと感じることの怖さは、正確に認識して予測することなど出来ていなかった。ただ、「出られないポケット」みたいなものという意味では、ある程度は予測していたとも言える。というのは、間違いなく苦しいことになるということ自体は容易に予想できたけれども、しかし一方で、それでもそうしようと想う過程で、その過程の後にはもう動きようがなくなって、そのことで否が応でも落ち着かざるを得なくなる、したがって、結局は、土日にまで引きずって「生き方」をもやもやと苦しむこともなくなるのではないか、そう考えた事実があるからだ。もちろん苦し紛れにそう考えていることは承知していた。ただ、そういう可能性にすがろうとしたことは確かだろう。馬鹿な話だ。全く馬鹿な話だ(この括弧内だけ加筆:今なら「馬鹿」という漢字は使わない。「莫迦」と書く)。「動きようがなくなって」ということから始まる考えには、そこで動きようがなくなることの、自分にとっての底なしの苦しさへの正確な想像力が働いていなかった。その先の方向を都合よく、何とか、かろうじてでも正当化しようとしていたのかもしれない。「動きようがなくなって」とは、まさにポケットに入りこんだ状態なのだ。承知の上で意思を固めたはずだったし、覚悟をした上でのことだったはずなのだけれども、ただ、そこが人生のポケットであること、その怖さを、正確に予測できてなどいなかった。人生のポケットから出られないことを意識する苦しさを覚悟していたのではなかった。死ぬほど悩みぬいたつもりだったが、それもそう思い込んだだけだったのかもしれない。頭が割れるほどに考え抜いたと思ったが、実は決定的に認識不足だった。逃れれば逃れるほど気がつけばさらに苦しいところに入りこみ、その繰り返しで辿り着いたところが人生のポケットだったというわけだ。いつも納得させようとしてきた。自覚的には逃げているというつもりはなかった。しかし距離を措けば、時間を措けば、違う自分の姿がはっきり見えてくる。どう考えても情けない話だ。
しかし、ポケットから出る方法はある。どこかにある。これは出られないポケットではないのだ。方法はきっとある。いつかポケットから出ている。いつの日か、今はわからない。しかし、いつの日か、必ずポケットにいない自分を発見するだろう。同じことを何ヶ月も、ヘタしたら1年も2年も言っていても意味がないんだが、しかし言っていないと自分を保てないのなら、やっぱり言い続けるしかない。言い続けながら、生き続けるしかない。生きないよりはマシだ。そのうちマシな生き方になるかもしれないよ。手掛かりを感じてればもう喋りませんよ。そうでなければ、生きるために喋ります。
人生のポケットから出る方法はどこかにある
人生のポケットから出る方法はどこかにある
幸いにして(幸いにして空は青く澄んでた、嘘のように *3)自分は既に「人生のポケット」から出ている。そして、2度とあの「ポケット」に嵌まり込むことはないだろうと断言できる。まぁ起きていない先のことについて断言するのは本当は誰にも出来ないんだろうが、主観で言うなら断言していいだろうと。
タイトルの上に載せた写真は、2016年7月に撮った写真。家から歩いて10分程度のところで咲いていた向日葵。日が落ちてから散歩に出たら、暗がりで綺麗に咲いている向日葵を見つけたので、思わず撮りたくなって、手持ちのスマホで撮影した。向日葵といえば普通は黄色い花を思い浮かべるが、そこには黄色い向日葵だけでなく、赤い向日葵も一緒に咲いていた。
自分は来月 911 には還暦を迎えるイイ歳をしたオヤジなのだが、過去、不惑のはずの40歳を過ぎてから惑い、その後、13年半という長い年月にわたって、人生の中の「暗くて長い」トンネルに入っていた(今これって「黒の舟唄」の歌詞にあったような気がすると思ったのだが、早速調べてみたら、あれは「深くて暗い」だった、まぁ勿論あっちはトンネルじゃなくて川なんだが、しかしのっけから脱線かよ、これはしかし癖なのだ)。
暗くて長いトンネル、それをここでは「人生のポケット」という。ポケットなんだから、中に入れば暗いだろうが、長いというのは妙だな。しかし、自分の場合は長かった。「人生のポケット」に嵌まり込んだことがある、しかしそこから出ることができた、そういう人は当然ながら、世を見渡せば自分以外にそこそこの人数いるんだろうと思う。ポケットが浅くて、わりと早く出られた人もいるだろうし、そういう場合は、そう長くはなかったが、しかし暗いトンネルではあった、そのトンネルを脱出することができた、そういう言い方も出来るのかもしれない。
自分の場合は、とにかく長かった。暗くて長いトンネルだった。そして、入っている時は、出口は全く見えなかった。脱出する直前まで、いや、脱出するその時まで、出口は見えなかった。
ある日、気づいたら、出ていたのだ。兎にも角にも、自分の場合は、暗くて長かった。「人生のポケット」は、思い切り深かった。
*3 幸いにして空は青く澄んでた、この直ぐ上にリンクを貼った、昨日の3本目の投稿のタイトル上の写真のように。
そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」
「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分で変えられることは変える勇気と、そのちがいがわかるだけの知恵をお与え下さい」 ー そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」
クラプトンの "Give Me Strength" 歌詞和訳も載せていた。載せていたこと, 忘れてた。
"LIFE is great. Sometimes, though, you just have to put up with a little more CRAP" ー "Four in the morning, CRAPPED out, yawning, longing my LIFE away"
内部からくさる桃 〜 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ (茨木のり子、その1)
コンドルは飛んでいく (歌詞和訳) 〜 「人生のポケット」初期に歌詞を訳した歌
トム・ウェイツ 〜 アサイラム・イヤーズ、「人生のポケット」の底で、たまたま手にしたレコード
いまを生きる Carpe Diem ー Dead Poets Society
雨に負けぬ花 (歌詞和訳) ー "Flowers Never Bend with the Rainfall" by Simon & Garfunkel
どうでもいいことじゃないか
キングを演じる為に生まれたのか
それともポーンを演じる為に生まれたのかなんて
喜びと悲しみを隔てるのはか細い線に過ぎないのさ
そうして僕の空想は現実となり
僕は僕の人生を生き 明日に立ち向かわなくてはならない
「千と千尋の神隠し」の主題歌が、ニール・ヤングの「ハート・オブ・ゴールド」のアンサー・ソングになっているという話
音楽は人を癒すか 〜 本当に 「音楽は人を癒す」 か?
澄み切った青空を見て 悲しくなる時もある, 「人生 舐めんなよ」
人生の底にいても 大丈夫だった 〜 後になって振り返って, そう思える
豊かとか貧しいとか幸せとか不幸とかについて
人生の底にいても大丈夫だった 〜 There but for the grace of you go I
人生の底にいても大丈夫だった 〜 暴れだす(ウルフルズ), IF (Pink Floyd), There but for the grace of you go I (Paul Simon), かんじんなことは、目に見えないんだよ (サン=テグジュペリ「星の王子さま」)
拙者による訳, 略して拙訳, 中身は良薬, 良訳
ゴッド・ハンド, 神の手, カミの手, カミさんの手
人生のポケットから出る方法はどこかにある
人生いろいろ。