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おれという人間は全然存在していないのかもしれないぞ


『月刊ポエム』創刊号(すばる書房、1976年10月1日)特集・中原中也より

月刊ポエム』創刊号(すばる書房、1976年10月1日)特集・中原中也。これもまた、姫路で購入したものである。この雑誌、これまでも何度が目にしていたのだが、表紙がちょっと好きになれないため(装幀・レイアウトは渋川育由)スルーしていた。最近、例の中原中也の肖像に興味がつのっているので風向きが変わったというわけ。

創刊号だけあってかどうか、オールスターという感じの内容。吉本隆明、谷川俊太郎、和田誠、つげ義春、沢渡朔、大岡昇平、谷岡ヤスジ……。谷川・和田「ナンセンスカタログ」、つげ義春「夢日記」は注目に値する。編集人は正津勉、平出隆、島貫純子。制作が渋川育由(いくよし)、吉沢法子。

「桃源行(1)群馬・湯宿『常磐屋』」正津勉+つげ義春より

また中也特集では長谷川泰子「中也・愛と訣れ」がリアルである。『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』(講談社、1974)で発表された内容と同じだが、すこし表現のニュアンスが違っている(単行本は村上護による口述筆記)。二人は京都の表現座という小劇団の稽古場で初めて出会った。

私が二十歳、中原はまだ中学生で私よりも三つ年下だから、十七歳でした。そのときの光景はいまなお忘れえません。中原は薄暗い稽古場のイスにちょこんと坐って、私たちの練習風景を見ていたのです。ほんとうにちょこんという形容がぴったりというように、中原はたいへん小柄でした。のちに一緒に住むようになってから、よく二人で散歩をしましたが、中原は私の肩ぐらいの背丈しかありませんでしたから、たぶん五尺あるかなきかだったと思います。でも顔も身体全体も小じんまりと品よくまとまっていましたから、特別おかしな感じはしませんでした。まるで少年を連れて歩いているような錯覚にとらわれたものです。

(p42)

二人が同棲を始めたころ、富永太郎が京都に来ていて親しくつきあっていた。《詩の話になると、どんな相手にも声高になる中原も、富永さんだけにはいつも謙虚であったようです。この頃、富永さんの影響か、チェーホフをよく読んでいたことからそれがわかります》(p43)というような私淑ぶりであった。

ですが、富永さんが胸を悪くされて東京へ帰ってしまってからは、中原はまた一人ぼっちになってしまったようです。一人ぼっちになった中原は、話し相手がほしかったのでしょう、それからすぐ富永さんの後を追うように東京へ出ていきたくなったのです。私たちは中原の中学卒業をまって上京しました。

(p44)

泰子は卒業と書いているが、中也は立命館中学を卒業していないようだ。五年制の四年になると大学予科を受験することができたので日大を受けるつもりで上京した。そして上京後間もなく銀座で撮影したのがあの肖像写真なのである。これについては以前に書いた。

中原中也 写真像の変遷
https://sumus2018.exblog.jp/30415835/

このあまりにも有名な写真を凝視しながら模写していると、何ともいえないいやな感じを受ける、ということも以前に書いたが、『ポエム』創刊号のインタビューで大岡昇平はこういうことを語っている。

大岡 そうねえ。なんかこうきよらかなものという感じを与えるところと、いやな感じを与えるところが共存していた。そのいやな感じを与えるものを一番よく知っているのが小林(秀雄)さんでしょうね。小林の書いている逸話があるじゃないですか。チェーホフの『三人姉妹』の中の没落地主が「おれがいまここにいるというのはとんでもない間違いで、ことによると、おれという人間は全然存在していないのかもしれないぞ」というセリフ、チェーホフ劇ではこっけいなセリフとして言われるんだけれども、それを中原が口真似して言うと、なんともいえない、いやあな感じに皆がなってくる。皆いやな顔しちゃうんだけれど彼はそのまねをやめないという。

(p69)

チェーホフの容赦ない感じ、虚無を、中原中也も抱えていた。


林哲夫作「中也」油彩画 F3号

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