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詩集を読む者は、それこそ詩集の一部として編み込まれている


『時里二郎詩集』(現代詩文庫252、思潮社、2024年5月25日)

時里二郎『名井島』(思潮社、2018年)の感想をかつてブログに書いたことがある。現代詩文庫の『時里二郎詩集』が届いて改めてその記事を読み返してみたのだが、時里作品の斬新なる虚構性についてそれなりにうまく表現しているように思えた。よって、ここにふたたび引用しておきたい。なお『名井島』については全篇が本文庫に収録されている。

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時里二郎『名井島』(思潮社、二〇一八年九月二五日、装幀・装画=望月通陽)読了。実は、この作品を繙く直前、『フィリップ・K・ディックの世界 消える現実』(ペヨトル工房、一九九一年、河出書房新社より二〇一七年に復刊されている)を読み終わったところだった。ディックへのインタビューをまとめたもので、彼のSF作品が生み出される背景がよく分かる。その本に刺激されて久々にサンリオ文庫の『時は乱れて』(一九七八年)を読み直したりしはじめたのだが、ちょうどそこに重なって本書が届いた。

驚いたことに、というかいくつかの作品は氏の個人誌『ロッジア』で読んでいたわけで、そのとき薄々気づいていたのだが、『名井島』としてまとめられたこれら連作は、ディックのSFとほとんど変わらないではないか。フォーマットとしては詩集であり、同時にまた散文集なのであるが、表題にも奥付にも「詩集」という冠はない(ただしご本人は新詩集とブログに書いておられるので詩集で間違いはないようです)。詩と散文が綾織につづられた古の「物語」に近いものと言えるのだろうか。

本書に頻出する単語がまた、人形、アンドロイド、ヒト標本、ロボット、ヒューマノイド、雛(ひいな)、木偶、傀儡、人工知能・・・ディック的なシュミラークルを顕示する。

《アンドロイドであるわたしは夢を見ない 見るようにはできていない》(オルガン)

うーむ、名井島のアンドロイドは電気羊の夢を見ないとは……。この人形(ひとがた)へのこだわりが言語を取り巻く過去・現在・未来への問いとなる。

《なぜなら、《ヒト標本》であるわたしたちには、その原型となるヒトがいるのは当然で、彼の(彼女の)履歴は消去されているものの、それらの履歴を組み立てている神経系の記憶伝達の受容システムはそのまま残される。》(夏庭2)

《少なくとも、歌を詠む主体がヒトでなければ歌でないのか、言い換えれば、歌が通過する媒体はヒトでなければならないのか、ヒトに限らず、歌の憑く依り代であれば、ヒトでも人形でもかまわないのかという問いが残されるだけだ。そして、それに答えるのはわたしではない。》(歌窯)

《《伯母》によると、不具合を抱えたアンドロイドのサナトリウムを作ることこそが、名井島のほんとうの目的なのだという。《母型》は、帰島した言語系アンドロイドのリハビリをとおして、その不具合に潜んでいるヒト言語を包むあいまいな負荷をとりだすことに執心しているのだと。》(《母型》)

そして巻末に置かれた二行。

《ワタシタチハスデニひと言語ニ取リ込マレテイル
 ひと文明ヲ消滅サセタ《言語構造物》ノ瘴気ノナカニイル》(《母型》)

『フィリップ・K・ディックの世界 消える現実』には著者によるこんな分析がある。

《『時は乱れて』では、時間が停止するわずかな間に、主人公の前でソフト・ドリンクのスタンドが《ソフト・ドリンク・スタンド》と印刷された紙切れだけを残して、飾りつけもろとも見る見るうちに消失する。》(第1章消える現実)

言語構造イコール仮の現実。しかし考えてみれば、例えば『源氏物語』は言語のなかにしか存在しないのだから(オリジナルの原稿も失われているばかりか、タイトルすら不明のままの、シュミラークル:写本でしか伝わらない)、あらゆるほとんどのものが実は言語構造のなかにしか存在しないのである。「名井島」は、ない島、どこにも無い島、いや言語のなかにのみある島なのだ。

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本文庫に収められたエッセイ「詩集を編むーー内藤礼《母型》をめぐって」(2019.8)で時里氏は次のように詩集を読むという行為について語っている。なお引用文中の太字は原文では傍点である。

 詩集を読む者は、詩人も含めて、《母型》の鑑賞者と同じように、自らの来歴をほどかれて、詩集のなかに、それこそ詩集の一部として編み込まれている。
 そして、詩集を繙く者は、収められた一編一編の詩を読みながら、そこに、言葉では書かれていないもうひとつの》をよむことになるのだ。
 詩集の一編一編の詩にはもちろん、それ自体で一つの世界がある。しかし、実は、それらの詩編は、詩集全体を通して、詩人が言葉で書くことができない一編の《詩》を胚胎させている。詩集というものを、ぼくはそのように考えている。 

p132

読者がいて詩になり詩集になる、あるいは読者も詩集の一部である、そのためには「編む」ことが最も重要であると詩人は主張する。

静止したテクストではなく、また揺るがない構造物でもない。絶えず編み変え、差し替えられ、ほどかれ、また編み足される言葉の編み物として差し出されなければならない。

p133

そうして、その結果、詩人すら予想することのできない言葉の多層的な世界が実現される……。まさに伝言ゲームのようにコピーを繰り返してきた源氏物語のテクストが世界文学として通用していることを思わないではいられない。

内藤礼《母型》のこと~豊島美術館
https://loggia52.exblog.jp/27250075/

時里二郎『採訪記』(湯川書房、一九八八年七月三十日、装幀=加川邦章)
時里二郎『胚種譚』(湯川書房、一九八三年七月二十日、装幀=加川邦章、装画=北川健次)
時里二郎『名井島』(思潮社、二〇一八年九月二五日、装幀・装画=望月通陽)
時里二郎『石目』(書肆山田、二〇一三年一〇月三〇日、装画=柄澤齊)

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