詩集を読む者は、それこそ詩集の一部として編み込まれている
時里二郎『名井島』(思潮社、2018年)の感想をかつてブログに書いたことがある。現代詩文庫の『時里二郎詩集』が届いて改めてその記事を読み返してみたのだが、時里作品の斬新なる虚構性についてそれなりにうまく表現しているように思えた。よって、ここにふたたび引用しておきたい。なお『名井島』については全篇が本文庫に収録されている。
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時里二郎『名井島』(思潮社、二〇一八年九月二五日、装幀・装画=望月通陽)読了。実は、この作品を繙く直前、『フィリップ・K・ディックの世界 消える現実』(ペヨトル工房、一九九一年、河出書房新社より二〇一七年に復刊されている)を読み終わったところだった。ディックへのインタビューをまとめたもので、彼のSF作品が生み出される背景がよく分かる。その本に刺激されて久々にサンリオ文庫の『時は乱れて』(一九七八年)を読み直したりしはじめたのだが、ちょうどそこに重なって本書が届いた。
驚いたことに、というかいくつかの作品は氏の個人誌『ロッジア』で読んでいたわけで、そのとき薄々気づいていたのだが、『名井島』としてまとめられたこれら連作は、ディックのSFとほとんど変わらないではないか。フォーマットとしては詩集であり、同時にまた散文集なのであるが、表題にも奥付にも「詩集」という冠はない(ただしご本人は新詩集とブログに書いておられるので詩集で間違いはないようです)。詩と散文が綾織につづられた古の「物語」に近いものと言えるのだろうか。
本書に頻出する単語がまた、人形、アンドロイド、ヒト標本、ロボット、ヒューマノイド、雛(ひいな)、木偶、傀儡、人工知能・・・ディック的なシュミラークルを顕示する。
うーむ、名井島のアンドロイドは電気羊の夢を見ないとは……。この人形(ひとがた)へのこだわりが言語を取り巻く過去・現在・未来への問いとなる。
そして巻末に置かれた二行。
『フィリップ・K・ディックの世界 消える現実』には著者によるこんな分析がある。
言語構造イコール仮の現実。しかし考えてみれば、例えば『源氏物語』は言語のなかにしか存在しないのだから(オリジナルの原稿も失われているばかりか、タイトルすら不明のままの、シュミラークル:写本でしか伝わらない)、あらゆるほとんどのものが実は言語構造のなかにしか存在しないのである。「名井島」は、ない島、どこにも無い島、いや言語のなかにのみある島なのだ。
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本文庫に収められたエッセイ「詩集を編むーー内藤礼《母型》をめぐって」(2019.8)で時里氏は次のように詩集を読むという行為について語っている。なお引用文中の太字は原文では傍点である。
読者がいて詩になり詩集になる、あるいは読者も詩集の一部である、そのためには「編む」ことが最も重要であると詩人は主張する。
そうして、その結果、詩人すら予想することのできない言葉の多層的な世界が実現される……。まさに伝言ゲームのようにコピーを繰り返してきた源氏物語のテクストが世界文学として通用していることを思わないではいられない。
内藤礼《母型》のこと~豊島美術館
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