子どものような文の教室 第1回 自分自身のほかに何も存在しない
文章を書くとき、細かいルールに縛られて窮屈になるときがある。書き言葉は難しい、すぐにそう感じてしまう。文章ルールはアルプスの少女ハイジに出てくるロッテンマイヤさんみたいに、厳しい。
「アーデルハイド! 誤字がありますよ! 形容詞の使い方が正しくないですよ! 時系列がわかりにくいですよ! てにをはが間違ってますよ! 漢字が統一されてませんよ!」
ロッテンマイヤさんの躾を守って書くと、まぁキチンとした文にはなる。だからといって、面白い文章になるとは限らない。むしろ、自分が掴んだ世界の直観は文章ルールにそって書くと収縮化してしまう。「こんな書き方で伝わるかなぁ?」も無視している。説明をかさねても、伝わらない人には永遠に理解されないし、個人的には説明くさい文章ほど面白くないものはない。
ハイジはロッテンマイヤさんが押し付けてくる堅苦しい常識ではない、体の体感を信じ続けた。「冷たい水を持ってきて」とご主人にお願いされると、街中の井戸水を飲んだ。自分がもっとも冷たいと感じた水を壺に入れて屋敷まで運んだ。ハイジは自分が掴んだ世界の感触に素直に生きた。ぼくはハイジのようにシンプルに書きたい。
哲学者や文学者は言葉や生命の自由に挑み続けた。アンリ・ベルクソン、ジル・ドゥルーズの哲学、保坂和志の小説観に大いに影響を受けている。ぼくにとって偉大な人とは、つくることや生きることの敷居を下げてくれる人たちだ。彼らが切りひらいた崇高で気軽な道のり。ソクラテスの教えを弟子のプラトンがさらに深めたように、ぼくも書いてみたいと思う。空間や物質の中や外で言葉が動く。それぞれの個人の言葉そのものが自由になれば、硬直化した社会にも、揺らぎや裂け目が生まれる。
家にはもう少しで5歳になる娘がいる。ゆもちゃんはいきなり固有名詞を使って話す。
「Nせんせいはね。うっふっふぅ〜。じゅぎょうさんかんのとき、2ばんのピアノをまちがえたんよ!」
知ってようが知らまいが御構いなしで、いきなり固有名詞を使って話す。子どもの言葉は自由だ。
N先生は授業参観のとき、ピアノの2番の演奏を間違えた。このエピソードを書くとき大人は、例えば「普段はまったく間違えないN先生」「勝気なN先生」「教育実習生のN先生」「昨日寝不足だったN先生」など、様々なN先生の授業参観の瞬間には見えてなかったものを書こうする。「教育実習生」「勝気な」は子どもには見えない。本当は大人にも見えていない。立場や感情は見る角度を変えると世界から消える。書くことは、もっとシンプルでいいのではないかな。ぼくも授業参観に行ったので、見えたものをそのままに書いた。
N先生はピアノの2番を間違えた。N先生は黄色い服にピンクと白のしましまのエプロンをしている。指はゼンマイ仕掛けのロボットのようにカチカチと動く。エアコンがきいていたので、教室の窓はすべて閉まっていた。N先生の額には大粒の汗。ピアノを間違えても、子どもたちの歌声はさらに教室にひびいた。声に合わせてN先生の指はミミズのようにグネグネと動いた。
ベルクソンは言葉を大雑把に分けると、二つの種類があるという。一つは伝達。もう一つは描写だ。伝達とは感じていることを、お互いに伝えあうこと。相談をする。集団の統率を取るために伝えることもあるだろう。
伝達のなかには、分量はそれぞれだが、ある種の命令が含まれている。
描写は見た風景をそのまま書く方法だ。
ぼくは、鳥の群れが空に舞っているのを見るのが好きだ。鳥たちは、ぼくに何かを伝えようとしている訳ではない。伝達を越えた何かが、ぼくにビリビリとひびく。鳥の群れは一つの巨大な生きものように、雲と雲の間をうねる。
鳥の群れのような、うねりや動きを文章に書きたい。子どもは、意味ではなく描写で世界を語る。ぼくたち大人は、何かを伝達しようとしすぎているんじゃないかな。伝達には命令が含まれていることを忘れないようにしたい。
林は夜の空気の底のすさまじい藻の群落だ。みんなだまって急いでいる。早く通り抜けようとしている。
俄(にわか)に空がはっきり開け星がいっぱい燦き(きらめき)出した。ただその空のところどころ中風にできかかったらしく変に淀んで暗いのは幾片か雲が浮かんでいるのにちがいない。
その静かな微光の下から烈しく犬が啼(な)き出した。
けれども家の前を通るときは犬は裏手の方へ逃げて微かにうなっているのだ。
宮沢賢治のこの文は描写そのものだ。風景が風景のまま存在していて、意味の説明はまったくない。それでも伝わってくるものがある。
この『柳沢』という短編はまず、誰が語っているのかまったくわからない。宮沢賢治は感じた気配をそのまま書く。〝みんなだまって急いでいる。〟の〝みんな〟が何なのかは最後までわからない。ぼく、わたしといった一人称でも書かれていない。かといって三人称かというと、それも微妙に違う。奇妙な文体ではあるのが、これこそ、子ども語りのような素朴な文体なのかも知れない。宮沢賢治の文はルールから自由だ。一人称、三人称の縛りからも抜け出て、気ままに動く。
では描写ってどのように書いたらいいのかな? 街や海の風景を眺めてスケッチをするように、頭のなかで言葉を描写する。ぼくはこの訓練をひたすらやってたんだけど、どうも物足らない。
中井久夫という精神科医がいる。中井久夫は統合失調症の患者さんに『風景構成法』という絵画療法をやっている。ぼくは、その方法を、文章を書くときにそのままにやっている。まずは意識に大景を浮かべてみる。川、海、山、道などイメージは何でもいい。森がふっと浮かんだ。意識なのか無意識なのか。ぼくには、その森がぼんやりと見える。おぼろげなまま、そのままを書いてみた。
その森は湖の真ん中にある。木の葉の色は黒を混ぜたような濃い緑だった。森は巨大な苔のように、水の中心に、こんもりとたたずむ。わたしは、水のなかに片足を入れた。湖の水は、なま暖かく水飴をさらに柔らかにしたような感触で、わたしの足に絡みつく。森から風が吹いてくる。その風は、皮膚を切り裂くような冷たさだ。水のなかには、魚のような白い生きものがいる。口や目や尾ひれもその生きものにはない。まるで魂が、水のなかで浮遊しているようだ。
これはいま、即興で書いた文章だ。続けようと思えば、いくらでも延々と書けてしまう。次々にイメージが膨らんでくる。最初の一つが浮かんだら、次は家、木、人などの中景を書く。考えないで書く。もう一度、最初から読む。文字を読んだ反応で、もう少し小さな風景が見える。花や昆虫や石など、匂いや感触を感じるときもある。それらを書き足す。
中井久夫は医学界で、まことしやかに囁かれていた噂がある。患者さんの体を触ると、いまどんな風に精神状態なのか、とかが手に取るようにわかるらしい。身体の弱っているところも、触るとすぐに察知できるそうだ。同じく精神科医の神田橋條治にいったては、超能力を使えるという噂もある。うふふ。
本当かどうかはさておき、彼らは決して分かり得ることのない、人間の精神をわかろうとすることを諦めなかったんだと思う。中井久夫の考えは優しい。幻覚や幻聴を単に病気として扱わない。人間に並々ならぬ、エネルギーが湧いたときに、見えてしまうのだ。そのことを彼は放置しないし、この感性との付き合い方を真剣に考えていたんだと思う。
中井久夫が考案した『風景構成法』を試して、ぼくも書く小説の文体が変化した。それから深い鬱も襲って来なくなった。無意識で書くこと。それは、ぼくの精神にとってもいいようだ。歴史に残る名作を書きたいとか、売れっ子の作家になりたいとかも、どうでもよくなった。この方法で小説を書いていれば、ぼくは生き延びることができるし、何よりも楽しい。
動物は死においてはじめて死を知る。人間は一刻一刻意識しながら死に近づいていく。このため、生命そのものにこのような不断の破滅の性格があることをはやくも見抜いていない人でさえ、ときとして生きることが気懸りとなる。人間が哲学と宗教をもっているのは主としてこのためにほかならない。『意志と表象としての世界』第1巻第8節より
最近、畑をやり始めてから、また書き方が変化している。ぼくたち人間は世界全体の一部である、この思想はよく宗教や哲学で書かれているテーマだし、ぼく自身も全体性みたいなことを作品にしているときもある。でも、まだ確信に迫れていない何かがあった。世界や宇宙の全体性をある種のファンタジーとして書いていただけなのかも知れない。
畑で土を触ったり、植物を眺めたり、草の上で寝転んだり、裸足で土を踏んで歩く。足の裏に、熱いものが伝わってくる。その熱は、アスファルトの熱とはまるで違う。優しく体内に染み込んでくる。数年前に、自給自足をしている友だちが「畑で土を触ってると、体と土の境界線がわからなくなってくるんよね」と言っていて、ぼくはその実感が羨ましかった。
変わろうとしている。草の上で寝ていたとき、地平のなかに、肉体が埋没しそうだった。ぼくは目を瞑ってはいたが、確実に太陽を見ていた。土から生える草となって。
ぼくは植物の一部かも知れないと本気で感じている。書いている最中も、どんどん主体が自分ではなくなっている。もちろん、書きたいという出発点は自分であることは間違いないのだが。
何人も自我を瞑想せよ。自我への沈思を他人に知らしむなかれ。かれはみずからを崇拝者たらしめよ。(中略)
わたくし自身のほかには何ものも存在しない。わたくしが他者について語るのは迷妄のゆえである。(中略)
しかしわたくしの顔ではなくて、他人の顔であると思うのは誤りである。あなたが見るものはあなた自身にほかならぬ。父も母も無である。あなたが幼児にして老人、賢者にして愚者、男にして女である。あなたが水流に溺れかつ渡り、あなたが殺しかつ殺され、屠殺者であり食うものであり、王であり臣人である。あなたがあたな自身を捕まえかつ放ち、みずから眠り、覚め、踊り、歌う。あなたが快楽主義者で禁欲者であり、病人でかつ強者である。要するに、あなたが見るものはあなたにほかならぬ。あたかも泡と小波や大波が水にほかならぬように〟
バクターヴァル
人は個のままに、世界をひろげる。自分が全体の一部なのではなく、ぼくという一つの個体から境界をひろがっているのか。それぞれの人間から、拡張した何かで世界はできているのかも知れない。
いまアトリエでこの文章を書いてはいるが、畑がある島の裏側まで、ぼくの宇宙は拡散している。しとしとと雨が降る。ざばあーと大雨になった。雨が降ると土に水が染み込む。草になったぼくは喜ぶ。当たり前のことが奇跡に感じる。
この実感を同じ島に住むNさんに話した。
「植物の一部だと感じたことはないけど、話し声は聴こえたことがあるの。わたしもともと、福島に住んどってそこでは田んぼと麦を育てとったんよ。因島に来てから、柑橘と野菜をやり始めたんよね。最初は柑橘農家さんのとこで、育て方を教えてもらってたんよ。とにかく、毎日剪定するのが柑橘を育てるのには大事って教えられていたの。それで、自分の柑橘畑でも、朝に剪定するんだけど、畑の空気が変わるのよね。場が何故かどんよりするの……。
でも教えてもらったことだし、剪定を続けてたのよね。何ヶ月か続けてたわ。やっぱりもう嫌になっちゃって。ある日、剪定バサミを持って枝を切ろうとしたけど、もうやめたってなったの。剪定バサミを下ろすと『助かった〜』って声が聴こえてきたの。まさか柑橘の声? そんなはずないよね、ふふふ。わたしは自分の声だと思ったの。だから嫌なら剪定をやめようって意識によぎったの。すると『ふー、これで安心安心』って声がまた聴こえた来たんだよね。わたしの友だちのOさんは、植物と話せるって豪語しているの、ふふふ。
『そろそろ、カタチが変化するよ』
Oさんが段々畑で作業してると、そんな声が聴こえて来たの。翌日に、豪雨で崩れて、畑が流されてしまったのよ……。その話は聴いてから、わたしに聴こえているの植物の声なんだ! って感じるようになったの」
彼女たちは世界の境界をひろげた。声や言葉は人間だけのものではない。小さな赤ちゃんからも何かが伝わってくる。
学校や社会は効率や生産性を高めるために、常識を固定化する。
ぼくのアトリエの窓から山肌が見える。草や土は国家の土でも、ましてや日本の土でもなく、ただそこにある一粒のカケラの集まりだ。ぼくの直観はそう感じる。体は精神とともに、宇宙へ散らばっていった。その先には、生命をもっと気ままなものにしてくれる何かがあった。
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