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連続テレビ小説ドラマ「エール」が私に届けたもの

私は社会人になるまで、朝ドラを見たことがなかった。

中学校も高校も大学も朝は7時前に自宅を出ていたし
学校を卒業して社会人になっても、それは変わらなかった。

 
そもそも、私はドラマを含めテレビを見ない大人になっていた。
小さい頃は大人が何故ニュースや天気予報ばかり見るか不思議だったが
なるほど、私はニュースや天気予報ばかり見る大人になり
あとは家族が見ている番組をちょろっと見るくらいだった。

 
そんな私が何故社会人になってから朝ドラを見るようになったかというと
完全に仕事の関係だった。

 
私は学校を卒業してから障害者福祉施設に入職したのだが
そこでは昼休み中の12:00~13:00にテレビをつけるというルールがあった。

 
基本的には必ず「笑っていいとも!(番組終了後はバイキング)」をつけて
12:45からは朝ドラの再放送を流した。

なお、甲子園(地区予選)の時のみ、甲子園が最優先になった。

 
 
私は「笑っていいとも!」さえ、社会人になって初めて見た。
テレビは食堂と活動室にあったので、利用者は食べながらテレビを見て過ごしていた。

私はそれを食事支援をしながら、少しだけ見た。

 
私の職場に昼休みという概念はない。
昼休み中も利用者の様子を見ながら書類作成をしたり、トイレ支援をするのが当たり前だった。

一応、昼休みだから休憩してもいいのだが
休憩室はないし
昼休み中に本来の昼休みらしい過ごし方をしたら
まるで非国民のごとく、上から怒られた。 

昼休みを満喫していいのは、上ただ一人だった。

 
今にして思えばブラック企業感満載なのだが
私は初めて勤めた職場がそうだったので、昼休みがないのが当たり前だった。
後に労基に話した際、私の実名を出さない限り動けないと言われ
そこまで大事にしたくない私は、泣き寝入りをした。

 
おそらく、そんなブラック企業やブラック企業被害者はたくさんいるし
ニュースに出ているブラック企業は
私の職場以上に真っ黒けなのだろう。

 
  
だから私も、社会人になったからといって、ガッツリ朝ドラを見た訳ではない。

テレビを見ながら
利用者の様子を見つつ、書類を書くのが当たり前だったし
主題歌は利用者が歌っていたし
私も歌えたが
ストーリーを聞かれると、サッパリ分からない。

 
利用者は朝ドラを見てから、昼の再放送を見ているので
人によってはネタバレしている人がいた。
私は社会人になるまで、朝ドラを昼に再放送していることさえ知らなかった。

「ともかさんは朝ドラ見ないの?」

と、無邪気な利用者に聞かれた。

 
 
朝は送迎車出発が8時前だし、送迎車出発前に掃除は義務だし
それらもサービス残業だし
昼休みも書類作成をしても尚
夕方はサービス残業だった。

呑気に朝ドラを見る時間が、いつあるだろう。

  
「あなたの効率が悪いんだから、残業代は出すわけないでしょ。」

 
が、上の考えだったし
上は朝一が一番機嫌が悪く、出勤して早々に怒られたり、長時間拘束も珍しくなかった。
8時前後はいつも、私にとって恐怖の時間だった。

 
雇われの身である以上、歯向かうつもりもない。
なんせ、初めて働いた場所だったから
サービス残業や怒られることは私にとって当たり前だった。

 
利用者が昼休み中にテレビを見るのは自由だが
職員は昼休みだからといって休んでいられない。

 
 
それでも、2019年の朝ドラ「なつぞら」は
私が大好きなスピッツが主題歌【優しいあの子】を担当し
仕事中に時折流れるメロディが聞けたり
利用者が笑顔で口ずさむ姿に
私は秘かに癒されていた。

 
 
 
 
2020年3月。
私は12年関わった施設を退職することに決まった。

不本意な辞め方だったが
労基曰く、実名を出さない限り動けないし
動いたところで損しかないから泣き寝入りをススメられた。

仕事はやるか辞めるかの二択だと思っていたが
こうなっていくると、やるか病むかの二択にさえ思えてきた。

 
転職先が決まる前に
心の準備ができる前に
私は職場を辞めるように仕向けられたに近かったので
すぐに「じゃあ次に行こう!」とはなれなかった。

 
コロナウィルスという未知のウィルスにより
日常生活はどんどん奪われていたし
【お先真っ暗】という状態だ。

 
だが、2年前から安定剤の量は増えていたし
安定剤を飲んでも眠れることはなかったし
2019年はサービス残業が増える一方だった。

 
退職をしてから、私は安定剤さえ飲めば夜眠れるようになった。
それはまるで一番星を暗闇で見つけたような希望だった。

 
もう治ったかな………

と、自己判断で薬を飲まずにいると、やっぱり夜は大変なことになったので
薬から卒業には、未だに至っていない。

 
 
 
仕事をしていた頃は日曜日しか家族と朝ごはんを食べなかったが
仕事を辞めたことで、毎日家族と朝ごはんを食べるようになった。

平日に家族みんなで朝ごはんを食べるなんて、小学生ぶりかもしれない。 
朝が弱い私は朝食を抜いたり、学校や職場に向かう途中でササッと食べることが多かった。

 
 
学校や仕事がある日は胃がもたれるのでパン派だったが
仕事がない日は、朝はご飯派だった。

 
仕事を辞めてからも、毎朝5~6時に起きていた私は
家族と共に席に着き
ご飯やみそ汁や焼き魚なんかを食べた。

 
平和な朝だった。 
日曜日の朝と変わらない朝が、毎日あった。

 
 
朝から怒鳴られることはない。
朝から怯えなくてもいい。

そんな朝に、私は涙が出てきた。
思い返してみても、元職場で非人道的なことを言われたりされることは
たくさんあり過ぎた。

 
朝、優しい家族と一緒にあたたかくて美味しいご飯をお腹いっぱい食べられる平日は
退職した私にとって、至福の一時だった。

 
 
 
母親はテレビが好きで、部屋にいる時は必ずテレビをつけている。
だが、私と父親はテレビが好きではないので、目当ての番組がなければテレビは消してしまう。

 
母親はシフト制で働いていた為
母親が早番の時は、テレビを見ないで父と二人でご飯を食べていた。

 
 
  
そんな時に、転機が訪れた。

  
母「BSだと、NHKより先に朝ドラが見られるのよ~!」

 
私の家族は番組表さえろくに見ないので、そのことを知ったのは春に入ってからだ。
春は私が有給休暇消化中から正式に無職になり、書類関係で動き回っていた時だ。

 
 
遅番の時にしか、8:00からの朝ドラを母親が見られなかった為
7:30からBSで朝ドラを見られるのは嬉しかった。

BSでは7:15から昔の朝ドラ再放送をして
7:30から今の朝ドラの放送をしていた。

 
当時は7:15から「はね駒」という朝ドラの再放送をしていた。

 
母「エールもはね駒も、福島が舞台なのよ!」 

 
私「ほ~福島。」

 
 
母の実家は福島であり、私にとって第二の故郷が福島だ。
私含め家族みんな、福島が好きだった。
福島県民はみんな優しいし、方言も微笑ましい。

 
私の県は、優しい地域と冷たい地域の差が露骨であり
また方言も、ケンカ越しのようで嫌だった。

 
 
福島を舞台にしているということで、私達家族は朝はBSをつけるようになった。
「はね駒」も「エール」も途中から私は見始めたが
すっかり「はね駒」にハマった。
樹木希林さんと小林稔侍さんの演技が素晴らしかったのである。

 
私の毎朝の楽しみが、「はね駒」になった。

 
毎日毎日、私ははね駒はね駒と騒ぎ、ネットで感想を書いたり、見たりし
私の生きがいにさえなった。

こんなに朝ドラにハマるとは思わなかったし
なるほど、みんなが朝ドラにハマるのが分かる気がした。

 
BSの再放送は月~土曜日まで、日曜日以外毎日放送された。
1回15分の放送に、涙あり笑いありで私はハラハラドキドキした。

 
私が学生だったり、社会人だった頃、皆は朝や昼に朝ドラを見て、こんな風に毎日を楽しみにしていたんだと
私は30歳を過ぎて知った。

 
 
朝ドラは周期が長い為、展開に波がある。
淡々とした時期もあるし、急展開になって、いきなり物語に深みが出る時もある。

「はね駒」も私は最初からハマっていた訳ではなく
途中からの展開で目が離せなくなった。

  
だから、「はね駒」の後に「エール」も見ていたが
展開としては、はね駒の方が私は好みであり
「エール」は「エール」で好きだが、「はね駒」ほどではなかった。

 
7:15から「はね駒」
7:30から「エール」
7:45からチャリ旅を見て火野正平さんにキャッキャし
8:00になったら、母がいなければテレビを消した。

 
 
それがいつからか、我が家の日課になった。

 
私は「はね駒!はね駒の時間!樹木希林さん!小林稔侍さん!」と朝から毎日騒いだ。

母や父が早番だろうが
私は必ず7:15になったらテレビをつけた。

 
 
コロナウィルスで毎日暗いニュースが続き、転職先が決まらない中
朝ドラの存在は毎朝私に希望や楽しみを与えた。

 
日曜日(土曜日)は朝ドラがないのでガッカリし
早く月曜日になればいいのにと思った。

 
 
 
そんな中、コロナウィルスの影響により
「エール」の収録が中止になり、その間は1話から再放送になると聞いた。

 
私はめちゃくちゃ、嬉しかった。

 
「エール」は、私の大好きな志村けんさんの最後のドラマ出演作と話題になっていた。

志村けんさんが出る回だけは見て涙したり、写真を撮ったものの
BSの存在を知るまでは断片的にしか見ていなかった。
主人公の裕一は、私が見た時は大人であり、子役時代は全く見ていないに近かった。
途中から見てもおおよそ内容は分かるが、細部はやはり伝わらないし、最初からきちんと見たい。

 
コロナウィルスにより志村さんが亡くなり、脚本を書きかえたり
収録が中断したりと
コロナウィルスに振り回された「エール」だが
私にとってはこの予期せぬ事態のお陰で
「エール」を始めから見ることができた。

 
 
連続テレビ小説ドラマ「エール」は
音楽家の古関裕而さんをモデルにした話である。

 
両親は
「古関さんといったら、なんといっても“長崎の鐘”!」
だとか
「“船頭可愛や”が売れたんだよ!」
だとか
言っていたが
私は「エール」で初めて古関裕而さんを知った。

 
Wikipediaで見てみたら
「モスラの歌」や野球の音楽を担当していることが分かり
なるほど、私が作曲家名を知らないだけで
古関裕而さんの曲をいくつかは知っていた。

 
 
古関裕而さんは明治時代に生まれた。

ドラマ版では、古山裕一と名前は今風に改名されていた。
史実に基づいているエピソードと、ドラマ流にアレンジした話があるようだ。

 
裕一は裕福な呉服屋の長男として生まれたが、生まれつき吃音があり、言葉を上手く話せなかった。
勉強や運動も得意ではなく、クラスメートからからかわれたり、いじめられたり
友達らしい友達がいなかった。

ドラえもんでいう、のび太のポジションだ。

 
学校で目立たないポジションだった裕一だが
ある日作曲の宿題が出て
担任の先生である藤堂先生が
裕一に類いまれない音楽の才能があると見抜き
それを裕一や家族に伝える。

 
藤堂先生からハーモニカをもらい、音楽という楽しさを知った裕一は
自分に自信を持ち、メキメキ明るくなって、音楽にのめり込んでいくのである。

 
藤堂先生との出会いがなかったら
裕一や家族は裕一の才能を見いだせなかったし
裕一は自分らしく生きられなかっただろう。

 
藤堂先生は偉大な先生であり、恩師である。

 
 
藤堂先生が偉大なのは、それだけじゃない。

裕一のクラスメートの久志には歌の才能があることを
大将には詩の才能があることを見出して背中を押すのだ。

 
久志は、自宅は裕福だが、義理の母と折り合いが上手くいかず
大将は、借金苦で家族みんなで夜逃げをし、父は飲んだくれ、弟は失踪、母からは「お前も家から出て行け。」と言われたりと
決して家族に恵まれなかった。

 
だが、三人とも藤堂先生に才能を見出されたから、希望を捨てなかった。
藤堂先生が生徒一人一人と向き合い、背中を押してくれたお陰で
大人になって再会できたし
裕一が作った曲に大将が詞をつけ、久志が歌うという未来に繋がる。

 
恩師と生徒達の絆が熱いのだ。

 
 
私はとにかく藤堂先生が大好きで、藤堂先生みたいな人と結婚したいし、藤堂先生みたいな人になりたいとさえ思った。

藤堂先生!藤堂先生!藤堂先生!

と私は散々騒いでいた割に
演じているのが森山直太朗さんと気づいたのが
藤堂先生が死ぬ直前だったのだから笑える。

 
森山直太朗さんの演技は初めて見たが、歌以外の才能を見た瞬間だった。

森山直太朗さんだと分かってからも
私からは藤堂先生にしか見えなかった。
役に入り込んでいるというか
「エール」の藤堂先生は藤堂先生でしかなかった。

 
 
史実では藤堂先生は亡くなっていないようだが
戦地で裕一をかばって死ぬ藤堂先生は最後まで藤堂先生で
私は涙が止まらなくなった。

藤堂先生が亡くなる回は反響がものすごかったが
私もしっかりと
BS、朝ドラ、朝ドラ再放送と
藤堂先生が亡くなる瞬間を一日三回見た。

Twitterにアップされていた動画や静止画も見たので
もう何回藤堂先生が息絶える瞬間を見たか分からない。

 
 
裕一を演じる窪田正孝さんがまた見事で
まるで子どもに戻ったように「やだやだ。」言うのだが
私もまさに裕一の心境で

やだやだ!
藤堂先生!藤堂先生!藤堂先生!
いやぁぁぁぁあ!!!

と、三回見て、見るごとに叫んだし、泣いた。

 
藤堂先生が、私は大好きだったのだ。

 
 
 
エールを最初から見返したことで、私はどんどん「エール」にハマった。
相変わらず「はね駒」が大好きだったが
「エール」も目から離せなくなった。

   
GReeeeNが歌う「星影のエール」も名曲だし
毎朝あのOPを見るだけで気持ちは明るくなった。
収録が再開され、無事最終回まで撮影終了したことをネットで知った時
嬉しさと寂しさを感じた。

 
3月から始まったエールは、撮影中断をしたこともあり、最終回は11月27日まで延びた。
今までにないくらい、「エール」は長く長く放送された朝ドラとなった。
 
 
 
「エール」には名シーンがたくさんあるし
好きなシーンや好きな登場人物もたくさんいるのだが
藤堂先生の死後、私に最も響いた台詞が、大将の言葉だった。

 
戦後、母校で校歌を作ることになった裕一と大将は久々に福島に行った。
母校で講演会をしてほしいと言われた大将は、生徒の前で話をする。

 
自分は家族に恵まれず、夜逃げをしたから、学校は卒業できなかったこと。
学校一の悪ガキだったが、本当は、休み時間に古今和歌集を読んでいたかったこと。
家族がバラバラになって色々苦労もあったこと。

 
生徒には話さなかったが
恋人にフラれ、周りが結婚したり、子どもを授かっている中
まだ独身でもある。

私は大将に自分を重ねた。

 
 
そんな風に過去に思いを馳せながら、大将は目に涙を浮かべながら言うのだ。
台詞は私の記憶なので多少違うが、こんなニュアンスであった。

「でも、恩師や裕一や久志……昔、この学校で出会った人達が、今の自分を支えてくれました。」

 
「今、昔の自分に会えたら言いたい……

お前の人生、そんなに悪くねぇぞ、と。」

 
 
もう大号泣ですよね。
大号泣。

 
大将は子どもの頃から長男として、必死で家や家族を守ろうと頑張ってきたし
悪ガキといっても、ケンカは売らないんです。
売られたケンカを買っていただけで
男気があって、優しい一面がたくさんありました。
裕一がクラスメートに楽譜を盗られた時に
取り返したのも大将。

思いやりがあって真っ直ぐなのに
家族はバラバラになり
恋人にはフラれ
詞の仕事はなかなか上手くいかない。
 
 
お坊ちゃま気質故に裕一や久志がヘタレだったり、気落ちしたり、道を踏み外しかけた時
心配して訪問し
ストレートな言葉を真っ直ぐ目を見て伝える。
それが大将なのです。
 
 
戦後もパッとせず
バリバリ仕事をやるわけでもなく
家庭を築けるわけでもない大将が

【悪くない人生】

と言うのです。

 
これ以上絶妙な表現があるだろうか。いや、ない。

 
 
 
この講演会がきっかけに、生き別れになっていた弟やその家族との再会に繋がる。

大将と弟で親を見捨てたことを嘆いていた時に
裕一のお母さんが

「親というのは例え遠くにいても、子どもが元気で幸せなら、それが幸せなの。二人とも、親孝行よ。」

みたいな台詞を言うのだが
それがまた、涙が止まらないくらい胸に響いた。

 
 
 
 
2020年11月27日7:30~7:45。

「エール」はみんなに惜しまれつつ、最終回を迎え、終わった。

 
 
 
 
 
今年の2月に、3月いっぱいで退職するしかないと分かった時
私は心の中がグチャグチャで
たくさん泣いたし、寂しかったし、悲しかったし、苦しかった。

 
だけど、もし今、私があの頃の私に会いに行けるなら、私に伝えたい。

【色々あったけど、悪くない一年だったよ。】

と。

 
 
 
コロナウィルスにより、日常生活は制限がかかった。

コロナウィルスがなかった頃に戻りたいし
今すぐにでもコロナウィルスがなくなったら
それはとてもありがたい。

 
だけど、今の私達はコロナウィルスと共に生きていくしかない。

 
 
過去の私に伝えたら未来が変わってしまうから全ては言えないけど
もし戻れるなら、私は伝えたい。

 
noteを始めることになり、毎日少しずつフォロワーが増えてきたこと。
何回か記事が編集部に紹介されたこと。
noteで出会いがあったこと。
noteで……自分が書いた記事をサポートしてくれる人がいて、初めて自分の書いた文章でお金をもらえたこと。

そしてnoteがきっかけで、夢に向かって今動いていること。

 
母親と畑作業をしてみたら、案外楽しかったこと。

 
部屋の掃除や断捨離に燃えて、部屋がスッキリしたこと。

 
運動に燃えて、今年4kg痩せたこと。

 
他県に行けない分、県内の魅力に改めて気づいたこと。

  
ライブに行けない分、様々な方がYouTube配信に乗り出し、楽しいYouTubeにたくさん出会えること。

 
家族も友達も元気で、会えない人もいるけど、連絡は取り合っていること。
会える人には会えているし、数年ぶりに再会した人もいたこと。

 
あなたを傷つけた人に天罰が起きたこと。

  
今、私の心も体も元気で、笑えていること。

 
 
 
伝えたい。
あの日の私に伝えたい。

  
【2020年、なんとか生き延びてるよ。悪くはない。大丈夫。出会いや発見もある年だったよ。】

 
そう言って、泣いていた私を抱きしめたい。

 
 
 
今もなお歌われる曲を作った古関裕而さんも、決して順風満帆な人生ではなかった。
ドラマを見て、私はそれをしみじみ感じた。

長い人生だ。
上手くいかない時もある。
悩んだり、もがいたりしながら
自分の信じた道を進むしかない。 

 
私を大切にしてくれる人に支えられながら
一歩一歩進むしかないのだ。

 
 
 
「エール」は私に、毎日たくさんのエールを届けてくれた。
夢や希望や愛や優しさや音楽の素晴らしさを
たくさんたくさん届けてくれた。
ありがとう。

 
仕事を退職しなかったら、私は「エール」を見られなかった。
初めて最初から最後まで見た連続テレビ小説ドラマが「エール」でよかった。

 
 
コロナ禍で大変な中
スタッフの皆様、俳優の皆様
撮影本当にお疲れ様でした。

大きなエールを、ありがとう。


 

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