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厄年は車に気をつけろ

アラサー、そして30代の女性はほとんど毎年厄年である。

前厄か本厄か後厄か
とにかくほとんどの年に厄がつきまとう。

 
お祓いをしても何かしら不幸は起きるし
お祓いをしたからこそ、大きな不幸には繋がらなかったのではないかと
思わなくもない。
むしろ思おうとしていた。

 
 
私の姉が本厄の時に、父方と母方の祖父母が全員亡くなった。
どうやら姉の厄は身内にいくらしい。
人の生死は厄で全ては決まらないだろうが
少なくとも姉はそう思えて仕方なかったし
私もそれもあるかもしれないと思った。

 
 
では私の厄年はどうかといえば
私の場合、仕事中に車を使うと、厄は車の破損に繋がった。
仕事で使っている車も色々あったし
自家用にも色々あった。
思えば、人生初骨折も仕事中に車内で起きた。

車の破損は厄で全ては決まらないだろうが
少なくとも私はそう思えて仕方なかった。

 
 

 

 
  
あれは、タネキを轢いてから一年後、2019年のことである。

私の職場はパワハラやモラハラが年々ひどくなり
私は安定剤を手放せない体になった。

 
熟睡の日はまずなく
夜中に必ず目を覚まし
朝方になると動悸が激しくなった。

毎日である。

 
利用者と過ごす時間も保護者と過ごす時間も私には至福の一時だったし
同僚の仲間とも関係は良好だった。
利用者の支援も、外部機関とのやりとりも、書類作成も、研修も、行事企画や送迎も
私にとっては楽しくやりがいのあることだった。

 
楽しく笑ってばかりいたのは、利用者よりむしろ私の方だった。
「優しくて頼もしく、怒るとこわいともかさん」
利用者はそう思っていたと思うし
そう思ってほしかった。
 
二事業の責任者として一番大切なことは
利用者・保護者・職員と信頼関係を築くことだと
私は信じてやまなかった。 

 

  
多分
利用者は知らない。
気づいていない。

私が毎日眠れないことも
事務室にもバッグにも安定剤をしのばせていたことも
どんなに事務室を恐れていたのかも。

 
 
 
この頃、兵庫県須磨小で小学校教員が上司や同僚にあたる教員から、激辛カレーを無理矢理食べさせられる等の暴行を受けたことが報道された。

 
「職員室が怖かったが、教室で君達と過ごす時間が幸せでした」

 
新聞に載った、被害者の先生から生徒への手紙にこんなことが書かれていたが
私もまさにその通りだった。

 
 
天国と地獄。

そう表現してもいい。

 
連日、場合によっては何時間も続く不快なやりとりで、事務室は淀んでいた。
いや、事務室だけではない。
場所を選ばずパワハラやモラハラは行われたのだから。

 
 
利用者は知らない。

そんな時に「ともかさん、トイレ行きたい。」「ともかさん、利用者同士でケンカしてるからどうにかして。」等と用事を言ってくれたことで
私が何度救われていたか。

  
意図的ではない形だが、結果的には利用者が私をいつも守っていてくれた。
私を地獄から逃してくれていたのだ。

利用者がいても、パワハラやモラハラをされる時もあったが
回数や時間は大きく減少した。

 
 
 
 
そんな状態だったので、私は早朝に出勤して書類作成をしたり
皆が帰った後に事務室で書類作成をすることが増えていった。

 
パワハラやモラハラの方がいない隙に仕事を大量に終わし
パワハラやモラハラが始まったら、同僚誰かを生贄にして
その隙に皆で素早く帰る。

 
数年前から、私の施設はそれが暗黙の了解ルールになった。 
 
 
完全にイジメだった。 
ターゲットは私だけではない。
私はメインターゲットではあったが、容赦なく他の人もやられた。
職員全員が被害者だし、生贄だった。
機嫌を損ねたら連日咎められるし
助けに入ったら余計に叩かれる。
他の同僚の悪口を繰り返し連日聞かされ、愚痴を聞かされ
模範解答ができなければ、再び叩かれる。

同僚全員が学習し、恐れていた。
だから安定剤を飲んでいたり、眠れない人は私だけではなかった。

 
 
 
定時に上がり、持ち帰り仕事をする人もいた。
だが、私は家に帰ってまでパソコンを開きたくなかった。

 
更に私の担当利用者の方が、一番迎えが遅かった都合もあり
私はまず定時に仕事が終わらず、逃げられなかった。
 
 
私はその利用者ともご家族とも関係が良好であり
かつ、保護者の方は非常に頭の良い方だった。
その保護者の方には、私の立場や状況はバレバレであった。
言葉にするしないではない。
SMAPの公開処刑……スマスマ冒頭の謝罪会見と同じで
職員の言動の違和感や力関係は、見ている人にはよく伝わる。

 
 
その人をはじめ、保護者の方々は
ありがたいことに、私の仕事ぶりを非常に評価してくださり

「ともかさんの立場は、分かっているから。任せて。」

と耳元で囁き、さり気なく援護射撃をたくさんしてくれた。
どれだけありがたかったか分からない。

 
その援護射撃が功を奏したこともあれば
逆効果で
私の立場が悪くなることももちろんあった。
パワハラやモラハラは簡単になくならないからこそ
安定剤が手放せなくなったのだ。

 
 
だけど私は
いたらない私を受け入れ、言葉にしなくても察し
力になってくれた保護者の方々には
今でも感謝の気持ちでいっぱいである。

 
 
 
2019年は求人をかけても人が集まらず、離職率も高く、新人の方が出たり入ったりを繰り返した。

私は新人職員指導担当でもあったので
新人指導の方が出たり入ったりする分、仕事は更に増えた。  

 
ありがたいことに利用者の方が去年たくさん増えたので
新規利用者が施設に慣れるまでは私も現場に付きっきりだったり
保護者の方から相談を受けたりと
そちらの仕事ももちろん手を抜けなかった。

 
定時は17時であったが、実質書類作成に入れるのは18時以降であり
18時以降は全てサービス残業なので
私はみんなが帰った後、一人で残って、もしくは少数の仲間とよく仕事をしていた。

 
「効率が悪い、能率が悪い、新人指導が悪い。」

 
そう何度も叩かれたが
終わらないのだから仕方ない。 

サービス残業を私がどれくらいしているか
実際上は全く把握していなかった。
他の同僚がどれだけ頑張り、現場を守っているかも
上は全く把握していなかった。

 
 
むしろ、保護者の方が気づいていた。
毎日上よりも上司よりも私が残っていたのは、バレバレであったし
手柄は上にとられ、責任は私がとらされたが
私が普段どんな仕事ぶりか、仕事の成功の裏で誰が動いているかは
あえて説明はなくとも、保護者の方々には伝わっていた。
私は差し入れをよくもらったし、労われたりもした。

 
「施設で一番ともかさんを信頼している。」
「学校や他施設でも、なかなかともかさんほどのやり手はいない。なのに上は、ちっとも分かってない。」
「ともかさんあっての施設よ。」
「子どもがともかさん大好きです。」
「でも実は、子どもより私の方がともかさん好きなの(笑)ともかさん辞めたら寂しくて泣いちゃう。辞めないでくださいね?」

 
そういった保護者の方々の優しい言動に支えられ、私はどれだけ頑張れたか分からない。
見ていてくれる人がいるということは大きな励みだったし
言葉にしなくとも、私が仕事にかける思いが伝わることは
職員として、また一人の人間として
最大の幸せだった。

 
 
私は諦めていた。
理解できない人は理解できないのだ。

 
平和なうちに書類作成をひたすらにこなし
雲行きが悪くなったらすぐに残業を切り替えて帰れるようにすることでしか
私はここで生き残れない。

 
気づけば私は
次の日は休みだからと
週末の仕事日は20~21時まで残業が当たり前になっていた。 

余談だが、私の代わりの求人の詳細に
残業時間は月10時間、残業代は全額払うと書いてあるので笑ってしまった。

 
 
去年、残業時間は月50時間以上(ただし、残業代請求は20時間弱)。
月2~3回週6勤務。
人手不足のため、振替は使うに使えない。 

上司はいつも定時で帰り
パワハラの方は年に5回、国内外旅行を大いに楽しんでいた。

 
本当に笑うしかなかった。

利用者と仕事自体が好きだからこそ耐えられた。
ただ、それだけだ。

 
 
 
そんなこんなである日、久々の週5勤務だからと
私は金曜日に書類作成に励んだ。
その日は金曜ロードショーでジブリ映画をやる日だったので
それに間に合うギリギリまで仕事をこなし
施設を施錠して、職場を出た。

 
給油して、いつもと同じ帰り道を走った。
変わらないことは何もなかった。

 
ドガッ!!!

ガッガッガッガ………

 
 
私は左後輪タイヤに違和感を覚えた。
ハンドルをとられる。
これは明らかにおかしい。

 
 
 
私は邪魔にならない場所で停車し、ハザードをつけ
車から降りた。

左後輪タイヤはパンクしていた。

 
なんということだ。
またか………。

 
私は気落ちした。
私の二代目の愛車は早出残業をすると、もれなく不幸に見舞われた。
ついてない。
こうやって遅くまで残業したらこれだ。

 
 
私はまず、両親に電話した。
両親も私もJAFを呼ぶしかないと思った。

最近の車には予備のタイヤがついておらず
私の車にもついていない。
万事休すなのである。

 
ガソリンスタンドを出てから10分も経っていなかった。
あの時タイヤに異常があれば、また動きは変わったのに。

パンクは釘ではなかった。
後に言われた話では、寿命ではないかという話だった。

 
 
私はJAFに電話する前に、車に強く、近くに住んでいる同僚に電話した。
その同僚は大きな車を持っていたので、牽引ができた。
車のトラブルに得意のため、車備えつきの修理キットや自前の道具で、タイヤの応急処置を彼ならできるかもしれない。

 
しかし、電話に出なかった。
タヌキを轢いた時にはあっさり電話に出たし
今までも電話にはすぐに出てくれたが
今回に限って出なかった。
非常に珍しかった。

 
相手も明日は勤務日ではなかった。
彼にとっても久々の週5勤務である。

 
久々の連休だし、金曜日だ。
予定でも入れたのかもしれないな。

 
 
頼りの綱の同僚に、この日に限って電話繋がらなかったのは、不運でしかなかった。

 
 
日中ならば…
同僚で車に詳しい人がたくさんいるし、職場付近は車屋さんもあるから、なんてこともなかったのに。

なんでよりによってこんな時間に
なんでよりによってガソリンスタンドを出てから……。

  
私は孤独感が押し寄せた。
そこは外灯もなく、車の通りも激しくない道で
周りには何もなく、真っ暗だった。
風は強く、今にも雨が降ってきそうだ。

 
 
一刻も早く、JAFを呼ぶしかない。

電話をすると、男性が電話に出た。
パンクの旨を伝えた後に現在住所を聞かれて困った。

 
と、特徴ないぞ、ここ(笑)

 
 
私はしばし考えた後、そういえばこの通り沿いの数百m北方向先に●●会社の支店があった、と思い出した。
あれを頼りにしてもらうしかない。
他には本気で何もないぞ、ここ。
信号機に地名もついてないしな…。 
現住所自体はGoogleで調べればすぐ分かったが、見知らぬ人に説明はとても難しい場所だった。

 
「あと40分くらいで到着します。」

 
それを聞いた時、私は金曜ロードショーに間に合わないと思った。
車で見る気分にも全くなれなかった。

 
私はエンジンを切り、車から降りて、夜風を感じた。 
暗く肌寒い夜が、今の自分にはやけにお似合いだと思った。
バカみたいだな。

 
早出残業のたびに車が破損して、本当バカみたい。
早出残業したって上から責められるばかりだし
私、何やってるんだろう。

  
涙が込み上げた。
お腹も空いていたので、より感傷的にもなったのだろう。

 
 
 
約束の時間よりやや遅れ、JAFの人はやってきた。 

タイヤはパンクであり、修理キットでも直らないという。

 
JAFの方が言うには、15km以内まではレッカー車移動が無料だが
それ以上は1kmあたり750円かかるとのことで
支払い派生が確定した。

 
私の職場は自宅から片道20kmだった。

 
  
 
また、JAFの方から車をどこに運ぶか問われて、私は悩んだ。

職場なら近いから、15km以内なのでお金はかからない。
明日の営業に使わない社内車もあるし、一旦パンクした愛車を置かせてもらい
明日近くの車屋さんにタイヤを見てもらうという手もある。
社内車を仕事の関係で自宅まで乗っていくことも、よくやっていたのだ。
施設の鍵は手元にあるし、車の鍵のありかも分かる。 

 
恐らくそれが一番手っ取り早いが、時刻は21:30過ぎである。
上から許可をもらわねばできない。
こんな夜分に電話をしたら、それだけで怒られるだろう。
サービス残業も効率が悪いと怒られるだろう。
社内車を私用で使うことも咎められるだろう。

 
うん………職場に運ぶわけにはいかない。

 
 
 
近隣のガソリンスタンドで、タイヤ販売&交換も行っていたが
時間が遅い為、そのサービスはおそらく営業時間外だと言われた。

 
「もっと時間が早ければね…。」

 
と言われるほど、残業した自分がバカらしくなった。

 

  
「イエローハットに届けようか?そうすれば次の日の朝、家族か誰かにそこまで送ってもらって、タイヤ交換して別車で帰るのもありですよ。」

とも提案されたが、私はそれもまた首を振った。

 
両親は次の日、朝早くから出掛ける用事があった。帰りも遅い。
我が家からイエローハットは歩いていける距離ではない。
その手も使えないのだ。

 
「……じゃあダメ元で、自宅に届けがてらガソリンスタンド見掛けたら立ち寄って、タイヤ交換してくれるか確認してみましょうか。その分、料金はかかるけど…。」

  
私はその提案が一番いいと思い、そうしてもらった。

 
 
 
去年、愛車がレッカー車移動されるのは見たが
自分自身がレッカー車に乗るのは初めてだった。
私は助手席に乗り、自宅を案内する。
走行中、JAFの方は仕事関係者とおぼしき人とやりとりを頻繁にしていた。
JAFも忙しいんだろうなぁと思った。

 
 
ガソリンスタンドはたくさん通ったが
既に閉まっていたり
営業中だが、給油のみだった。

それは私に絶望感を与えた。

 
 
一箇所、タイヤが売っている場所はあったが、店員は年配者で、タイヤ交換担当者はいないと告げた。
ダメ元で尋ねたからショックは少なかったが
それよりもこの時間に年配者が働いていることに衝撃だった。

  
どんな仕事も、大変である。
大変なのは私だけじゃない。
目立たなくとも誰かしらが必ずいつもどこかで働いていて
人々の、私の生活を支えている。

 
私ばかり大変な気がしていたな。

 
 
走行中、私は前向きな気持ちになった。
金曜ロードショーでジブリを見ていたら、こんな気持ちにはならなかったな。

 
 
自宅にレッカー車が到着した時、両親が玄関から出てきた。
時刻は22:30近くになっていた。

父親はいつも21時前には寝るのに、起きて待っていたのだ。
その父親の姿を見ただけで泣きそうになった。
父はいつもそうだった。
私が愛車を破損させたり、仕事で何かあったりすると
玄関で待っていた。
家の中に入る前に私の車の音を聞きつけて、家から出てきた。

 
そんな父親の優しさに涙が込み上げ、家の中に入ると、母親が笑顔で「おかえりなさい。今日も遅くまでお疲れ様。」と言って、夕飯を温めて待っていた。
私は更に涙が込み上げて
仕事で辛いことがあった日は夕飯を食べながら 
涙が止まらなかった。 

 
 
JAFの方にお礼を伝え、料金を支払い、お茶菓子や飲み物も渡し
とりあえず冬用タイヤに取り替えたところで
家に入った。

時間は23時に近づいていた。

 
「長い一日だったわね。お疲れ様。」と母親が言う。

 
「明日朝早いのに、お父さん、お母さん、遅くまで待たせてごめん。」と私は言う。

 
「お母さんはいつもドラマ見て夜遅くまで起きてるから大丈夫だし、お父さんは娘の一大事だもの……寝てられないのよ。」

「夕飯食べる?」

母が微笑む。

 
 
私は半泣きになりながら、「今日は疲れたから、シャワー浴びてさっさと寝るわ。」と伝えた。

私は基本的には、23:15~23:30に寝ていた。

 
 
 
 
 
次の日の朝、起きると両親は出掛けてもういなかった。
太陽が朝から眩しく、青空が広がっている。

 
茶目っ気たっぷりの母親のメモを読み、一人フフッと笑ってから
朝食を食べた。
何時間ぶりの食べ物摂取だろうか。

  
オープンを待ち、私はイエローハットにタイヤを買いに行き、交換してもらった。
これで一件落着だ。

 
イエローハットでタイヤ交換中、同僚から折り返し電話がかかってきたが後の祭りだ。
やはりその状況なら、同僚がいればどうにかなったらしいし
金曜日は特に予定もなかったから、電話に気づきさえすればすぐ駆けつけたらしいが
もはや仕方ない。

これもまた一つの経験であり、学びもあったのだ。

 
 
ついでに………と思い
ドライブレコーダー売り場を見た。

車に詳しい同僚の方々に相談したら、「ともかさんは絶対に360度タイプがいいし、ドラレコつけた方がいいよ。」と満場一致だった。

 
その頃、世間はあおり運転で物議を醸し、ドラレコへの興味や関心が急速に深まっていた時だった。

 
ドラレコはことごとく……売り切れ。
入荷待ちだという。
私以外にも売り場にはたくさんの人がいて、店員さんにあれこれ質問していた。

  
 
最初はディーラーから純正品を買おうとしたが、ディーラーからは純正品よりもイエローハット等のお店の方が性能が良いと何人にも言われた。

だが、イエローハットもジェイムスも、ドラレコは人気で品薄だった。

 
まぁ、とりあえずはタイヤ交換できたし
ドラレコはまた入荷してから買うしかないな。

 
 
私はお店を後にした。

 
  
 
 
 
 
同僚「残業後にあそこでタイヤパンクじゃ大変でしたね。」

週明けの月曜日、私は同僚に一部始終話した。

 
 
同僚「私もこの前タイヤパンクしちゃって。自宅だったからよかったですけど、道中はどうしようもないですよね。」

 
私「いっそ釘とかで走行面ならまた違かったみたいですけど、私のタイヤはサイドをやられちゃっていたので、タイヤ交換しか手がなかったらしいです。」

 
同僚「昔は予備タイヤ積んであったからまだよかったけど」

 
私「今は困っちゃいますよね。」

 
 
私は同僚と仲がよかった。
こうして仕事以外のプライベートな話もよくしては
笑ったり、考えさせられたり、共感し合った。
同僚とはつまらない話やどうでもいい話をたくさんした。
つまらない話やどうでもいい話ほど
関係が良くないとできない。

 
人と仲良くしたかったら
まずは明るく元気に挨拶をし 
雑談をしたり、自己開示をするに限る。

隙がない人とは関係が築きにくい。
まぁ私の場合だと隙だらけなので
それはそれで良くも悪くもあるのだが。

 
 
 
 
 
 
早出残業をすると災難続きの愛車だったが、仕事を辞めてからは今のところ何も起きていない。

 
仕事をしていた時は毎日100kmくらい走り、毎週給油していたが
今では月に1度給油すればいいくらいだ。

  
コロナウィルスの影響もあり
私は車にほとんど乗らなくなった。
週に数えるほどだし、走っても一日10~20km前後だろうか。

  
 
 
私は人に恵まれた。

大変なこともたくさんあるし
気が合わない人や攻撃的な人もいるけど
タイヤパンクの際も 
こうしてたくさんの人に支えられ、助けられ 
私は乗り越えられた。
私は自力でタイヤ交換ができない。

 
 
今日、私がこうして家にいる間も
たくさんの人達が働いている。

感謝されなくとも
目立たなくとも 
怒られようとも 
それで病もうとも 

たくさんの人達が働いて社会を支えている。
それは間違いない。
働いている人全てに、私は感謝したい。
いつもどうもありがとう。

 
そして
願わくば私も
社会の歯車の一つに、再び早くなりたい。





 

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