日本を愛した外国人・ゼームス坂物語
JR大井町駅を降り左に歩いていくとT字路の交差点があり、この交差点から新馬場方面へ抜ける坂はゼームス坂と呼ばれています。
かつて浅間坂と呼ばれていた坂がゼームス坂と呼ばれるようなったのは、英国人ジョン・M・ジェームスがこの坂の途中に住むようになったからでした。
彼が日本にやってきたのは慶応2年(1863)28歳の時。
英国船ローナ号の船長をしていた彼はジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、坂本竜馬と知り合いになると海援隊に助力していました。
そんなジェームスの人生は、ある一人の武士と出会うことにより大きく変わっていくのでした。
その人物とは海援隊の客員だった関義臣。
越前福井藩士だった彼は勤皇運動に挺身し、全国各地を奔走している時に坂本竜馬と出会い意気投合し海援隊の客員になりました。
時は幕末の動乱、勤皇、尊王、攘夷、佐幕、倒幕で揺れる日本
そんな中で勤皇活動を続けていた関は、しだいに海外を知らずに開国論を述べることに耐え切れなくなりました。
そして、竜馬の薦めもあり彼は実際に海外のことを知るためにイギリスへの密航を企てたのでした。
そして、この時に関に紹介されたのがジェームスだったのです。
慶応2年7月10日
ジェームスの船は関を乗せ長崎を出航。
しかし、上海から香港を経由してシンガポールに向かって航行中、船は香港沖で大暴風雨に遭遇し沈没してしまいました。
乗組員達は端艇乗り移ってやっと陸に上陸しましたが、今度は、そこで青竜刀を持った海賊達に襲われてしまいました。
ジェームス等はピストル、関は刀で応戦し血路を開き、なんとか日本に帰国することができましたが、この思わぬ遭難のために関の英国行きは取りやめ、ジェームズは、そのまま日本に留まることになりました。
そして、幕府が倒れ、明治の世になると、ジェームスは英国に出張して軍艦購入の道をつけ、
また艤装、回航、行方不明艦の捜査等を指導及び航海術などを教え日本の海運振興に大いに貢献しました。
その後、横浜鎮守府顧問、海軍省顧問等を歴任し、明治23年には政府から終身年金を受け、28年には勲二等旭日章を授けられました。
日本の海運、海軍に尽くしたジェームスは、一方で自分が住んでいた町、品川にも大いに貢献しました。
彼の家の近くにあった浅間坂(せんげんざか)は急な坂道で住民たちが非常に不便していました。
この事を知ったジェームスが私財を投じ、現在のような、ゆるやかな坂に直したことから、浅間坂はゼームス坂と呼ばれるようになったのでした。
これ以外にも城南小学校の増築には多額の寄付をするなどもしました。
また彼には子供がいなかったので、近所に住む子供たちをとても可愛がっており、当時の子供の小遣いは五厘もあれば多い方でしたが、近所の子供たちを見つけると、彼は二十銭銀貨を取り出し、達者な日本語で、
『みんなで分けるんだよ』
と、度々くれてやるのでサンタクロースとよばれ親しまれていました。
身体は小柄でゴマ塩の髭を生やし、見るからに好好爺然としていた彼は、正月になると和服を着て『勲二等ジョン・M・ジェームス』と日本語で書いた大きな名刺を持って、庄屋や町の主だった人達の家々を年始廻りしていました。
日本を愛していた彼は、日本人になりきっていたので、町の多くの人から尊敬を集め、非常に親しまれていました。
ですので、第二次大戦中に敵性語として英語が追放された時にも、ゼームス坂の名前は消されることがありませんでした。
また一方で、イギリス密航計画の時に共に海賊達と戦ったことから厚い友情が結ばれた関の家族と親しい親交が続いていました。
日蓮宗を信仰していた関家の影響もあって、ジェームスも次第に日蓮宗に傾倒し、ついには帰依し、小川泰堂という日蓮宗門の学者からも学び、自宅には純銀製の仏像三体を作って、朝夕礼拝するようになりました。
キリスト教徒の家に生まれた彼が父祖以来の信仰を捨て法華経に帰依していった背景には
当時、ヨーロッパ諸国がまず宣教師を先頭にたて
「神の意志を宣布する」
という使命感のもとに、悪どいやり方で植民地を獲得してゆく様子が堪えられなかったからなのでした。
彼は生前、関に対し上海・香港あたりで布教している宣教師たちの事を口を極めて罵っていたそうです。
そんな彼だからこそ、仏教の持つ「一切の衆生に仏性を見る」という穏やかな信仰に惹かれたのだと思います。
日蓮宗に帰依し戒律を守り妻も娶らず子もいなかったジェームスは、明治41年(1908)七十一歳で横浜の病院で亡くなりました。
生前は
「死んだら火葬にして、その灰を富士山の白雪の上にまいてくれ」
と言っていましたが、亡くなる2、3日前に
「遺骨は身延に」と言い残し、臨終の際には法華経を高く誦して瞑目したといいます。
死後、遺体は自宅に安置され、日蓮宗の豊永日良師が導師となって葬儀が営まれた後、遺言に従って墓は山梨県の身延山の久遠時に建立されました。
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参考資料・サイト
『 日本史の中の世界一』
田中英道・責任編集 育鵬社
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