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孤独=寂しい?

アルトゥル・ショーペンハウアー(哲学者)は、「孤独に耐えられない、寂しいからといって、他人と一緒にいたって、ろくなことはない」と、なかなかに手厳しいことを言っている。
また、「悪の凡庸さ」で有名な、ハンナ・アーレント(政治哲学者・思想家)によれば、「『孤独(solitude)』とは自分自身と対話し、物事を考えることができる状態で、『寂しさ(lonliness)』は独りでいられず、一緒にいてくれる誰かを探してしまう状態」と述べている。
*アーレントを描いた映画も興味深い

個人的には、孤独とは状態で、寂しいとは感情なので、イコールとはならず、アーレントの言うところに非常に明快さを覚えるが、ショーペンハウアーの、孤独の先に寂しさが生じ(た場合)、アーレントより更に踏み込んで、寂しさを埋めるために他人といることの無意味さへの言及も、またよくわかる。

でも。
人や物事の存在がなくなり空間や時間が虚しく感じられる状態を「寂しい」と表現し、人間関係における孤独感や人々との繋がりが希薄であることを「淋しい」と表現する。
ということらしい。

「寂しい」は、近親者やペットの死など、亡くなった直後、他者が側にいてくれることが大いな救いとなるのはわかるし、その後は、時間の経過が薬となる。
問題は、お互いが「淋しさ」を埋め合う、所謂、傷の舐め合いの状態で、言い換えれば、共依存だろう。

ということは、ショーペンハウアーもアーレントも、「寂しい」との表記ではあるものの、意味合いとしては、「淋しい」を指していると思われる。

生きてる以上、寂しさからは逃れられないし、他者でも埋められないが、多人数でいても淋しさを感じることもある以上、その解消は、外に対してでなく、内へ、要は、自分自身との繋がりによってもたらされるのではないんだろうか。

淋しさの伴わない孤独の中での内観は、更に有用。

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