ただ、踠きながら光を見つける
ここ数日、香港にまつわる記事をあげた。なぜか私の身の回りで縁があるというか、見るものが関係しているものが多くて、きっと何かに呼ばれているのかもしれない、と思ったりもしている。『恋する惑星』の他にも、つい最近『星くずの片隅で』という映画を見た。これは実を言うと少し、引きずっってしまったのです。
撮影された時期としては、まさに世の中はコロナの真っ最中。時間が経てば経つほど、過去の記憶は朧げになっていく。当時はあれほど皆が殺伐としていて、疑心暗鬼になっていて、マスクが品薄になっていた時期。飲食店も次々とシャッターを閉め、場所によってはゴーストタウン化していたところも少なくない。そして日本と同じように、香港においてもそうした憂き目に遭っていた。
経営者ザクは、「ピーターパンクリーニング」という清掃業を営んでいる。そこにやってきたのが、派手な服装をしたキャンディだった。彼女は元々カフェでアルバイトをしていたのだが、コロナ禍の影響で店は潰れ、彼女も仕事を失う。シングルマザーでもあるキャンディは、娘であるジューを養うために慣れない清掃業にも必死にこなそうとする。
だが、彼女の元来の手癖のためか、一度顧客の信用を失いかけるも、ザクは彼女に対してもう一度立ち直るチャンスを与える。その後、キャンディは娘がそばで見守られることによって、少しずつ清掃業に対してきちんと向き合い、仕事をこなしていくようになる。
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彼女の成長物語か、と言われるとそれだけでは決して終わらない。コロナによって、一時期マスクやトイレットペーパーなどがドラッグストアなどから姿を消してしまったことを思い出す。私たちはあの頃、何かに怯えながら生活をしていた。目に見えず、もしかしたら明日は我が身かもしれないという恐怖。マスクが足りなくなれば、洗って使うということもしていた。
キャンディの生活は見るからに裕福とは言えないし、おそらく家庭環境も決して良くない。だからこそ、彼女は生きるために、そして娘を守るために、時には平気で盗みを働く。そうした倫理観の欠如というものは、真に生きたい、生きなければならないという意思のもとにはきちんと機能しないのだ。
少しずつ、少しずつザクの信用を得た彼女、あともう少しでみんなが幸せな結末になるかもしれなかったのに。ところが、これが物語の良しとしない部分で、キャンディは苦渋の決断を迫られる事態に見舞われる。それは一時的に凌ぐことができたのだが、世の中を俯瞰して取り巻く世論という神の声によって、キャンディとザクは窮地に追い込まれることになる。
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私からしたら、ザクはなぜそこまでやるのか、というほど徹底した慈悲の塊だった。それはもしかして彼女が美しく、若かったということもあるのかもしれない。
この物語は、徹底的に私たちがしてしまいそうな行動をひたすら追求していく。そして同時に直面する、清掃業の現実。どこかの場所から依頼を受けて清掃をするというのは、単純に例えば誰かの部屋やレストランを綺麗にするだけには止まらない。
特に印象的に残ったのは、部屋で孤独死をした人(おそらく高齢者と思われる)の掃除をする場面だった。もちろんそれは掃除する側の辛さ、というのもひしひしと伝わってくるのだが、それと同時に人が生きることへの虚しさも感じてしまったのだ。
迫り来る現実、生きることに対する意味。それでも清掃業は、その場所を何事もなかったように綺麗にすることが時には仕事なわけだから、誰かがいたという事実をなかったかのようにしなければならない。葛藤に苛まれるキャンディの想いが、こちらに伝わってくるかのようだった。
ザクがキャンディを一度は突き放しつつも、それでも最後自分が追い詰められても彼女を許そうとした、もっと言うなら慈悲をかけたということは自分自身が何か繋がりを無くしたくなかったんじゃないのだろうか。誰かに手を差し伸べたことによって、自分の存在が消えてしまわないように、確かにつながっていたという事実を残したかったのかもしれない。
と、ここまで書いたところで少し前に「#愛について語ること」というシリーズにおいて、香港を題材にしたことを思い出した。その時読んでいた『香港少年燃ゆ』という本がいまだに、頭の中に残っている。彼らは自分たちの生まれ育った場所を守るように努めながら、一方で誰かに敵意をむけ、同時に誰かと繋がりたくて必死にもがいていたように思う。
余談だが、ヒロイン役の俳優さんがどうもどこかでみたことあるような気がしていたら、Vaundyの『Tokineki』に出ている人だった。とても雰囲気があって、頭に残ってきたことを覚えている。