#92 愛国心について
今日も相変わらず暑い日が続き、せっせせっせと目をかけてきたトマトの苗はコナジラミの猛攻を受けている。毎日ベランダに出ては、必死に葉の裏を見て、彼らが産み落とした何百という卵を潰して回っている。やはり生き物というのは一筋縄ではいかんなぁとぼやく日々である。
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さて、今回は少し趣向を変えて、私たちが今住んでいる日本に対する愛国心について話をしていきたいと思う。
実のところ、私自身はこの日本という国に対してそれほど強い愛があるかというと、正直わからない。昔、それこそ大学生の時には日本人として生きていることに対してさえもそれほどなんの感情も持たなかった。みんなが就職活動をしてあくせく働こうという時に、親にわがままを言って一年だけカナダへ留学した。
その時、日本とは異なる文化を目の当たりにした。それは、衝撃と言ってもよかった。それまでずっと英語を習ってきて、他国の文化についてもほどほどに勉強してきたつもりだったのだけれど、改めて違う国に住んでみて見えてくるものが山ほどあった。お店の雰囲気や人の醸し出す空気、気候、考え方、価値観。日本と比べてリベラルに見える海外の姿は、私にとってそれはそれは魅力的に思えた。
学生時代に生活していた時に感じたある一定の閉塞感。自然と周りの目を窺いながら、なるべく彼らと歩調を合わせるべく「空気を読む」。それ自体が私は心底嫌気がさしていて、それに抗うかのように「読まないこと」を選択して顰蹙を買ったこともあった。それが海外だと、なんでそんなこと気にしちゃってるの? と言われるくらい開放感に満ち溢れていた。
何よりも、海外の人たちは宗教や信仰すべきものを持っていて、それがまた私の心をくすぐったのかもしれない。信じるものがあるって、なんて幸せなことなんだろう。日本にいた時、私にとって信じるべきもの、寄り添うべきものは家族や友人やその時の恋人だったりしたのだが、それとはまた違う次元で、彼らには何か芯のようなものが根底にあった。
留学の時、とても日々は充実していて毎日新しくできた友人たちと過ごす刺激的な日々に酔いしれていた。その中で出会った人たちに、必ずと言ってもいいほど言われたのは、「日本っていい国よね」ということだった。ことさら東日本大震災が起こった時にあまり犯罪が起こらなかったとその当時頻繁に海外ニュースで報道されていたことも関係していたのだろう。でも、その時の私にはピンときていなかった。
それでも、しばらく長いこと海外に住んでいると、なぜか無性に日本食が食べたくなる。生の刺身だとか、和食ベースの味付けが恋しくなってくる。だから、3ヶ月に一回は留学先に数えるほどしかなかった日本食のお店にいったことを思い出す。その時に、やっぱり普段食べ慣れているものというのが故郷の味なんだろうなと思った。刺激を求める一方で、人はどこかひとかけらでもいいから平穏を求めているのだ。
それと並行してもう一つ驚いたのが、至る所で日本製の家電製品を目にすることが多かったということだった。海外の人たちは、みな日本製の家電製品に対して強い憧れを抱いているようだった。その後、中国や韓国にそのお株を奪われることになってしまうこととは露知らず、それでも私はそうした事実に初めて日本人として誇らしい気分になった。
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それから日本へ帰ってきて、感じた時の安堵感。久しぶりに空港で食べた牛丼がもう飛び上がるほど美味しかったのを覚えている。ここでも結局私は食によって自分の故郷のことを恋焦がれるなんて、と苦笑したのを覚えている。あとは、ウォッシュレットの快適さに気がついてしまったくらいだろうか。15年前、マドンナがわざわざ日本へ買いに来た理由も納得である。
カナダへ留学後、これまた親に借金をして2ヶ月くらいヨーロッパをぶらぶらと放浪したのだが、それもまた日本を見つめ直すきっかけとなった。当時せっかく旅をしているのだから記録に残そうと思って、さほど性能の良くない一眼レフカメラ片手にパシャパシャずーっとひたすら、ひたすら撮っていた。
ヨーロッパの街並みは確かにどこも美しいのだが、どこか宗教によって統一化された建築物やブロック塀を見るたびにどうしようもない既視感が湧いてきて、(もったいないと思いながらも)正直少し後半は疲弊していた。日本へ帰ってきて、その延長線上で普段から街で写真を撮るようになった。
すると、不思議なことに日本の街並みの美しさを再発見するようになる。大学と同時に私は上京することになるのだが、その頃ほぼサークルとバイト、学校の往復に終始していたので、真面目に東京やその界隈を観光する機会もなかった。それがカメラで写真を撮る、という目的ができたことによって何かといろんな場所へと足を運ぶ機会も増えていった。
やがて、四季の移ろいを肌で感じるようになった。桜もお花見というイベントの付属物ではなくなったし、夏の暑い中での景色、秋の紅葉、冬のうら寂しい雰囲気、どれも風情があって良い。風情がある──何ともいえない趣があるさま、名状しがたい味わいがある様子。
これは海外の他の国へ行っても、その感覚を味わうことのできる場所はなくて、そうした奥ゆかしさみたいなものを感じることができることに、喜びを感じた。そうした海外との比較によって日本の良さを知るにあたり、ようやく大学卒業する前くらいに日本人として生まれてよかったと感じるようになった。
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とはいえ、それだけで自分が本当に自分の祖国に対して愛国心を持っていると言えるのだろうか? これがなかなか難しい定義だと思っている。今自分のいちばんの引っ掛かりとなっているのは、「仮の話として日本の存在が揺るがされそうになった時──他の国から攻め込まれるだとか、厳しい立場に置かれるなど──に、自国を守りたいと思うのだろうか?」ということだった。
先日読んだ本の中に、『香港少年燃ゆ』という本があって、そこには必死に中国からの支配から逃れようとする民衆の姿と、そこに混じってデモに参加する少年の姿が描かれていた。
そもそもの発端は、2003年に巻き起こった「国家安全条例」の検討だった。もともと香港はイギリスから中国へ返還されその後「一国二制度」という少し違和感の残る形でそれぞれが国家として成立していた。今回の「国家安全条例」は、中国政府側が香港を自分たちの側へと取り込もうとする動きであり、それに難色を示した香港の人たちが反旗を翻した形だ。
2014年の雨傘革命に始まり、路上屋台の取り締まりに対して抵抗を行った2016年のフィッシュボール革命、それから2019年の「逃亡犯条例」に対するデモ。この歴史の変遷を見る限り、香港でも少なくない人たちが自らの香港人としてのアイデンティティを守るために立ち上がっている。
私はこの本を最後まで読み終わった時に、彼らが自分たちのことを「中国人」ではなく、「香港人」として誇りを持って当時の制度の改正に立ち向かっていたことに感動すら覚えたのだ。香港の自由と民主を守るために、彼らは自ら武器を持ち、そして徹底的に政府に抗う。その中には、デモに参加した人たちのある意味リミッターを外したような大声がこだまする。
それが時には、大きなうねりを生み出し、やがて暴徒化していく。そこには本来あった大義名分は影を潜め、ただひたすら自分の身のうちを嘆きながら、現状のままならない人生を、憂い、それは時に行きすぎて秩序も何もなくなる。人の闇の部分も垣間見えた。
身を削る。彼らは、香港に生まれ香港に育った。そこには中国人というアイデンティティーは介在しない。一方で、なんらかの事情を抱えて中国から香港へ渡ってきた人たちもいる。後者の人たちは、共産主義の世界にどっぷりと浸かっている。何が、正しいのだろうか。
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日本人というアイデンティティー。私は海外へ行ったことによって他国と比べた時の「日本の良さ」を知ることができたけれど、それでも「日本を守る」という意識が希薄だった。冒頭にも触れたが、私は日本に対して愛国心を持っているかというと、疑問符が湧く。それはもしかすると、戦後他国の介入により、そうした民族意識が徐々に削がれていった結果でもあると思うし、あとは日本の昔からある村社会みたいなものが崩壊した結果なのかもしれない。それなのに、同調意識だけが歪な形で残されている。
そもそも命懸けで守ることは、愛──? よく昔のドラマなんかで、結婚する際に男の人が「娘さんを僕にください。僕が彼女を幸せにします。守ります」なんて言ったりするけれど、守るという言葉に違和感があった。
ずっと、しこりが胸の奥に蹲っている。たぶん、一方的に守るだけじゃダメなんだろうな。双方がお互いを守るということが正しい。何かニュースをつけても悲観的なニュースが流れていて、やれ消費税増税だ、医療福祉が崩壊している、国会議員は税金を無駄遣いしている、ときたものだ。ああ、そうなのかもな。この日本にいることによって、きちんと税金を払った対価みたいなものがわかりやすく見えればいいのかもしれないな。若者の政治離れが叫ばれて等しいけれど、もっと根本を見つめ直さなければならないのかもしれない。
日本人というアイデンティティー。私たちがこの日本で暮らすことの意味について。他の国じゃダメなんだ、この国で暮らすことの覚悟を決める。悲観するだけなら、誰だってできる。日本の中で暮らしやすい社会を作っていくためには、他人任せではなくて、自分が今何ができるのかきちんと考えなくては。少しずつでもいい、私はこの日本を愛するために何ができるのか、少しずつでいいから考えていこう。
取り止めのない感じになってしまったですが、ぜひこの記事をご覧になられた方、何か良き案があれば教えてください。
故にわたしは真摯に愛を語る
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