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のびきったカップラーメンと共に、劇的な人生を過ごす

死にたくなるような夜は、何も告げずふっと訪れる。
突然空から降ってきた雨みたいに、予兆もなく、とくとく、とくとくと。気づいた時には、もうずぶ濡れになっていて、でもただひたすらにその流れに身を任せるしかないみたいなのです。


引っ越しの前日、部屋はすっかり空っぽになっていた。
わずか半年しか過ごさなかったアパートには、物がほとんどなかった。壁にかかっていた写真の跡、窓際にたまる埃、白い壁にうっすらとつくカビが、誰もいなかった時間を物語っているようだったと思う(半年住み、半年家にいませんでした)。

目を閉じれば、あの日々が鮮明に浮かび上がってくる。部屋の片隅で読んだ本のページをめくる音、窓からやってくる除草剤の匂い、飲みすぎた日の私を嘲笑うかのように、家の前でギラつく街灯。そんな小さなことが、まるで今もそのまま、部屋の隅々に残っているようだった。

この場所を離れるのに、全てを捨てる覚悟だったけれど、今日見えた景色は大好きなシーンばかりだ。名前なんだっけなぁと忘れてしまった人もいて、少し悲しい気持ちもあるし、そんな自分にも戸惑ってしまう。もう用なんてこれっぽっちもないのに。嫌な記憶はまるで存在しなかったように、もっとここにいられたらとさえ感じてしまう。
つくづく矛盾だらけなんだ、人間というものは。知らず知らずに、全てを感じている。本能的に、体は答えを知っている。

気づけばさまざまなことを思い出し、泣きじゃくっていた。子供のようにいつまでも泣いた。見えている景色が、涙で歪んでいる。
はあ、泣きすぎた日の夜は、脳みそがうんとうんと重いのだ。心が空っぽなのに、身体はまだここにあるんだなぁと思う。

ぐぅぅ〜っと、お腹も情けない音を出している。そういえば、朝からほとんど何も食べていないので、カップラーメンをとり出しお湯を沸かす。頼りなく、ふにゃふにゃに伸びきったカップラーメンを見つめ、胸を締め付けられながらも口に入れた。あの無力で儚げな麺が、まるで自分の心を映しているかのようだと思う。じんわりと胃のなかを温かくする。体のどこかで命が続いているのだと、わかるなあ。

消えてしまいたいような夜にこそ、わたしたちは食べなければいけないのだ。
何もかも嫌になった夜も。
明日が来るのが怖くて眠れない夜も。
食べることで無意識に心と体が動く感覚を、忘れてはいけないのだ。


必要なものは、実はそんなに多くないのかもしれない。引っ越し荷物を整理しながら、ふと思った。全てを置いても、この感覚が残ることに、少しだけ安堵する。そこにいた証は、今も胸の中にしっかりと刻まれている。どんなに物を残そうとも、どんな言葉で語ろうとも、結局は体に全て、刻まれるのだから。




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