町に本屋さんがあり、みんなが本を読むのは当たり前のことなのか?―読書月記53
(敬称略)
ここしばらく、書店(以下、町の本屋さん)の減少に関するニュースをよく見かける。確かに町の本屋さんは減少している。原因として、ネット書店や電子書籍の普及をあげている場合が多い。たしかに、それらも要因であるが、本質的な問題は、日本人が書籍や雑誌を買わなくなったことだ。1996年には書籍と雑誌で約2兆6000億円あった売り上げが、2023年には約1兆6000億円。しかも5000億円は電子書籍なので、紙の書籍と雑誌は1兆1000億円程度。30年近くで売り上げが5割以上ダウンしているのだから、もしネット書店がなかったとしても、町の本屋さんはやっていけなかっただろう。町の本屋さん存続のために、公的な援助などを含め様々な案が浮上しているけど、この大幅な売り上げダウンをどうにかしない限り、もはや歯止めは効かない。ただ、大幅な売り上げダウンというが、国民一人当たりで考えると、さほどでもない。国民全員が月に1000円、年間で1万2000円ほど、2023年以上に紙の書籍と雑誌を買えば、1兆5000億円の売り上げ増で、今の紙の書籍と雑誌の売り上げと併せれば、2兆6000億円ぐらい。ネット書店が今のままでも、かなりの町の本屋さんが生き残れるはずだ。
逆に言えば、日本人は、1996年に比べ、出版物に使っていたお金を年間で1万円ほど減らしたということだ(ここでは電子書籍も計算に入れている)。誰もが想像がつくことだが、この1万円は、所得が伸びなかったことに加え、通信費が増えたことも大きな要因だ。1990年代前半までは家に電話が1台、一人暮らしでも同じ。長電話すれば電話代がかかったが、1万円も払うことはほとんどなかったはずだ。まあ、今はスマホ本体はともかく、通信料は以前に比べ安くなったけど、それでも2台持っている人もいれば、家族の場合、それぞれが持っていればそれなりの金額になる。また、お金もさることながら、スマホ利用時間が長く、読書の時間を奪っている可能性が高い(テレビも同じように影響を受けているだろうけど)。読書時間が減れば、雑誌や書籍を購入する必然性は低くなる。
ここで、違った角度から疑問を出してみよう。
町に本屋さんがないことがそれほどダメなことなのか?
本を読まないことがそれほどダメなことなのか?
ちゃぶ台返しのつもりではない。
一度、根っこから考えた方がいいと思ったからだ。
出版史、読者論などの本を読めば、現在の先進国ですら、読書したいと思う人が誰でも、近所にある本屋さんに行き、読書できるようになったのは、第二次世界大戦後のことだと分かる。日本の場合、人口の割に国土が狭いので近隣に書店があるのが当たり前のように思えるが、アメリカのような国土の広い国では、地方に行けば本屋さんがないことはそれほど不思議には思えないのだが、どうだろうか(例えば、歯科医にかかれるのは、巡回診療という形で年に1度しかないという地域がアメリカにあるということを本で読んだことがある)。
戦後になって子どもたちが本を読むこと、その本が何であれ本をよむことを、親は歓迎した。本を読むことは、知的作業であり、知識に結びつく。世間で地位の高い人は本を読んでいるのだから、自分の子どもが本を読んで、上の学校に進学していくこと、社会的地位を登っていくことを親が望まないはずはない。しかし、これほど多くの人が高等教育を受け、本を読むのが当たり前という状況は、人類史レベルで言えば、ごく最近の話でしかないのだ。ほとんどの時代、人類のほとんどは本を読んでこなかった。もし本を読む人が多かったように感じるのは、本には本を読んで知識を得た人やそういった話が多く書かれているからでしかない。
そして、本屋さんも近くになかった。これが「普通」なのだ。
今の20歳以下の若者たちに、携帯電話以前の話をしても通じないように、100年前の日本で生きていた人たちに、町から本屋さんが消えているとか、若者は月に1冊以下の本しか読まない(数年前、月に1冊も本を読まない大学生がほぼ半分という報道があった)と言っても何が問題なのか分かってもらえないだろう。
だからといって、本屋がなくていい、と言っているのではない。本なんか読まなくていい、と言っているのではない。ただ、本屋がある、本を読む、が当たり前であると考えること自体を問い直した方がいい気がする。