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本紹介#8 音楽の霊性 ニューエイジ・ミュージックの彼方へ ピーターバスティアン著 追記
音楽の霊性 ニューエイジ・ミュージックの彼方へ ピーターバスティアン著について、前回紹介したのだが。
とても素晴らしい本がゆえにもっと何か伝えられることがあるのではないかと思っていた。どう頑張ったところで読んでもらうしかないのだが、自分が納得していないのだ。
なので、追記という形でこの本を読んで私が考えたこと、参考にしたことを書きたいと思う。もちろんこの著書の全てを書き記せる訳ではないが、少なくともこの本の大きな題材の一つであると思う"意識の現象としての音楽"についてだ。
今回は音楽ではなく、"表現"と捉えて。その表現はいかにして学び、習得できるのか。どのように自分のものにできるか、人に伝えることができるか。の私なりの考察を。
まず、意識の現象としての表現とはということだが。すごくざっくりとした言い方になるが、身体を動かしたり何かを奏でたりは表現ではなく表現の手段であり、すべては心の現れたであるということ。具体的な例で言えば、ダンスの動きは全て心の具現化であるということ。例えばこのステップが、とか、このテンポが、とか、あるのだけれど、それは心を表した結果や表す手段なのだ。
これはすごく単純だが見落としてしまいやすい。
ということは、より表現を豊かにするためにフィジカルや技術を磨くことはできるが、その根源ともいう心はどうやって捉えられるだろうか、どのようにその心の現れを書き記したり人に伝えることができるのだろうか。と思うのである。
それは私が現状で考えるには不可能であると思った。ただ不可能ではあるが、少しでも伝える方法として、楽譜や料理でいえばレシピがあると思うのだ。
例えば、料理のレシピがあったとしてそのレシピに伝えられることには限界があると言いたいのだ。分量や温度など、書き記せるが、料理というものにおける膨大な表現のうちのほんの一部の説明に過ぎなく、もはやその説明の外側が料理の醍醐味だと思うのだ。
違う表現で例をあげれば。
音楽とは何か?という問いに対して、音楽を実際に演奏した人が、それが何か答えられるのか。という事でもある。
すなわち経験するしかない。
もしくは説明できるような言語がない。
のではないだろうか。
表現というのは、そのようなある種のごった煮のようなものの中から各々の見出せる何か。であり、それは心が出発点となり現れるので伝えることが困難である。ということ。
だと思うのである。
だから100メートル走を練習するように音楽を学び事はできないのではないだろうか。
楽しむとか、誰かと一緒に表現を共有したりとか、誰かの表現に触れてみたり、時には一人でぁあでもないこうでもないと嘆いたりしながら試行錯誤してみたり、そういう体験からしか学ぶしかないのだろうか。
人類はみな、少なからずこの自分にしかできない表現というものを志すことでより豊かな生き方や時間を過ごすことができると私は思っている。