八月十五日の小田実
戦後六十二年とはいえ、日本の暑い夏は、「あの戦争」の記憶とどこかでつながっているような気がする。敗戦記念日をむかえることなく、作家小田実は亡くなった。
高校生のころ、小田実の旅行記「何でもみてやろう」に感銘を受けた。そしてのちに貧乏旅行者としてアジアの国々を旅することになるのも、あの本からの影響なしには考えられない。浪人時代には、高田馬場の予備校に通いながら、夏期講習で代々木ゼミナールまで出張し、小田さんの英語の講義を受講した。
「なぜ、君たちは英語を勉強するのか?」
あの独特の話し方で生徒にたずねていた。返答によどんでいると、
「対話をするために勉強するのだ。」
この講師の答えは、いたって明快だった。ぼくの英語力も旅をすることで培ったといっても過言ではない。
ジャカルタで、カルカッタで、バンコクで、台北で、いろんな国から来たひとたちと話し合う、つまり対話することがなにより英語の勉強になった。文法はめちゃくちゃかもしれない、単語もそんなにたくさんは知らない。でも「話したい」という気持ちだけで、英語を使っていたように思う。
受験はともかく、ぼくにとっては小田式の英語が一番、自分の身体になじんだようだ。
大学のときには、小田実が主宰する「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」のデモにも参加した。ベトナム戦争はとうに終わっていたのに。
ただ樺美智子さんのお母さんが、美智子さんの遺影を高々とかかげたのがはっきり記憶に残っている。あれもまた暑い日の出来事だったように思う。
数キロにおよぶデモ行進を警備してくれる警察官のひとが、その道々、ずっと話しかけていた。
「なんでこんなことするの?なんにもならないのに。」
「デモなんかして、お母さんが悲しむよ。」
やさしい挑発にのった何人かは暴力にはしり、公務執行妨害かなんかで逮捕されていた。
愚かなまでに、どこか真っ直ぐだった夏の日。六十二回目の敗戦記念日に小田実の不在を思う。