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本来性がない疎外

1,

「本来性がない疎外」。「外側へはみ出た対象が向かう本来性は無いほうが好ましい」ということ。はみ出した対象は内側へ戻るために「本来性」を再度獲得しようと試みるに至る。しかしながら、その必要性はないのではなかろうか?ということを指し示す。なぜ必要がないといえるのだろうか?1つの回答としては、その「本来性」は「~べき」という表現であらわされる規定を当人へ強制的に要請するからだろう。例えば「君は馬鹿だから頭良くなれ」という発言がある。馬鹿は枠の外側にあるのだから、君が少しでも内側に戻るためには勉強して賢くならなきゃいけない、ということを言いたいのだ。そもそも、言われた者が頭を良くしたいという欲求自体が無かったとしたらどうなるか(それに関わる善悪はここでは語らない)。それは言われた側の「本来性」に関わる部分である。「バカは勉強しろ」と語る者は、勉強してものを考えられるようにならなきゃいけない=本来の人間のあるべき姿、であるという「本来性」に基づいてこの発言をしているのであると考えられる。つまり、この発言は「本来性」に重心が置かれているということはすぐにわかる。ならば、2者に関わる「本来性」自体の議論になるべきなのである。そもそも、発言の発信者と受信者の「本来性」が噛み合っていないのである。それを踏まえて発言を手直ししたらこうなるだろうか。「君は世間的に見たら馬鹿かもしれないが、君はそれでいいと考えるか?君は君自身をどう思い描いているのか俺に教えてくれ。」しかし、この発言にはまだ問題がある。つまり、「疎外」である。くそったれで馬鹿な君は人間として「疎外」された存在だ。それを本来の姿と捉えるか?本来の姿ではないと捉えるか?どっちだ?という具合に真意を表現できる。そして、発言当人はこのような回答を期待する、「それは本来の姿じゃない」と。
本来性や疎外は、人を規定なるものに帰着させる作用(矯正=強制)がある。本来性は上記のように人に問われることが多く、疎外は自らがそれに気づき(若しくは遠回しに諭されることで)、当人を元の枠内に戻させるような効能がある。

2,

そもそも人間には数えきれないくらいの性質が当人に含侵されている。その内容は、当人にも理解できないくらい膨大なものなのだ。なぜそういえるのか、それを確認する問いはこうだろう。「あなた(私)は何ですか?簡潔に述べて下さい」。自分自身を正確に描き切れる人間は存在しない。その証明は、その問いの証明不可能性によってなされている。みんな自分のことなんか何にもわかっていないし、わかっていなくて当然なのである。何にもわかっていない人間という存在が、どのようにして「本来性」を説くことができるというのか。この問題を目の前にひれふして諦めることを推奨しているわけではない。そもそもそういった行為は当人の自らの「疎外」を進めるだけだ。

3,

だれも正確に分かっていない問いかけが存在していることは避けがたい事実である。そうして人は「本来性」を求めてしまうものなのだ。こうあるべき、こうでなくてはならない、こうでないと意味がない。色々な対象についてそのように考えてしまうのだ。この「本来性」に依拠した思考体系は、わからないことを考える際には不適切に思える。分からないことを「本来性」に犯されている自分の脳みそで考えること自体、そもそもナンセンスである。次のような一つの反論がある。「本来性に犯された脳で語ることを避けるべきならば、そもそも本来性や疎外自体をここで安易に独断的に語るべきではない」という人もいるかもしれない。その「安易に語るべきではない」という問題提起自体が不適当であることに気付かないといけない。「語るべきではない」という自身の本来性に則って命令することなど、自己矛盾にもほどがある。

4,

人がなにかを考える時は、頭のなかが空虚のままであってはならない。空虚の頭のままでは何にも考えることはできないからだ。過去の思索経験が良質な読者体験を生み出しうるのと同じように、過去の事実と今の思索が呼応し化学反応することによって考える行為が可能になる。つまり、ある程度の「疎外」は必要なのだ。過去の経験の印象は、ある種の「疎外」を生んでいる。けれども、そこに「本来性」はあってはならない。過去の経験の印象に「本来性」は賦与しない方がいい。

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