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死の輪郭をなぞる 黒川創『ウィーン近郊』(新潮社)


 ひとは死ぬ。時にあっけなく。どれだけ遠回りの前置きや周到な準備がなされても、死の瞬間は突然おとずれる。私たちは死について語るとき、婉曲的な言い回しをするしかない。それは死について何も知らないからだ。死そのものを知り得た時には、既に語るべき口をもたないからだ。真の意味で死を理解できる生者は誰もいない。それゆえに、忌避されながらも惹きつけてやまない引力を有している。
 文学という領域においても、死とは重要な主題のひとつである。死とは何か、与えられるものなのか奪われるものなのか。それでは、自ら死を選ぶ行為とは何を指すのか。Johann Wolfgang von Goethe“Die Leiden des jungen Werthers”や夏目漱石『こころ』を例挙するまでもなく、自死は文学的主題のひとつでもある。

 黒川創の『ウィーン近郊』も死、とりわけ自死をめぐる小説だ。自死の文学史を繙くならば、その延長線上に置いてよいだろう。
 ひとりの男が、オーストリアのウィーン市18区にある集合住宅の一室で自ら命を絶った。日本に帰国する予定の日に、彼は空港まで向かっていたにもかかわらず折り返し、一連の不可解な行動をとったのちに自殺した。前日の夜には、京都に住む妹とも通話していた。男の素振りに、まったく不審な様子がなかったわけではない。現に妹との通話では、不眠を訴えていた。翌日、彼は自殺した。

 自殺した男の妹は、生まれて間もない子どもを連れて葬儀のためウィーンへ赴く。本作は彼女の視点と、自殺に伴って法務上の手続きを執り行う日本国大使館の領事の視点、そこにふたりのメールや手紙が差し挟まれるようにして構成されている。現実として(そして小説として)形式的手続きに則った死、あるいは死をめぐる形式的手続きを書いた作品。そのような印象を抱いた。
 死の形式性を書いた小説という読み方からすこし離れて、ひとりの男の自死を物語の中心に俯瞰してみる。そのうちに、彼の死に事務的にしか関わらない、いわば彼の人生に無関係だった領事が視点人物のひとりに配されていることは『ウィーン近郊』という小説を読み解くにあたって重要な意味をもっているであろうことに気付く。
 興味深いことに、本作がふたつの視点を採って構成されていることと、舞台がオーストリアのウィーンであること、ひいては『ウィーン近郊』という題名であることは、この小説にとって不可分な要素になっている。

 ウィーンは、「リング」と呼ばれる環状道路の内側、旧市街地の1区を中心に、同心円的に広がりながら形成されてきた都市である。1区の周囲を、2区から9区までの行政区が取り巻き、その外側を「ギュルテル」と呼ばれるひと回り大きな環状道路がめぐっている。さらに、この周縁部を、いまでは10区から23区までが取り囲み、「市街区」とも総称されている。
 こうした、ギュルテルより外の地区は、一九世紀末までウィーンの市域には含まれず、ただ「近郊」と呼ばれていた。
(略)
 ウィーン近郊、そこに、いまも百数十万の人びとが、ごま粒のように散らばり、眠り、暮らして、生きている。
黒川創『ウィーン近郊』


 この小説が『ウィーン近郊』と題されている理由は、上記のように文中で明かされる。日本という生まれ育った「内」を出て、異邦人として「外」となるウィーンで暮らしていた男。ウィーンという市(まち)の「内」にいながら、近郊という「外」にいること。自死を選んだ男の人生の「内」にいる妹と「外」にいる領事。本作は複数の「内と外」が対置されている。「内と外」を認識しうる者は、かならずその一方から他方へ移る、どちらでもない瞬間を経験する。陳腐な言い回しになってしまうが、それを孤独と呼んでいいかもしれない。
『ウィーン近郊』の随所に対置された「内と外」から、ウィーンを区切る「リング」と呼ばれる環状道路に到る連想も、突飛な読み方ではないだろう。「リング」はウィーンという市に「内と外」を生み、いわば輪郭を形成している。それでは本作のなかで「内と外」は何の輪郭をかたちづくろうとしているのだろうか。誠実をともなって粛々となぞられるそれが、私には死という事象そのものを捉えようとしているとしか思えない。

 これが小説でなくとも、私たちの多くは自死を選んだ者に対して「なぜ?」と問いかけてしまう。どれだけ苦しい境遇にあろうと、もしそれを知っていたとしてもなお問いかけてしまう。自ら選択された死の奥底に、私たちの知り得ない深遠なる謎がよこたわっているような想像をする。それは死というものに過剰に意味をもたせすぎてはいないだろうか。一個の死を意味という呪いから解き放ち、輪郭をなぞるようにしてかたちを与えること。それもまたひとつの鎮魂だと思う。

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