TAKI(ダーさん。)
【舞台を知らなくても読みやすくをモットーに】コロナ禍での演劇活動のドキュメンタリーエッセイ。「芝居の面白さを舞台と違う創作と稽古場の角度から語って観よう」という企画。 そして僕の田河は記者の役だ。 僕はその言葉を一言も漏らさず、聞き、調べ体感し、その面白さを読者に伝えなければならない(このエッセイもそんな役者の語り草だ) 役者の僕と「シバイハ戦ウ」の記者の田河役の人生とも重なる演劇実験としての覚え書きでもあります。 難しいこと抜きにして劇場に足を運びたくなる!そんなエッセイを目指したいなぁ。 日記を綴っていて、驚いたのは、自分と芝居についての思いが吹き出たことだ。 それも忘れていた記憶でした、 「なんで芝居を始めたんだっけ」 「何に感動していたんだっけ」 「仲間をどう思っていたんだっけ」etc 僕の人生を書き記せば深く豊かに 記者の田河の人物が反応するだろう。
舞台で僕はいつも人(役)の言葉(台詞)を喋っているけど、勇気を出して自分の言葉で語ってみよう。言葉で深呼吸しながら。そのエッセイや詩を集めました。日常つぶやく、ひとひらの葉っぱ、言葉。
ドラえもんに「石ころ帽子」というひみつ導具がある。それを被ると誰からも見えなくなり、そこに居るのに気にされなくなるのだ。 「どこにでもある石ころ」みたいに。 2021.3.12. 初日の幕が開く。 今や劇場には準備の活気と埋まった座席からお客さんの熱気や密度は 通信や電波で送られてきた冷静な映像でなく、それぞれが JR中野駅を降りて交番横の線路沿いを歩き、 一つの舞台に向かって、 たどり着いた この劇場にいるという、 その迫力があった。 しかも 解除間近だった緊急事
さき さくらん ちり、さく、らん このはな ヒラヒ ヒラヒラ ひとふぶき みだれて さくやも ちり、かわり クラン クランと コノハナ ヒラヒ ちるも あらしも コトシモ サイタヨ ちりじり ヒラヒラ ひとも、はなも ちり、さくらん さいて、さかれて さかれるも ちって かわらん さく 桜 降る、花びらを長眺(なが)めながら。 咲く、花を愛惜(いとお)しみながら。 今年、散っても、変わらぬ、サクラ。 また、待つ。サクラ。 こちらの記事は
この劇場で 池田ヒトシさんの芝居がみるみる変わっていくのを目の当たりにした。 いい演技は、瞳の奥に灯が宿る。 間近に、そんな顔の表情を見ながら自分が役者として稽古できることこそ、コロナでずいぶん久しぶりだ。活き活きとしたツヤのある芝居を僕より年配の俳優さんが、額に汗しながら僕自身に演技を当ててくれている。だから僕も誠意いっぱい返そうとする。 セリフだけではない。 なんだろう彼自身がこの劇場全体に染み込んでいる空気を吸い込んで、吐き出しているような。毛穴という毛穴にスポ
グァテマラの煎豆をミルで挽くと小気味よく破砕しさらさらとした中挽きの仕上がりになった。指先で、つまむ。 すでに、いい香り。 沸騰させて火を止め落ち着かせたヤカンから挽き粉の収まったドリップペーパーに湯を注ぐと ジュアーっと ふくらみながら吸い込んでいく 控え目な音を立てながらポツポツと染みて泡立つ湯気がほころびはじめた。 この待つ時間が、愉しみだ。 マグカップから 香りに、口をつけてみる。 キリッと苦味の引き際がいい。 酸味がしっかりとベースになってキメ細かい
2月も末日、自宅にPCR検査キッドが届いた。 「演劇は、罪なのか」 小型の段ボール箱のソレは厳重に仰々しく包まれていたが、開けると小学生の時に見た学研の知育玩具キッドみたいに拍子抜けした検査回収具が、一式揃って入っていた。 不謹慎にも 「免罪符」という言葉が浮かんだ。 ルネサンスも末期の頃、神からの罪を許される護魔符みたいなものを教会が売ったらバズって大儲けしちゃってルターの宗教改革のキッカケになったアレだ。 回収するは テレビCMでも見た名前の会社だ。 検査結果
髪を切る約束まで は時間がある 遠回りして、歩こう あいにくの天候も 小さな折り畳み傘を持って 春のはじめの路地を行く 路面は濡れて 湿った匂いの風が吹き 宝ものを探すみたいに 住宅街の小径に入る コンビニのエスプレッソマシンで 淹れた珈琲を紙コップに落とした 花でも見ながら ちょいと一杯だ 庭に桜の家は 意外と少なく 珈琲を片手に 折りたたみの傘 花のない路地を 雨粒のリズムで歩く マンションの駐車場に 花びらを散らした自動車を みつけた ろめん ほの
リンゴは、リンゴ 立てに ひらいて 歯でカジル ミツの虹 向かう 澄川の ミツノ ニジ ムカウ スカワノ (蜜の滲むか うす皮の) 赤い玉やも 噛みのあと 乳白色に 満天か 千の液胞 驚きあまた 手をたたく 白雪 したる 甘い汁 カジリ カジル くろい種 もろい空洞 蜜の指さき カジリ カジル マルカジル 芯も崩れて わずかな ことよ ジルジリ ジレ アダムの食べた リンゴの木は、まだ 楽園に (ひそかに、香る) あるのかや リンゴは、リンゴ
劇場の最上階にある 屋根裏の稽古場に来た。 窓を開けると 桜の枝々に公園を見下ろす 中野から遠くかすむ街が並び 家々の屋根が西日に眩しい 花は、まだ咲かぬ (この裏は公園だったのか、知らなかった) 【前回の話し】 二月下旬の小春日和。 稽古場を目白の風姿花伝という地下スタジオから 僕たちは公演を行う中野に拠点を移した。 夕方メインだった稽古が、昼から開始になった。 もう緊急事態宣言で苦労していた稽古場ジプシーも終わりだ。 【その時は、こんなだった】 ついに僕た
こぼれそうな ふくらみが 熟れた紅いろ 秘めたる、ぼんぼり つぼんで、高揚 枝のさき しなをつくり くねり、うねる もだえる 息を、ころして 赤らめ うつむき とじている まてない ひだまり まてない たかまり 桜えろす こちらの記事はどうですか?
はる、もくれん ツルリとした枝の先 真白の鳥たち 背伸ばし まあるく ふくらませ 梅はとなりで 紅を落として 小枝に若葉の 支度をしている 風が吹く 鳥たちは 飛び立つ前に 花ひらく やどり木の群れは 白い蕾(つぼみ) ずいぶん咲いた ひろげると ともされる 白い灯(ひ)の鳥 春の漁(いさ)り火 てんてんと ひとに聞いたら 木蓮という花だった あたたかい 風と光に ほむろたつ 白い灯の鳥 はる、もくれん こちらの記事はどうですか?
稽古中のマスクの着用について。 このご時世、例えば電車の中では必要不可欠なことを必要最小限に小さな声で言葉も少なに伝えること、なるべく喋らないことは社会人の嗜みとして身につけるべきものであるが、 芝居の台詞は如何(どう)だろう、そうはいかない。 マスクをしながら相手を怒鳴りつけ、嗚咽するような時に 大きく声を出して息を吸おうとすると不織布はすでに湿り気を帯びた水分が繊維の空気を遮断し吸おうとするマスクが口と鼻の周りに張り付く、満たされない未酸素状態のまま激しい感情ととも
羽根木の丘の階段で ちょうど メジロが白梅の蜜をつついてた 冷えた風は春を抱えているがまだ寒い。 公園の丘を巻き上げた砂ぼこりが走り抜ける。 風砂にまじって紅梅の花びらが、 飛び出す。 そぞり空を照らして 世田谷の梅祭りだ 枝にくくられた紙 「ここ富士山眺望所 → 」 風がやんだすきに眼を細めて振り返って富士をさがす。 そこから梅の枝々をすり抜け、昼下がりの建物と家々の先に、 西日のビルはすすけ向こうにかすみ 今年も 富士は見えなかった。 ま、いつ
共演している池田ヒトシさんは海外映画ドラマの吹き替えなどでも活躍されている。 池田ヒトシさんも演出の吉田テツタさんも家に帰れば、子供があり父親もしている。 どちらも結婚したり学生だったり大きくなっていて、去年の夏に初めて子供が産れた僕にとって二人は俳優としても父親としても先輩なのだ。 芝居を続けながら、生きる。 一般的に見たら俳優業なんて遊んで楽しく明るくやっているようでも同じ役者を生業(なりわい)としてきた僕には、その大変さが想像に難くない。生活して子供を育てて、芝居
駅までの歩き道 通勤の道のりは汗をかくので、 朝のみそ汁は塩分補給。 野菜は休日に散歩で手土産にした 地産の農家さんのモロヘイヤ。 最近は味噌に 鰹といわしの削りぶしに加え、 すりゴマをダシにするのが お気に入り。 モロヘイヤはザックリ切って、 沸き上がったみそ汁の火を 止めてから、たっぷり入れる。 ほっこりご飯の隣は緑のサラダを盛って、 音立てたフライパンの熱々に見開いた目玉焼きが静かな皿へと移されるころ 鍋の中は うす茶褐色のジャパニーズ スー
おそらく世界中、多くの人たちがキャパオーバーで過ごした、この一年。 僕に、何ができるだろう。 次週からの場所を探している2月の杉並区の稽古場も残り数日となった。3月までの非常事態宣言によって稽古場をジプシーしている僕らは今日、会議室を稽古に使っている。来週からの稽古場が未だ決まらずにいた。 「ごっこ遊び」 演技の根っこは遊び心だ。 芝居は台詞で創られる。 俳優は台本より言葉を編んで世界を創る。台詞(セリフ)は映画のフィルムのコマ割りのように並べられた人物たちの青写真だ
みそ汁なら若い味噌の 塩ッ辛さが好きだ。 鼻柱をクスリと刺す新鮮な味噌の香りが汁に浮かんだ木綿豆腐のむっつりとした淡白な歯ごたえと一緒に、 撫でるように駆け抜ける。 あったかい日本のスープ。 「ただいま」と、 「いってらっしゃい」のスープ。 一晩寝かせた 角(カド)の取れた味噌汁の やわらかい香りも好きだ。 染みこんだ味噌の風味が 豆腐本体にどっしりと ダシも存分に吸い込んで 箸でツイと割り ホクホクの白米と食べる。 これだけでオカズに なる。 これは木綿じゃ