全クリエイター必見!映画『まる』から考える、自分を救う創作との向き合い方
このタイトル、自分でも調子に乗っているなと思う。
何か人様に教えられる立場ではないことを、自分でも充分承知しているが、もしかすると自分の経験と思考が、悩めるクリエイター諸君の自己肯定感爆上げに貢献できるかもしれないと思い、おこがましくもこの記事を熱い想いで執筆した(もちろん、ネタバレ有りなので注意されたし!)。
今回取り上げる映画は、荻上直子監督最新作、堂本剛主演の『まる』である。
この映画、実は当初はまったく興味がなかったのだが、僕のYoutubeライブを毎度、覗いてくれる近鉄太郎さんのチャット欄でのオススメと、noteの熱い記事によって心を動かされ、鑑賞に至った次第である(本当にありがとうございます!)。
映画の話をする前に、僕の中での堂本剛について語らせてもらうと、僕の世代(はぁ? もう来年で39歳!? 全く意味が分かりませんね!)で、堂本剛といえば、断然『金田一少年の事件簿』である。
普段は柔らかな物腰で脱力感をまとったの金田一一が、いざ事件となると、その鋭い眼光で推理力を発揮し、事件を解決する。その演技力に魅了され、同時にドラマの生々しい演出と90年代流行していたJホラー的恐怖映像に、子供ながらに怖いもの見たさでのめり込んでいた。
(この演出をゴールデンで流していたというのも時代を感じる。これが演出家・堤幸彦の出世作となり、僕は10代後半は堤幸彦フリークとなるのだが……)。
余談だが、もちろん『金田一少年~』の後で、堂本光一が主演した番組『銀郎怪奇ファイル』も見続け、『若葉のころ』や『ぼくらの勇気 未満都市』では、KinKi Kidsの二人が主演し、歌番組でも見ない日はないというぐらい目にしたし(口ずさめる歌も、Kinkiが最も多い気がする)、学校では女子たちが、剛と光一どっち派論争が巻き起こっていたのを記憶している。まさにKinkiの時代だったように思う。
そのあと『堂本剛の正直しんどい』が深夜で始まり、関西人独特(完全なる偏見)のツッコミの鋭さと、アイドルらしからぬ頑張らないゆるさで、自分の中で堂本剛は、オモシロお兄さんとして勝手に親しみを抱いていた。
そんな世代的にど真ん中の堂本剛、27年ぶりの主演映画となれば、どうしても感慨深くなるのだが、僕のそういった想いを差し引いても、この『まる』という映画は素晴らしい。
この映画は、堂本剛という存在から溢れる、哀愁と倦怠が入り混じった抑え目で、ある意味でフラットな振る舞いと、その内側に密かに宿る情熱を堂本剛が見事の表現している。
これは彼だけが持つ「堂本剛力」ともいえる個性/存在感の成せる業なのかもしれない。とにかく凄い(だから、まだ観てない方は是非、鑑賞を!)。
そして、映画全体の語り口とメッセージも、静かで、優しく、笑えるのに、誰の事としても深刻な問題を描きながら、最後にはささやかな魂の救済を描く、とんでもなく良い映画なのだ。
どうしようもなく己の人生が、停滞したように思え、絶望に包まれても、明日は勝手にやって来るし、どう 踠いても時計の針は止まらない。そんな焦燥感を、スッと宥めてくれる。
現代を生きる全ての人に、できればありとあらゆる分野におけるクリエイターといわれる人々には、観てほしい作品。それが『まる』である。
また週一でのYoutubeの生配信(11/2の20時半から)では、この『まる』を取り上げて語るが、ざっくりと感想をいうと、鑑賞直後は何ともいえない感情に包まれながら映画館を後にした。
この映画の登場人物は、10年や15年前の自分が、それぞれのキャラクターに憑依しているようで、どの人物にも共感と納得をしながら、どの思いも胸に突き刺さるという異常事態に陥ってしまった。
なぜかというと、僕は10代から20代前半にかけて、絵を描いて飯を食うことに、それなりに真剣だった人間だからだ。
そうした自分の半生も含めた『まる』感想大特集は、ここでは書ききれないのでYoutubeで思い切りするとして、このnote記事はその前哨戦として『まる』のなかで描かれている二人のクリエイター、沢田(堂本剛)と横山(綾野剛)に、焦点を絞って語っていきたい。
(この『まる』に関しては、こちらのリンク先のYoutubeライブで語ります。ご興味があれば、是非とも覗きに来てください。アーカイブも残りますので、見逃してもOKです!)
【執着VS達観】二人のクリエイターが見失っているもの【無料】
今作に登場する2人の絵描き、沢田と横山。
沢田は、我欲のない達観と諦観が合わさったような感性の持ち主で、普段は大物アーティストのアシスタントとして絵を描き、収入を得ていたが、自転車の事故によりその仕事も首になる。
収入を失ったことがきっかけになり、苦し紛れに自分が描いた“まる”に。思いがけず100万円の値が付いたことで困惑し、ある種のスランプ状態へと陥る。
一方、沢田の隣に住む横山は、常に「成功しなければ価値がない」という強迫観念に苛まれている売れない漫画家である。
とはいえ、彼が何もせずただ悶々と日々を生きているわけではなく、ちゃんと漫画を描き(しかもそれなりの画力)、出版社へ持ち込み、堂々とダメ出しを喰らって落ちているのだ(タイトルの『あなたの犬歯にふれたくて』は、どうかと思うが読みたい)
この二人が象徴的に纏った価値観が、執着(横山)と達観(沢田)である。
現代が、ストレス社会と言われて久しいが、上司からの嫌味やパワハラ、同僚との人間関係、思うようにいかない日々のあれこれを、いともたやすくヒラリと軽々しくかわすには、達観(あるいは諦観)は役に立つ。
沢田は、常に一歩引いた視点で、自分の心は安全圏に置いておき、広い視野で物事を捉えているような人物だ。
彼は冒頭のシーンで同僚のアシスタント・矢島(吉岡里帆)に「沢田さんを見てると、なんか辛いです」と言われた挙句「沢田さんは、主役の裏方として利用されるだけの、名もなき絵描きのままで本当に良いのか?」と、問われるが、沢田は「法隆寺を作ったのは、本当は大工さんでしょ」と言い放つ。
この言葉は、紛れもなく本質のひとつである。
法隆寺建設を立案し、決定したのは聖徳太子だが、実際に建てたのはその時代に生きていた、名も無き大工に他ならない。
このときの沢田は「創造の本質は、ブレーンではなく、ワーカーだ」と主張している。
では、このときの沢田の心の中に本心や我欲は、どれだけ反映されているのだろうか。むしろ、その人間的にド直球で素直な感覚である「売れたい」「自分のアートで有名になりたい」という思いは、本当に皆無なのだろうか。
対して売れない漫画家・横山は、沢田にはないド直球の欲望にまみれ過ぎており、常に愚痴を暴言にして吐き続ける。
彼は漫画家として、売れることこそが社会に貢献する唯一の方法であり、売れない漫画家は、群れに中で仕事をサボる2割の働かないアリ同様「役に立たずだ」と主張する。そんな彼に沢田は「役に立たないと、ダメなんですかね?」と問う。
このとき沢田の問いは、矢島に説いた「法隆寺の大工」のロジックからは矛盾している。
もし本心から「法隆寺の大工」に理想を重ね、創作の本質を労働だと定義するならば(つまりそれは、己の技術を活かして社旗貢献をするのが正しいとするならば)「横山さんも、漫画家さんのアシスタントとかすれば、良いじゃないですか」と言うべきである。
横山は、自分が社会の中で(おそらく年齢的にも)孤立していく恐怖と、それでも自分の好きを貫きたいという、捨て去れない願望とで葛藤しながらも活路を見いだせず、地団太を踏んでいる。
そんな横山の姿に、おそらく沢田は、あり得たかもしれない自分の姿、決してなりたくない負け続けたクリエイターの成れの果てに見えたのではないだろうか。
もちろん、そんな達観した沢田の感性に横山はついていけず、拒絶反応を示す。しかし横山にとって、創作で戦うことを拒む沢田の姿勢こそが、陥りたくないクリエイターのもう一つの成れの果てなのである。
僕は “理解” という状態は、決して相互にポジティブな方向性で共感するだけではなく、嫌悪や拒絶という反応、感情には、多少なりとも「分かるからこそ、相いれない」状態があると考えている(電車でマナーの悪い人に出会うとかそういう、ぱっと見レベルの嫌悪感は問題外だが)。
つまりこの二人は、対照的な思考と価値観を抱いているが、互いが創作の道を志す者同士、マイナス方向において、相互拒絶という形で共感しているのだ。
互いにクリエイターであり「こうはなりたくない」相手同士だからこそ、その精神の衝突は、熱を帯びて増すのである。
クリエイターは、まず自分を救えればそれでいい。
この二人の関係性は、負の感情において共鳴し合っていると書いたが、彼らがなぜこうなったのかを少し考えたい。
しかし、ここからの内容は、映画の伝えたいメッセージとは全然違う(そっちは、Youtubeライブで大いに語るので覗きに来てほしい、できればリアタイで)。何かしら創作をしている人々へ向けた、僕の個人的な、自身の経験から導き出した言葉であり、そこから自己肯定感を上げてほしいという祈りでもある。
この二人が、こうしたクリエイターのクライシスに陥ったのは、創作の初めから、現在に至るまで自分を救うことをしていないからだ。
では、自分を救うということはどういうことか。
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