『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』を反対側から覗くと、正社員が〇〇男性をボコす『ラストデイズ』になっている問題
個人的に、今年最大の期待作であった『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』
まひろ(伊澤沙織)と、ちさと(髙石あかり)の殺し屋女子コンビ(以下:まひちさコンビ)の、ドタバタ社会不適合日常系殺し屋アクションコメディの3作目である(ジャンルが長い)。
2021年の記念すべき一作目は、邦画におけるアクションのレベルを一気に引き上げ「『ベビわる』以前、以後」という文脈をつくり上げた怪作であった。
さらに、2023年の続編『ベイビーわるきゅーれ 2 ベイビー』では、アクションの質をさらに拡張した上で、物語の主軸を主人公の女子2人に合わせたのではなく、そこへ挑戦を挑む若き殺し屋兄弟の2人に設定し、ドタバタコメディでありながら、殺し屋であるところの「死」という要素の、残虐さと無情さを描いた、21世紀のアクション映画においても傑作であったと、僕は評している。
『ダイハード』『エイリアン』『ターミネーター』など、シリーズ作品として息の長いものは多々ある(息切れどころか、虫の息でもしぶとく続けて、駄作を量産する傾向もある)が、良い意味でも悪い意味でも、三作目というのは鬼門である。
大体のパターンとして、一作目の斬新さがヒットし、二作目で予算拡張から大規模化した座組になり、それを経た先に観客へ何を見せるのか、真に問われるのが、三作目の役割であり最も難しいところだ。
前二作と同路線なら「マンネリだ」と言われ、奇抜過ぎれば「こんなものを見たかったわけじゃない」などと批判される(コンテンツを批評する僕らは、この罪を背負うことについては重々、自覚している)。
上記の3タイトルは、そのどれも三作目の評価の賛否が最も強く分かれ、駄作だと評する人が多いものである(ちなみに僕は、その三作目が結構好きな人間なので、それなりに高評価なのだが)。
では今回の『ナイスデイズ』は、どうだろう。
これはあくまで僕の個人的な感想だが、残念ながら僕にとって今作『ラストデイズ』は、前作『2 ベイビー』を凌ぐ作品とはならなかった。
規模とアクションの質としては、シリーズ最高作となったが、物語の構造は前作『2 ベイビー』の焼き直しに、要素を追加した程度のもので、大きな飛躍や変革を感じられなかった。
何よりもこの『ナイスデイズ』には、作劇における深刻な難点が存在し、それに対する不快さが、最後まで解消できなかった点だ。
大好きなシリーズだし、大好きな役者同士の共演と狂乱が、最大の醍醐味である作品ではあるのだが、その愛がのあまり、今回も正直にこの『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』を忖度なしで語る回である。
シリーズのファンの皆様も、どうかご拝読をお願いしたい(怒られるかもしれないし、その怒りは、どうぞコメントにて発散して下さい! じゃんじゃん受け付けます!)。
努力家の冬村かえでは、“無敵”の、〇〇男性である
今回、まひちさと激戦を交える最強の殺し屋・冬村かえで(池松壮亮)。
独学で殺しのノウハウを修練し、心身ともに鍛え上げた殺人マシン。俳優池松壮亮の捉えどころのない、得体の知れぬ風貌と、冬村かえでの実直に努力を重ねる簡明直截な人格設定が合わさった、恐ろしさと親しみやすさを両立させた、唯一無二のキャラクターが産まれ、それが今作最高の魅力になっている。
しかしこの冬村かえでという人物を、簡潔にまとめると俗にいう「弱者男性」である。
昨今、よく目にするこのワード。
SNS上で広がったこの言葉は、今年5月、西新宿で起きたタワマン刺殺事件の犯人が、いわゆる「弱者男性」だったと報じられ、話題となった。
この弱者男性の条件とはどのようなものなのか、Wikipediaの解説はこうだ。
この「弱者男性」というキーワードで、まひちさコンビと冬村かえでの間に生じる、あらゆる格差を考えていこう。
まず今作では“仲間”という要素において、大きな格差がある。
前提として、このシリーズの主要人物のほぼ全てに当てはまる特徴として、皆、家族はおろか、友人の存在も明かされず、コミュニケーション能力に難がある、いわゆるコミュ障であることだ。
しかし、今作の特色は同じコミュ障でも他者との関わり方、関係の作り方に違いを演出することで、まひろと陣営と、かえで陣営では、結果が大きく異なる。
今作でまひちさコンビには、入鹿みなみ(前田敦子)と七瀬(水谷主水)という仲間が加わるが、入鹿のコミュ障なりにも、懸命に素直になろうとする姿が、四人の仲間意識を結束させる。
一方かえでには、殺しを斡旋するブローカ-や同業の殺し屋はいるものの、精神的な交流を越えて仲間関係になることはなく、利害や強制力によって共闘するのみである。
『ベビわる』全作において「素直になる」というキャラクターの心情変化を描くことで、物語が進んでいくというお決まりのプロセスがあるが、入鹿は自身のコミュ障を乗り越えることで戦いに勝利をもたらす役割を得られ、かえではコミュ障の壁を越えられず、素直になることよりも、暴力によって周囲を支配しようとしたことで、かえで本人は精神的に孤独のままである。
またファッションという面でも、ポップでお洒落な殺し屋女子コンビと、孤高の殺し屋・冬村かえでの容姿にも格差が表れる。
今作の冒頭アクションシーンで、まひちさコンビは敵の返り血を浴びないようレインコートを着用しているが、そのブランドはフィンランドのマリメッコである。
さらに中盤の高級ホテルでのシーンでも、エレガント(と言えば聴こえは良いが、キメ過ぎて逆にダサいという方向性のギャグ)なフォーマルファッションで登場し、作品に彩を添えている。
対して、かえでは「殺し」に対して実用性のみを追求した服装で、初登場の場面では、黒のロングコート(これも返り血対策)に、トランクス一丁で返り血をすぐに洗い流せる姿で、ファッションへの関心を微塵も感じさせない。
経済状況においても、まひちさコンビは宮崎で様々なレジャーを満喫し、過去作で見られた金欠ぶりはないが、かえではボロボロのアパートに住み続け、(殺しの収益は不明だが)トレーニングや生活習慣にストイックがゆえの貧乏なのかもしれないが、それでも充分にみすぼらしく、生活苦であるような印象だ。
こうした対比で分かるように、冬村かえでという男は、常に孤独なのである。
もうひとつ重要な要素は、前述の通り、冬村かえでは傑出した努力家であるということである。『ナイスデイズ』での決定的な作劇の難点は、まさにこの「冬村かえで」の努力家設定である。
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