『フレンチ・ディスパッチ』への覚え書き ~隠し味は三つの皮肉?~
もうこの映画を観て、かなり経つ。
どうにかして言葉か文章(Youtube配信か、noteに書く)に残したい思っていたが、そのすぐ後に『大怪獣のあとしまつ』という名(迷)作にブチ当たり思考を一気に持っていかれ、配信もnoteもそっちを大特集してしまいタイミングを逃したので、今更ですがこの映画について覚え書きを書いておこうと思います。
その前に、簡単な僕のウェス・アンダーソンに対する印象をば。
ウェス・アンダーソンは"男の子"映画の名人?
ウェス・アンダーソンという映画監督は、男の子を描くのがすごく上手い監督だと思う。それは単に子供を撮るというのではなく、男性という生き物の中に在る "男の子" の部分、童心や子ども心とも言い表せるピュアで無邪気な魂のことである。
それをときに恋心として、人生の夢として、家族愛として、形と色を変えて描く、それが僕にとってのウェス・アンダーソン作品像である。
とくに商業映画の処女作である『アンソニーのハッピーモーテル』で、恋に落ちたルーク・ウィルソンの恋人へ向けた笑顔は本当に可愛らしくて、少年の初恋の様なピュアさである(観てるコッチが少し恥ずかしくなるほど)。
男性のキャラクターの心が分かりやすくポジティブに躍動するのに対し、女性のキャラクターは一見静かで、落ち着いていながら情熱的でもあり、だがしかし本心は不明瞭で、謎めいた存在として描かれる。
男は常に女性へ愛情を抱くのに対し、女性はその男を赦し、受け入れ、そして突き放したりする。
幾つになっても、男は女に敵わない!だけど女性を愛さずにはいられない!といった男性キャラクターの構造は、今作『フレンチ・ディスパッチ』でも一貫しています。
しかし今作はもう少し要素を拡大し、そこに様々な社会問題やエロスが内包され、それはSMであり、アートと金の問題であり、社会問題であり、移民の孤独という姿で描かれます。
それらのテーマをオムニバス形式で展開する今作、次の章からは各ストーリーのタイトル別に分けて“皮肉”というテーマでお話します。
【第一章:確固たる(コンクリートの)名作】
この映画の最大の見どころであり白眉は、この章の冒頭にあるレア・セドゥのヌードで間違いありません!
さらに付け加えるとすれば、その姿をキャンバスに描くデル・トロの恋に落ちたときのまさに"男の子"のピュアな視線でしょう。
凶悪犯のローゼンターラー(ベニチオ・デル・トロ)は、刑務所内で看守のシモーヌ(レア・セドゥ)をモデルに抽象画を書く画家として、画商のカダージオ(エイドリアン・ブロディ)の目に留まる。カダージオはローゼンターラーの作品を美術界へ売り出そうと画策するが、ローゼンターラーが描いた作品には、刑務所から持ち出せないある秘密があり、それを知ったカダージオは仰天し憤怒するが……。
この第一章では、恋愛における服従関係を囚人と看守というSM的な構造で、従わせる者(看守)と従う者(囚人)の共依存関係として描かれています。
ただ面白いのは、この関係の中に芸術という要素が入っていることです。
囚人のローゼンターラーはシモーヌへの愛を、囚人と看守という関係性から、叶わないからこそ描くことで表現する。
そしてシモーヌは、彼の愛を受け止める手段としてモデルになり続け、彼を従わせる。しかしローゼンターラーはこの愛情表現を商品にしたいわけではない、画商は絵を売って金にしたい。
だからこそローゼンターラーは自身の最高傑作を刑務所内で、絶対に持ち出せない形で描いたのです。
それはローゼンターラーの愛(心)を商品にする画商(=アート業界)への抵抗であり、刑務所という建物はそのままローゼンターラーの心の殻を表現しています。ローゼンターラーは刑務所の中でシモーヌへ絵を描き続けることによってのみ永遠にシモーヌを愛せるわけです。
しかし、そのシモーヌはそんな彼よりも何十倍もリアリストであり、自立した女性でした。残念ながら彼女は自身の人生の幸せのため彼から離れ、新たな人生を歩みます。
この二人の刑務所の中での儚くも芸術的で、哀しい恋物語は実りこそしませんでしたが、この愛情が込められた作品は結局、画商の手によって歴史に残る名作になってしまい、ローゼンターラーの思いとは裏腹に彼らの恋物語は刑務所を飛び立って、永遠に語られる運命に至る。
まさに皮肉な結末でもあります。
【第二章:宣言書の改訂】
まさかフランシス・マクドーマンドとティモシー・シャラメが、今作で寝るとは!(ベッドシーンこそないですが、シャラメファンの皆さん、どうでしたか?笑)
この第2章では、フランスの学生運動と軍隊への懲役拒否、そして若者たちの恋物語が描かれます。
この映画は冒頭が1975年から始まり、過去の出来事を記者たちが回想していく形式で展開します。この章はフランスの学生運動を舞台にしているので、主な舞台は五月革命で有名な1968年かと思います。
フランスは16世紀から植民地を求めて、大陸へと進出した世界で最初の植民地帝国です。その支配は20世紀の半ばまで続きますが、それは米ソの対立を背後に、世界の国々が互いに陣取り合戦をする冷戦の時代。
その最中に世界を一つにしようと若者たちはラブ&ピースのヒッピーカルチャー真っ盛りでした(語弊を覚悟で書いてます)。
フランスでも植民地への戦争(アルジェリア独立戦争)などで、国家への忠誠を誓えなくなった若者や労働者たちが暴動や大学封鎖などをしていて、そのムーブメントに熱中していたのが大学生ゼフィレッリ(ティモシー・シャラメ)です。
この章で象徴的なのは"チェス"です。
バリ封した大学の中で、その周囲を完全包囲した警察との交渉手段として、ゼフィレッリはチェス対決を行います。
チェスはいうまでもなく、戦争をモチーフにされたゲームです。軍隊のというは戦争が起こった場合、人間である兵隊をある種の駒として機能させなければなりません。
どんな危険があろうとも、上官の命令を忠実に実行するために機能するべく教育された兵士は、超人的であり、その理想はチェスの駒の様に毅然と無感情に、敵へと突き進むことが理想なのかもしれません。
しかし、この学生たちは一人の尊い若者の命を駒の様に扱う国家と戦争というシステムに怒り、抵抗をしているはずなのですが……。
その彼らも戦争を遊戯化したチェスを嗜んでいる、という皮肉(というかブラックジョーク!)。そして何より彼らは、その若さが故に情動的で結局は愛を信じ、愛のままに行動してしまう!
愛という感情が、革命も学生運動も戦争も、何もかも溶かしてしまって男女は絡み合っていく。なんとも愚かで、若々しく矛盾だらけなんでしょう。
でも残念ながら、そうやって愛の名の下に(SEXをし続けて)人類は紡がれてきたという、これまた皮肉なお話でした。
余談ですが、米ソはベトナムやアフガニスタンで覇権を巡って、直接或いは間接的に戦争をしていましたが、米ソは威信とプライドをかけてチェスで戦ったことがあります(『完全なるチェックメイト』という映画もありますね)。
ウェス・アンダーソンに言わせれば、世界の争いがチェスのように呑気なら良いのになぁ~というような細やかな願いと皮肉なのかもしれません。
【第三章:警察署長の食事室】
主人公はジェフリー・ライトが演じるグルメ記者のローバック・ライト。
この章は語り部こそローバックですが、物語が進行するにつれてスポットライトが当たる人物が、ローバック→アンニュイ警察署長(マチュー・アマルリック)→警察署長お抱えシェフ・ネスカフィエ(スティーブン・パーク)へと移行していきます。
物語の主たるテーマは移民の孤独です。
ローバックは祖国を追われフランスにやってきた黒人記者、ネスカフィエはアジアからやってきた移民、そしてフランス人である警察署長という人種的構図の中で、警察署長の息子が誘拐されたという物語が進行します。
その誘拐事件を解決するため、ネスカフィエは毒入りの食事を作り、犯人グループに運ぶことで事件は解決に向かうのですが、その際に毒入りの食事を毒見させられてしまいます。
生死の境を彷徨ったネスカフィエは、その毒入りメニューの"味"を通して、故郷に置いて来てしまった"何か足りないもの"に想いを馳せます。
Seeking something missing. Missing something left behind.
(足りない何かを探し続けている、失った何かを取り残している)
この短くも韻を踏んだ詩的なネスカフィエのセリフが、見事に故郷を離れて異国で生きる移民たちの心、"本当の故郷"への思いを描いています。
そのセリフに対して、ローバックはこう応えます。
Maybe, with good luck, we'll find what eluded us in the places we once called home. (幸運にも失ったものは、故郷に帰れば、それが何だったのか思い出せるさ)
これはネスカフィエへのローバックの励ましなのか、精一杯の同情なのか。この短いセリフのやり取りはどのようにも解釈ができ、また見る人によって印象は全く異なるものになるかと思います。
しかし、この物語を記事にしようしたローバックはネスカフィエとの"味"に関するやり取りを削除しようとしますが、最終稿を編集長(ビル・マーレイ)に見せたとき「そのやり取りは絶対にカットするな!」と言われてしまいます。
グルメ記者だったローバックは味に関する表現があまりに抽象的だという理由でカットするつもりでしたが、編集長はその一文の味に関する表現がどうこうではなく、移民という存在が抱える孤独や失ったものに対する思い、そして自分が何者であるかを確信させ、同時に忘れさせないのが "味" であったということを見抜きます。
それは味に関しての表現は文章化できても、個人の想い出の中にある心象風景は本当の意味では文章化できない、しかし"味"というキーワードを使って読者の胸の中にある"失った何か"を想像したり、思い起こさせたりはできるという、文章による表現の先にある、心の動きを踏まえた上での采配でした。
文章を使って具体的に“味”伝えるのではなく、味という抽象的なキーワードを使って、故郷への愛を抱かせる。料理の“味”には、そんな力がある。
味を表現するグルメ記者のローバックは、味に対して執着していたが故に、グルメ記事という視点から人の心を動かすことを忘れていたという皮肉な物語でした。
今作は、結構な特撮映画だった
この長い文章をまたまた最後まで読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!
少し話は逸れますが、この映画を観たあと『大怪獣のあとしまつ』を観て、Youtubeでもnoteでも語ったわけですが、この『フレンチ・ディスパッチ』のほうが『大怪獣のあとしまつ』よりも、よっぽど特撮映画でしたね!("怪獣"は、抜きにして)
背景の一部とその目の前にいる俳優を小セットで固定して、そこより後ろの大きな背景を動かしたり、あるいは手前の小セットのみを動かしたりと、絵画的に固定された構図を維持しながら場面が展開していく映像。
背景に描かれたマットペイント(背景絵画)と、その前で演技する豪華俳優陣たちの奇妙でありながらも、キマりきっているその構図。
まさにその世界観こそがウェス・アンダーソンだと言わしめる傑作でした。
絵画的な映画は数あれど、もはや今作は映画的な絵画だと言えます。
この映画はフランス文化や元ネタ映画への付言が盛んですが、画作りに関しては個人的にはアメリカの画家のエドワード・ホッパーのようにも感じました。
監督の最大の遊び心が爆発した、見事なまでの箱庭映画。
それが『フレンチ・ディスパッチ』なのです。
さて、冒頭で覚え書きをと書いてましたが、ガッツリ5,000字近越えましたね。Youtube同様にレビューを短くまとめられないのが実は悩みです(汗)。
さて今夜は20時半からYoutubeで、またまた邦画の『牛首村』を語る生配信。『牛首祭りナイト』なので、良ければ遊びに来てくださいね!(ギリギリ告知でごめんなさい……)