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『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、映画評論家への痛烈な一撃?/「孤独」への挑戦としての論評

 ジョーカーという男、そしてその概念。

 それはゴッサムシティの番人バットマンの宿敵《ヴィラン》として登場し、これまで様々な俳優によって演じられ、クリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』にて故ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、映画史に残るほどの“悪”の象徴であった。

 そんなジョーカー像を前作『ジョーカー』は、障害を抱え、社会に馴染めない孤独な男アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)に宿らせ、我々の身近に存在しうる凡庸な悪として再解釈させることで、悪のカリスマ、アンチヒーローの偶像から引き剥がし、観客からの共感と共鳴を得た危険な傑作であった。

 その続編である『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(以下:フォリ・ア・ドゥ)』は、どのように物語を描いたのか。

 その核に迫る前に、現在、今作が酷評されている原因についてお話ししたい。

 なんせジョーカーというキャラは悪役でありながら、もっぱら『ダークナイト』以降、反権力の象徴である。

 反権力を掲げる個人や団体には、腐敗した権力への是正や、公正化の願いが込められており、反権力=悪という単純な図式は成立しない。

 また反権力という姿勢は常に曖昧であり、その時世により「何において反権力であるか」が、ぼんやりと定義され、その内実は変化し続けてゆく。

 よって、ジョーカーというキャラクターは、その性質上、世界から消滅し得ないのであり、「その反権力的な態度こそがジョーカーであるべきだ!」というダークナイト的ジョーカーニズムを抱く人にとって、今作『フォリ・ア・ドゥ』は駄作に思えるのは仕方がない。

 僕個人の感想をネタバレなしで端的にいうと「酷評されるほどの作品ではないが、可哀想過ぎて堪らんので、怒りたくなる気持ちも分かる」という感じで、今回のこの記事は酷評記事ではない。

 この映画の面白いところは、前作『ジョーカー』に対する答え合わせと批判をしながら、同時に我々のような映画好き(このnoteやYoutubeのような媒体で、作品の評論をしたがる連中)の心に、ある種の痛烈な一撃を見舞うような作品であるからだ。

 よって今回のレビューは、映画(を含むあらゆるコンテンツ)を評論している人(もちろん僕も含めて)へ、批判的な内容になっている。

 それは僕個人の意見というよりは、今回取り上げる『フォリ・ア・ドゥ』がそういった視点をもつ作品であることから生まれた論説である。
 耳が痛い人もいると思うが、もし全部お読みになる覚悟のある方は、そういった内容であることを踏まえた上で、ご購読をお願いしたい。「恨みっこなしよ」ってことで……

(※今回の内容の一部は、前日のYouTubeの生配信でも一部を語っておりますので、そちらも参照されるとより分かりやすいかもしれません)

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