見知らぬ誰かと話すことで、優しい世界をつくる。
みんな、余裕がない。
僕はそれを、余白がないと呼ぶようになった。
正直、余裕でも余白でもどっちでもいいんだけど、僕には、現代の1分1秒を争う現代の人が、びっしりと鉛筆で描き殴って真っ黒になったノートやキャンバスのように見える。
だからそれを、”余白がない”と呼ぶ。
もっと、そこに余白があれば。
僕たちは家族や友達や同僚に愛情や優しさのようなものを携えて、接することができる。
今日エスカレーターですれ違ったあの疲れたサラリーマンや、電車で出会ったベビーカーを押した女性にすら、優しい眼差しだけでも向けられる。
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世界に類を見ない少子高齢化社会の到来。
年金制度の崩壊。
社会保険料や税金の上昇。
それに伴う実質賃金の減少。
山口周さんの最新刊『ニュータイプの時代』によると、どんなエリート高官でも、グローバル企業の経営者でも、正確な未来予測はできないという。
しかし、先ほど書いたのは未来予測ではなく現実の延長だ。
人の生活は、苦しくなる。立ち行かなくなり、生活保護の人も増えるのかもしれない。
すると、僕たちの余白は、ますます塗りつぶされていく。
絶望感、虚無感、喪失感。もしくはそれがごちゃ混ぜになったようなものに苛まされた人が増えたとき、日本にはどんな空気が流れるのだろう。
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そんな息の詰まるような世界にならないように、そんな孤独な世界で誰も孤独にならないように、僕が最近していること。
それが、”見知らぬ誰かと話すこと”だ。
と言っても闇雲には話しかけない。あくまでも自然に話せるタイミングで、一言だけでも話すこと。
昨日は、いつものスーパーの前で営業をしていた不動産の営業のお兄さんと。
「暑いですね」
「暑いっすね〜」
今日は、立ち寄ったカルディで近くにいたおじさんと。僕が海外産の炭酸水を見ている時。
「それ、なんですか?」
「あ、これフランスの炭酸水です。ヨーロッパの水は硬水なので、ミネラルとか豊富らしいですよ」
「へ〜、ありがとうございます」
これまでの僕なら、同じシチュエーションでも、不動産のお兄さんに会釈するだけだろう。カルディのおじさんにも、「え、店員さんじゃなく僕に聞く⁈」と思いつつ「炭酸水ですよ」ぐらいで済ませてたかもしれない。
コミュニケーションに、温度が足りなかったのだ。
けど、今はそこに確かに感じる温度がある。
全くの他人と温度のあるコミュニケーションが取れた時、そこに自分と社会の間の変な壁のようなものが崩れ、社会と自分が繋がった気分になるのだ。これがやってみると実に爽快だから、おもしろい。
妻も、こんなことを言っていた。
「混み合ってる電車で、ここは私の場所!って感じでかばんでグイグイ押してくる人がいるんだよね。イライラしてこちらが押し返すときっとヒートアップする。けど、こちらからよけたり、逆に笑顔で「すみません〜!」ということで、向こうも態度が柔らかくなったりするんだよね」
余白のないみんなは、何かと戦っているのだと思う。
本当は、敵なんていないのに。
ブンブンと剣を振り回していないはずの敵と戦っている人を見かけたら、サラリと避けながら少し話しかけてみよう。少なくとも、僕は剣を抜かない。こちらが抜かなければ、相手も剣を仕舞う。そういうもんだ。
僕の、あなたの温度のある一声が、誰かの心に小さな火を灯す。
さて、明日は、誰と話そう?
ぜひこれを読んだあなたも、街の誰かと温度のあるコミュニケーション、とってみてください。
僕は、そこから変わる優しい世界を見てみたい。