冷たい男 第4話〜束の間の死〜(7)
それは決して嵐など来ない晴天の中で起きた。
他所の国から紛れ込んできた漁船と衝突したのだ。
父が乗っていた船は最新型とは程遠い木造のボロい船だったので何かの衝撃を受ければま壊れること必然だった。
海に投げ出された父は、破壊された船の破片にその身を打ちつけ、内臓の一部が破れ、手や足、肋など数箇所が折れていた。
家に運ばれてきた時はまさに瀕死という状態だった。
「恐らく今晩持たないだろう」
父に付き添ってくれた漁港組合の医師は痛みに耐えるように若い老婆に告げる。
一緒に漁に出ていた漁師たちが若い老婆に必死に頭を下げ「すまねえ」「すまねえ」と謝る。
皆んなこの2人が天外。親1人子1人しかいない事を知っている。
だからこそ憐れみ、同情した。
しかし、若い老婆が考えていたのはそんなことではない。
父は、瀕死なんかじゃない。
父は、永遠に死なない。
つまり父は、ずっとこの痛みと苦しみの中に生きないといけないのだ。
そして父は、やはり死ななかった。
3日経とうが1週間経とうが死ななかった。
六畳の畳を血で染めようと死ななかった。
あれだけ漏らすことのなかった苦鳴を町中に響き渡る程上げようと死ななかった。
若い老婆は、そんな父を見ても何もしてやることが出来ず血で染まった部屋の隅で震えることしか出来なかった。
異常な状態に気づいた医師がこれで楽にしてやろうと禁制の毒薬を持ってきた。しかし、若い老婆は受け取らなかった。
父が死ぬのが嫌だったからではない。
父をさらに苦しませる可能性のあるものを飲ませたくなかったからだ。
そして父が苦しみ出してから1ヶ月が過ぎようとしていた。
「ごめんください」
その女は、唐突に、ノックもせずに若い老婆と父の家に入ってきた。
糸のように浅い眠りに誘われかけていた若い老婆はその音に目を覚ます。
最後に寝たのはいつだろう?
夢なのか現つなのかももう分からなくなっていた。
父の呻き声と血の臭いだけが今は現実だと教えてくれる。
女は、部屋に入った瞬間に顔を顰める。
無理もない、こんな腐った血の臭いの中にいたら瞬きする間に吐いてしまう。
しかし、予想外なことが起きた。
女は、顔を顰めつつも平然と血に濡れた畳の上に立ち、滑るように父に近づいていくのだ。
若い老婆は、呆然とそれを見つつ、ようやく女の姿を観察した。
女は、日本人ではなかった。
星屑が落ちてきて染まったような金と銀の入り混じった髪、整った鼻梁に細い顎、綺麗な形の唇、そして日に当たったら透けるような白い肌が身に纏った大きな黒い長衣のお陰でさらに際立っている。
そして最も特徴的なのは切長の青い目だ。
猛禽類のように強く、冷たく、そして美しい。
間違いようのない外国人だ。
若い老婆の胃の腑が冷たくなる。
外国人・・・自分を殺し、父をこんなにした外国人。
女は、青い目で呻き、苦しむ父を見下ろすと長衣が血で汚れるのも厭わずにその場で座り、父の傷だらけの頬を触る。
胃の腑が熱くなる。
触るな・・・触るな・・。
汚い手で父に・・・。
「触るなあ!」
若い老婆が怒りに目を激らせ、女に襲い掛かろうと身体を起こす、と。
小さい影が若い老婆の前に立った。
それは4歳くらいの幼い少女だった。
太陽のような金髪の髪、白い肌、整った鼻梁、そして切長の青い目。衣服こそ黒い長衣ではなく水色のドレスだが父の頬に触れる女とそっくりだった。
少女は、若い老婆の前に両手を大きく伸ばして立ちはだかる。
切長の青い瞳を強く、大きく開いて若い老婆を捕らえる。
若い老婆は、何故か動けなくなる。
「大丈夫」
少女とは思えない強く、芯のある言葉が発せられる。
「ママを信じて」
女は、切長の青い目で父を見ながら、頬を、瘤で塞がりかけた目を、そして口内を見た。
「・・・厄介なものと関わったものだな」
女は、小さく息を吐く。
「娘」
女は、短く、そして強く声を吐く。
若い老婆は、その声が自分に掛けられていると気付かなかった。
「聞こえているか⁉︎」
女は、声のトーンを変えずに再度呼びかける。
そこでようやく若い老婆は自分のことであると気づいた。
「はい・・・」
若い老婆は、消え入りそうな声で返す。
女は、若い老婆を見ないままに話し出す。
「お前たちが対価を払ったモノはとてもタチの悪い奴だ。私にはどうすることも出来ん」
女の発する言葉の一句一句が重く若い老婆の耳に入ってくる。
若い老婆は、胸を苦しく締め付けられる。
「しかし、痛みを和らげ、傷を塞いでやるぐらいなら出来るが、どうする」
「お願いします!」
若い老婆は、反射される鏡のように間を空けることなく言葉を返した。
それ以外の選択なんてなかった。
「分かった」
女の右手にはいつの間にか火の付いた紫色の腕くらいの長さの蝋燭と、左手には肌色の糸玉が握られていた。
女は、紫色の蝋燭を血に濡れた畳の上に置く。
燭台もないと言うのに蝋燭は、少しもブレることなく直立する。
香りが漂う。
甘く、トロリとした重い花の香りが。
変化は、直ぐに起きた。
あれだけ痛みに呻いていた父の口から苦鳴が消えた。
傷と痣だらけの頬が弛み、瘤でふさがりかけた目がうっすらと開く。
女は、手首を返し、糸玉を上に向ける。
糸玉の先の部分が持ち上がり、蛇の鎌首のように動く。
糸は、父を標的として定めるとゆっくりとその身を伸ばしていく。
父の顔にある最も酷い傷に触れ、その中に入り込んでいく。
父の顔が一瞬、痛みに歪む。
糸は、顔を出しては引っ込め、出しては引っ込めを繰り返しながら傷の中を進んでいく。
そしていつの間にか大きく開いていた傷口は塞がれていた。
糸は、自然と切れて二つに分かれる。
一つはそのまま傷口に埋没し、残った方は新たな傷口を探し出す。
それを何度も何度も繰り返す。
そして女の手から糸玉が失われ、父の身体中の傷は全て縫われた。
あれだけ広がっていた醜い傷は全て塞がり、瘤や痣や裂傷、鼻の骨折などは変わらないもののあるものの十分と見ることの出来るものになっていた。
父は、寝息を立てていた。
父が寝息を立てて寝たのはいつ以来だろう?
少なくても若い老婆には記憶がなかった。
女は、小さく息を吐く。
額には大きな粒の汗が数えきれないほど浮かんでいる。
「娘・・」
「はいっ」
思わず背筋を伸ばして返事をする。
「お前の父の傷口は全て塞いだ。痛みも蝋燭の香りで取り除いている」
若い老婆は、畳の上で直立している蝋燭の小さな炎を見る。
「1年だ」
女は、短く、はっきりと告げる。
「傷口を塞いだ糸は1年しか持たない。と、いうかそれ以上傷口を塞いでおくことが出来ない。痛みもだ。この蝋燭も1年で燃え尽きる」
「どうなるのですか?」
「元に戻る」
それが意味することを理解するのはあまりにも簡単だった。
若い老婆の身体が震える。
「ど・・・どうすれば・・・?」
若い老婆は、藁にも縋るように女を見上げる。
少女は、そんな若い老婆を労わるように肩に手を置く。
「魔女の報酬を払える?」
「魔女の報酬?」
「貴方たちが関わったものは本来、人が絶対に関わってはいけないもの。寿命の受け渡しなんて人外どころか天外してはならないこと。その代償はあまりにも大きい。私にはその代償を取り除くことは出来ない。だからせめて痛みと傷を塞いで上げることしか出来ないわ。しかも期間限定でね。それでも良いなら・・・」
「お願いします!」
若い老婆は、迷うことなく言う。
「報酬がなんだか分からないけど必ず払います!だから父を助けてください!」
若い老婆は、血まみれの畳に顔を埋めて土下座する。
「・・・分かったわ」
女の手にはいつの間にか小さな瓶が握られていた。中世フランスの貴族が使っていたようなサファイア色の香水瓶だ。
しかし、中身は空だ。
女は、香水瓶の蓋を開ける。
その瞬間、部屋中に侵食していた父の血が竜が立ち昇るように瓶の中に吸い込まれていく。
一滴として残らず。
若い老婆の顔と衣服に付いた物まで全て吸い込まれる。
とても手のひらの大きさしかない小瓶ではない量の血が全て吸い込まれたのを確認してから女は瓶に蓋をする。
女は、瓶の先端を持ち、目線の高さまで持ち上げて中身を確認する。
「寿命のない人間の血・・・今回の報酬に相応しい貴重なものよ」
瓶は、いつの間にか女の手から消えていた。
女は、若い老婆を見る。
「今回の報酬はこれで十分よ。今後の報酬はその時、私が望むものを持ってくることよ」
「その時望むもの?」
「そう。それは貴方の見たこともない大金かもしれないし、聞いたこともない、見たこともない品物かも知らないわ。でも、貴方はそれを必ず手に入れないといけないの」
「・・・手に入らなかったら?」
「お父様がまた苦しむことになるわ。私は何ももうしてあげられない。魔女に慈善事業は存在しないの」
若い老婆は、血の臭いすらなくなった畳を爪で削る。
「分かりました。必ず貴方の望むものを手に入れます!」
女は、若い老婆の隣に立つ少女を見る。
少女は、小さな手をきゅっと握って開く、とそこから小さな紙が現れた。
少女は、紙を若い老婆に渡す。
「私は、ここから少し離れた町で"香り屋"と言う店を経営してるわ。お父さんの蝋燭が尽きかけたらおいでなさい。報酬と引き換えに蝋燭と傷口を縫うわ」
若い老婆は、店の名前と住所の書かれた紙を大切に握る。
女は、口元に小さな笑みを浮かべる。
「貴方たちは運がいい。たまたま娘とこの町に遊びに来ていたら急に娘が嫌な気配を感じると言ってここまで連れてきたのよ」
若い老婆は、小さな少女を見る。
少女は、恥ずかしそうに目を反らす。
「この娘は、私よりも強く、優秀な魔女になるでしょう。私がいなくなってもこの娘が引き継ぐわ。報酬がある限り、貴方の父親の痛みと傷での苦しみを減らせるでしょう」
若い老婆の目からいつの間にか涙が溢れ出す。
もう父が苦しまない。
それがどれだけ嬉しいこと、か。
少女は、女に、母親に近寄ると長衣の裾を握る。
「それではまた会いましょう」
それだけ言い残し、魔女の親子は消えた。