エガオが笑う時 第5話 凶獣病(4)
彼は、私の手をグイグイ引っ張って宿舎を出る。
私は、引っ張られるがままに彼に付いていく。と、言うよりも引っ張ってもらわないと歩くこともままならない。
私の頭の中は混乱を通り越して錯乱していた。
結婚・・・結婚・・結婚・・・。
妻・・・妻・・・妻・・・。
私の頭の中は、その2つの言葉が弾けるように飛び交う。
一体何が起きてるの?
て、いうかいつから私達は夫婦なの?
マダムに言われたあの日から?
でも、確か結婚って戸籍っていうのをどこかに届けないといけないんじゃなかったっけ?
あっでも確か内縁とか言うのもあるって部下の誰かが口にしていたような・・・。
えっ?でも夫婦らしいことなんてしてる?
私は、考えをまとめるどころかどんどん思考の深みにハマって抜け出せなくなった。
彼が歩みを止める。
私は、彼の背中にぶつかる前に足を止める。
私達の前にスーちゃんが尻尾を振って立っていた。
「出迎えありがとう」
カゲロウは、空いてる手でスーちゃんの首筋を撫でる。
スーちゃんは、気持ち良さそうに赤い目を閉じる。
手から温もりが消える。
彼の手が私の手から離れる。
寂しい。
彼は、私と向かい合う。
鳥の巣のような髪の向こうから彼の視線を感じる。
私は、頬が熱くなるのを感じる。
彼は、右手を上げる。
私は、彼に頭を撫でられるのだ、と思い期待した。
しかし、彼は、もう片方の手を持ち上げてそれを合わせた。
これは・・・謝りの姿勢?
「すまなかった」
彼は、両手を合わせて頭を下げる。
「えっ?」
「急だったとはいえとんでもない事を言ってしまった。本当にすまない!」
彼は、必死に必死に謝ってくる。
「あの・・・何のことですか?」
私が恐る恐る訊くと彼は驚いたような口を丸くする。
「いや・・・あの・・・」
彼が戸惑ったように言葉を震わせる。
彼が戸惑った姿を見るのは初めてかもしれない。
「ひょっとして・・・結婚のことですか?」
私が言うと彼は小さく頷く。
「あれって・・・嘘だったんですか?」
「嘘というか・・・」
彼は、困ったように頬を掻く。
「あんな事で結婚なんてなる訳ないだろう?ひょっとして・・・信じたのか?」
何だろう。
嘘と聞いて安堵しているはずなのにお腹の下が冷たくなる。そして何かが泡を立てて湧き上がってくる。
カゲロウは、私の様子がおかしいと思ったのか、不安そうに顎に皺を寄せる。
「おい、どうしたんだ?」
彼は、いつものように私の頭に手を乗せようとする。
しかし、私はその手を大きく払った。
パチンッと言う音が上がり、スーちゃんが驚いてこちらを見る。
カゲロウは、弾かれた自分の手を見る。
「貴方は・・・・」
私の声は、唇は小さく震えていた。
何に動揺しているのか自分でも分からない。でも、震えを抑える事が出来ない。
「貴方は、私を何だと思ってるんですか?」
私は、何を言ってるんだろう?
「私なら何をしてもいいと思ってるんですか?何を言ってもいいと思ってるんですか?」
何を言ってるの私?
カゲロウが何を思おうがどうしようが関係ないでしょ?むしろカゲロウは付きたくもない嘘まで付いて助けてくれたのだから感謝しないと・・・感謝しないと・・・。
でも無理だ。
「・・・馬鹿にしないで下さい」
私は、込み上げてくるよく分からない感情を抑え込んだ。
そうしないと泣いてしまう。
私は、彼の横を逃げるように大股で通り過ぎ、助けを求めるようにスーちゃんの首を触る。
「スーちゃん行こう」
スーちゃんは、嘶きの一つも上げずに赤い目を細め、大きな鼻を私に擦り付ける。
私は、スーちゃんと一緒に前を歩き出す。
「エガオ・・・」
カゲロウの声が背中に当たる。
スーちゃんが私の肩当てを小さく噛んで呼びかける。
私は、歩みを止める。
でも、振り返らない。
振り返られない。
「お前のことは・・・大切だと思ってるよ」
カゲロウは、絞り出すように言う。
大切だと思ってる?
これは・・・嬉しい言葉なのだろう。
嬉しい言葉のはずなのに・・私の心はさらに沸々と沸く。
「それは・・・どう言う意味の大切なんですか?」
私は、また自分でも分からない事を口にする。
「えっ・・・?」
「キッチン馬車の店員として大切ってことですか?それとも別の意味ですか?」
私は、何を期待しているの?
カゲロウがどう答えたって別にいいじゃない。
それで何が変わるというの?
しかし、カゲロウは何も答えなかった。
鳥の巣のように膨れ上がった髪の下から私を見るだけでだった。
「行こう。スーちゃん」
私は、もう一度、スーちゃんに声を掛け、首筋に寄りかかる。
そうしないと歩ける気がしなかった。
胸の中がグチャグチャして前を真っ直ぐ見れなかった。
私は、スーちゃんに支えられながら今度こそ止まることなく歩み始める。
その背中に熱い温もりを感じた。
首筋に吐息が、そして首から胸に掛けて逞しい腕の固さと熱が。
カゲロウが後ろから私に抱きついているのだ、と直ぐに分かった。
私は、お腹が熱くなるのを感じた。
彼の手を振り解こうとその腕を掴んだ。
なのに出来ない。
「何ですか・・・?」
私は、声を絞り出す。
「何なんですか?」
頭が胸がグチャグチャする。
言葉がうまく出てこない。
「エガオ」
彼は、私の名前を優しく囁く。
彼の逞しい腕が私の身体を自分とゆっくりと向かい合うように動かす。
私は、何故か逆らうことも出来ず、彼の思うがままに動いた。
鳥の巣のような髪に隠れた目が私と重なった気がした。
「エガオ」
彼は、もう一度私の名前を優しく囁く。
彼の顔がゆっくりと私の顔に近づく。
額に柔らかく、少し棘が刺さるような痛みと温もりを感じた。
「えっ?」
私は、思わず声を漏らす。
温もりと痛みが離れる。
彼の両手が私の首筋に触れる。
「今は、これで勘弁してくれないか?」
首筋に違和感がある。
私は、視線を首筋に落として、目を大きく見開く。
いつの間にか私の首に細い銀色の鎖が付けられていた。
その先にあるのは真ん中に6つの銀の花弁の真ん中に赤い宝石が鎮座した小さな指輪であった。
この指輪は・・・。
私は、顔を上げる。
鳥の巣のような髪に隠れた目がじっと私を見る。
「今はまださっきの言葉の意味もこれのこともしっかりと伝えてやることが出来ない」
カゲロウの逞しい両腕が再び私の身体を包み込む。
「でも、いつかちゃんと伝えるから。それまで待っててくれ」
カゲロウは、私の身体をぎゅっと抱きしめる。
私も気がついたら彼の背中に手を回していた。
こんな時、どうしたらいいの?
何を言えばいいの?
私は、今ほど自分が笑顔を浮かべられない事を恨んだことはなかった。
笑顔を浮かべることが出来れば、言葉の変わりに彼にこの想いを伝えることが出来るのに。
彼の手が離れる。
温もりが消える。
彼は、じっと私を見て口元に笑みを浮かべる。
優しく、温かな笑みを。
「帰るか」
「・・・はいっ」
彼は、私の手を取るとゆっくりと歩き出す。
私は、その手に引かれて付いていく。
もう支えなんて必要なかった。
温かい何かが私の心を満たしたから。