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冷たい男 第4話〜束の間の死〜(4)

「私が父から寿命を貰ったのは7歳の時よ」
 老婆は、椅子に戻ると冷めた緑茶に口を付ける。
 淹れ直すか、と冷たい男が聞くと首を小さく横に振る。
 彼は、短くなってしまった線香の隣に新しいものを差すと老婆の横にやってきて前に両手を組んで立つ。
「どうぞ座って」
 老婆は、隣の席に右手を置いて促す。
 彼は、「大丈夫です」老婆の申し出を断るが「見上げてると首が痛くなっちゃうの」と言われ、小さく頭を下げて老婆の隣に座る。
 老婆は、口を付けた湯呑みを反対側の椅子に置いて、冷たい男の顔をじっと見る。
「若いのね。お幾つかしら?」
「19です」
「まあ、それじゃあ高校を卒業して直ぐにこちらに就職を?」
「はいっこの会社の社長の娘が私の幼馴染で卒業したらここで働いたらいいと誘われたんです」
「失礼だけど大学か専門学校に行こうとは思わなかったの?」
 老婆の問いに冷たい男は、少し声を詰まらせる。
 痛いところをつかれたかのように頬を少し引き攣らせ、指で掻く。
「親や幼馴染にも言われたのですが・・・」
 言いにくそうに何度か唾を飲み込む。
「上の学校を目指すとなるとどうしてもこの町から出ないといけないので・・・」
 冷たい男の答えの意味が分からず、老婆は眉根を寄せる。
「この町を離れたくなかったから?」
「はいっ」
 小さい声で返事し、頷く。
 老婆は、小さく目を何度か瞬かせた後、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それは幼馴染の娘と離れたくなかったからかしら?」
「ふえ?」
 冷たい男は、思わず間の抜けた声を上げる。
 老婆は、そんな冷たい男の反応を楽しげに見る。
「さっきも言ったでしょ。長く生きると肉体以外の部分が鋭くなるって」
 老婆は、狼狽える冷たい男を横目に残った緑茶を飲み干し、天井を見上げ、視線を動かす。
 まるでそこに書かれている何かを読み取るように。
「私も離れることが出来なかったわ・・・父と」
 老婆は、小さく、長く息を吐く。
「父はね。男で1つで私を育ててくれたの」
 老婆は、語り出す。
 昔の話しを。
 
 それは様々な不思議な経験をしてきた冷たい男でも耳を疑う者だった。

 老婆が物心が着いた時には戦争は日常的なものだった。
 時代は困窮し、食べる物、武器に加工できる物、価値のある物は全て取られ、町を歩けば誰も彼もが戦争の話しをし、近くの家からは家族を戦争に送り出すのは末代までの誉と泣き叫び、畑で野菜を育てれば盗まれ、家畜を育てれば殺され、食われる、そんな時代だった。
 しかし、それでも幼い老婆は幸せだった。
 なぜなら父がいつも側にいてくれたからだ。

 老婆とその父が生活していたのは小さな漁港の町だった。東京や横浜のような格式ばった港があるわけではない、小さな波止場に木製の三人でも乗れば沈みそうな船が数えるだけで疲れるくらい狭ぜまと並べられた田舎の漁港。家だってトタン屋根の長屋が並んでいるだけの時代錯誤甚だしい古い町。
 老婆の父は、そこで漁師をしながら幼い老婆を育てていた。
 母親は、いなかった。
 死別したのか?離別したのか?それともこの貧乏な生活が嫌になり逃げ出したのかは分からないし、教えてくれなかった。しかし、幼い老婆はその事を気にしたことはなかった。戦争と同じで母親がいない事も物心ついた時から当然のことだったし、その事に後ろめたさもなければ後ろ指を刺されることもなかった。
 父は、腕の良い漁師だった。
 一度、海に出れば必ず何かしらの成果を望めるほどに。
 その日獲れた魚を町に売り、残った魚を干物にして我が家で食べた。世が困窮している中で魚が食べれるなんて至高の贅沢だった。米も野菜も卵も中々に口に出来なかったが飢えだけは知ることはなかった。
 幼い老婆は、家のことを良く手伝った。4歳で火を起こし、井戸から水を汲み、掃除をし、父と魚を売りながら計算を覚えた。
 近所からはよく出来た子だ、と褒められた。
 父もそんな幼い老婆を褒め称えた。
 世の情勢など知らない狭い漁港町が全ての幼い老婆は貧しくても幸せだった。
 その幸せはいつまでも続くと思われた。
 
 あの日が来るまでは。

 それは唐突にやってきた。
 いや、どんな悲劇もやってくる時はどんなに冴えた感でも反応が出来ないくらいに唐突なのだ。

 幼い老婆と父の住む漁港町に爆弾が落とされた。

 明け方と共に海の向こうから空を切り裂くような轟音と共にやってきた朝焼けの空を黒く染める爆撃機の群れ、その群れの一つから爆弾が落とされたのだ。

 こんな古臭い漁港町に戦略的価値など存在しない。
 誤作動して落とされたのか?
 目標の港と間違えて落とされたのか?
 或いは面白半分で落とされたのか?
 現在になってもそれは分からない。
 分かっていることはそのたった一つの爆弾で古臭い漁港町は壊滅し、多くの人が死に、そして幼い老婆が死んだということだけだった。

 老婆の話しに冷たい男は、瞳孔を大きく開く。
 その反応を老婆は、面白そうに見て着物の裾の中にある枯れ木のような両足をバタつかせる。
「足はあるから安心おし」
 心の中を読まれたことに気づいた冷たい男は、誤魔化すように後頭部を人差し指で掻く。
「その・・・・死んだと言うのは何かの比喩ですか?」
 そんな露骨な比喩など存在しないと分かっているのに思わず聞いてしまう。
 老婆もそれが分かってか、視線を手元に下ろし、そして上げる。
「言葉を通りさ。私は7歳の時に一度死んだの。そして生き返ったのさ。父の寿命を貰って」
 そう言って、祭壇の前に横たわる傷だらけの父に目をやる。
「私が死んだあの日、父は願ったのさ、よく分からない海の何かにね」

#短編小説
#戦争
#海辺の町
#海の何か

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